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第48話 ティッサフェルネスは正しいことを言う

 三日の行軍ののち、ギリシア傭兵団の前に巨大な人工の壁が立ちはだかった 。

 メディアの城壁。そう呼ばれるその防壁は、焼き煉瓦を黒い瀝青れきせいで固めて築かれた、威圧的なまでの建造物だった 。幅は二十フィート、高さは百フィートにも及び、地平線の彼方から彼方へ、およそ二十パラサングにわたって連なっているという 。


「すげえな……。アテナイの長城だって、これほど高くはねえぞ」

「まるで山を切り出して並べたみたいだ」


 重装歩兵たちが、兜を押し上げて感嘆の声を漏らす。

 だが、壁に穿たれた門を潜り抜けるレオンの心境は、驚嘆とは程遠いものだった。

 高くそびえる壁の合間を吹き抜ける風が、荷車の幌をばたつかせている。数千の足音と車輪の軋みが、焼き煉瓦の壁に反響して不気味な重低音を生み出していた。鼻を突くのは、煉瓦を接着している瀝青の、焦げた泥のような独特の悪臭だ。


(……最悪だ)


 レオンは、指先で黒い瀝青の感触を確かめながら、帳面の端を強く握りしめた。

 兵たちは「巨大な建造物」としてこの壁を見ているが、レオンの目には違うものが映っていた。

 これほど強固な壁を築き、維持できる国家の圧倒的な国力。そして何より、自分たちが今、この巨大な壁の「内側」――バビロンにほど近い、完全な敵地の奥深くへと進み入っているという絶望的な地理的条件だ 。

 もしこの門を背後で閉じられれば、袋のネズミになる。退路を断たれ、補給線という概念すらその瞬間に消滅する。


 城壁を抜け、さらに二日間の行軍で八パラサングを進む 。その間、彼らは二つの巨大な運河を越えなければならなかった 。

 一つは通常の橋が架かっていたが、もう一つは七隻の大きな舟を繋ぎ合わせた舟橋だった 。


「綱を引け! 車輪が舟の隙間に落ちるぞ!」

 ミュロンの怒声が、舟橋の上で波音にかき消されそうになる。

 バウコスたち荷駄組が必死に綱を引き、泥に塗れた荷車を揺れる舟の上へと押し上げている。周辺にはあわ畑に水を引くための無数の細い水路が走り、少しでも道を外れれば車輪が泥濘に深く沈み込む 。


 そんな泥まみれの行軍の傍らを、一パラサングの距離を保って、ティッサフェルネスの軍勢が悠々と並走していた 。

 彼らの陣容は、王族の縁者であるオロンタスの軍勢も加わり、さらに膨れ上がっていた 。オロンタスは王の娘を新しい妻として娶ったばかりであり、その豪奢な天幕や見事な馬立ては、ギリシアの泥臭い傭兵団とは対極の「支配者の余裕」を見せつけていた 。


 舟橋を渡り終え、見晴らしの良い平原に出たところで、小休止の号令がかかった。

 各部隊が陣形を整える中、王側の陣営からティッサフェルネス本人が、ミトリダテスら僅かな随行員だけを連れてギリシア側の将軍たちの元へやってきた。


 彼は白馬に跨がり、通訳を介してクレアルコスたちに語りかけた。

 レオンは、帳簿の集計を口実に、将軍たちの天幕の近くに陣取り、その会話に耳をそばだてた。


『諸君が我々を疑う気持ちは分かる。だが、冷静に周囲の景色を見てほしい』


 通訳の口から紡がれるティッサフェルネスの言葉は、酷薄な悪党の脅しではなく、極めて理性的な「正しい実務者」のそれだった。


『もし私が諸君を滅ぼそうと思えば、手段には事欠かない。我々には十分な騎兵も、歩兵もいる 。それだけではない。この広大な平原、君たちが越えねばならない山々、すべて我々が先回りして封鎖できるのだ 。

 川にしてもそうだ。我々が舟を出し、橋を架けなければ、君たちは一歩も渡れない 。最悪の場合、我々は周辺の野や畑を焼き払い、飢饉を武器にして君たちを倒すこともできる 。……これほど多くの手段がありながら、我々が一つとしてそれを行使していないのは何故か?』


 将軍たちは沈黙していた。ティッサフェルネスの突きつけるロジックには、反論の余地がなかった。


『それは、私が諸君との間に結んだ誓いを重んじているからだ 。私は、諸君という強大な傭兵団を恩義によって味方につけ、私自身の任地へ連れ帰りたいと考えている 。我々の間に、戦う理由などないのだ』


 見事な演説だった。

 条件は整っており、相手の行動の動機も論理的に説明されている。将軍たちの顔にも、次第に「なるほど」という納得の色が浮かび始めていた。


(……正しい。理屈としては、正しい。でも空々しい。徹頭徹尾ウソ…いや罠だ)


 レオンもまた、頭の中ではその論理の完璧さを認めざるを得なかった。

 敵は我々を滅ぼせる。しかし滅ぼさない。なぜなら利用価値があるから。

 政治家や将軍たちが好む、利害関係の冷徹な計算式だ。この理屈に従えば、我々は安全に故郷の近くまで送り届けられることになる。


 だが、レオンの背筋を這い上がる「理屈への嫌悪」は、消えるどころかますます強くなっていた。


「……信じられない」

 レオンは、無意識のうちに呟いていた。


「何がだ、兵站監代」

 背後から、氷のように冷たい声が降ってきた。

 振り返ると、兵站監であるフィロンが腕を組んで立っていた。彼は天幕の会議には参加せず、外から事態を静観していたようだ。


「……ティッサフェルネスの言葉です」

 レオンは、フィロンの眼光に怯みそうになりながらも、帳面を抱え直して言葉を継いだ。

「彼の理屈は正しい。我々がどれほど弱い立場にいるか、地形の不利を並べてみせたあの論理に穴はありません。ですが……だからこそ、恐ろしいんです。彼は『川も、平原も、食糧も、すべて自分が握っている』と高らかに宣言した。それはつまり、彼の気まぐれ一つで、いつでも我々を殺せるという事実の確認です」


 フィロンは表情を変えなかった。ただ、細い目でレオンの顔をじっと観察している。


「市場の価格、案内人が選ぶルート、そしてこのメディアの城壁。すべての要素が、我々を袋小路へと追い込んでいる」

 レオンは早口になっていた。自分の内にある不信感を、どうにかしてこの論理の塊のような上司にぶつけたかった。

「理屈に納得することと、彼らを信じることは違います。僕は、あの男の言葉を信じられない。我々は今すぐ、自分たちの手で補給線を確保し直すべきです」


 一息に言い切ったレオンに対し、フィロンはしばらく沈黙した後、短く息を吐いた。


「……お前の言う通りだ」


 意外な肯定に、レオンは目を瞬かせた。


「あの男は、ただの善意で我々を生かしているわけではない」

 フィロンの言葉は低く、残酷なほど現実的だった。

「将軍たちが納得した以上、決定は覆らない。お前はただの主計代理だ。ティッサフェルネスの言葉に不信を抱こうと、お前が軍議をひっくり返すことはできない。

 そして、将軍たち全員が愚かなわけではない」


 ぐうの音も出ない正論だった。

 レオンには発言権がない。彼ができるのは、帳面に残りの麦の数を書き込み、荷車の車輪の数を数えることだけだ。


「……理屈は理屈として受け入れろ。だが、決して信じるな。

 虚々実々の世界と兵站の世界は、違う。

 お前は数字だけを追え」

 フィロンはそれだけ言うと、きびすを返して歩き去った。

 彼の背中もまた、この休戦の危うさを十分に見抜いているように見えた。だが、彼もまた政治と実務の狭間で、決定を覆すことはしないのだ…いやできないのだろう。


「……はあ」

 レオンは深くため息をつき、その場にしゃがみ込んだ。

 頭が痛い。数日前に市場でナツメヤシの芯を食べすぎた時のような、重く鈍い痛みがこめかみを締め付ける 。


「レオン、偉くなった。次から将軍と呼ぼうか?」


 ふと、頭上から声が降ってきた。

 見上げると、ダフネが槍を肩に担いで立っていた。彼女はレオンの様子を少し離れたところから見ていたらしい。


「別に調子に乗ってるわけじゃない……ただ、自分の無力さに腹が立っているだけだ。罠だと分かっているのに、止められない」

「当然よ。あなたは剣も満足に振れない、しがない帳簿役」

 ダフネは冷たく言い放つと、腰から水袋を外し、レオンの膝の上に落とした。

「あなたの仕事は、将軍たちの誤りを正すことじゃない。将軍たちに説教をすることでもない。将軍たちの選択を支えて、一人でも多くの兵士が飢えずに済むように計算すること。違う?」


 慰めの欠片もない、事実だけを突きつける言葉。

 だが、その乾いた響きが、不思議とレオンの苛立ちを静めてくれた。


「……違わない。その通りだ」

 レオンは水袋を拾い上げ、栓を抜いて一口飲んだ。

 喉を通る水の冷たさが、理屈に溺れそうになっていた頭を現実に引き戻す。


 進軍を告げる角笛が鳴り響いた。

 ティッサフェルネスの用意した「完璧な理屈」に導かれ、軍は再び歩み始める。

 メディアの城壁を越え、豊かなバビロニアの平原を進む彼らの頭上には、目に見えない巨大な蜘蛛の巣が張られている。

 いつかその糸が首に巻き付くその時まで、レオンはただ、手元の荷車の数と、兵士たちの胃袋を満たす麦の量を数え続けるしかない。


 信じたくない予感ほど、よく当たる。

 その法則を裏付けるように、不穏さは一歩進むごとに、確実に軍の足元へと積もっていた。

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