第47話 他人のフリ…綺麗さっぱり他人のフリ…いや敵かな?
土埃の向こうから現れたのは、ティッサフェルネスが率いる王側の本隊だった 。
豪奢な天幕、規律の取れた騎兵隊、そして王族の縁者であるオロンタス将軍の軍勢までが合流し、地平線を埋め尽くすほどの規模に膨れ上がっている 。その威容は、ギリシア傭兵団に「誰がこの地の主か」を無言で知らしめるには十分すぎた。
だが、レオンにとって何よりも気味が悪かったのは、その王側の本隊と歩調を合わせるように進む、見覚えのある部隊の存在だった。
アリアイオスとその配下の兵たち。
つい数日前、クナクサの戦場を共に駆け抜け、血の盟約まで交わしたはずの「現地側の味方」だ 。彼らは今、ティッサフェルネスやオロンタスの軍勢と並走し、同じ陣形に組み込まれるようにして歩いている 。
(……冗談じゃない。いつの間に、あそこまで綺麗に寝返ったんだ)
レオンは、帳面に筆を走らせながら内心で毒づいた。
表面上、アリアイオスから「敵になった」という正式な通達はない。彼らもまた、休戦の合意に基づいて故郷へ帰るのだという建前を持っている。
しかし、行軍の際の距離感や、陣を敷く位置は、饒舌に彼らの本音を語っていた。
「主計殿、今日の宿営地はこの辺りでいいですかね」
隻眼のシラクサが、平原の一角を指差して言ってきた。
「向こうさん――ティッサフェルネスやアリアイオスの連中は、ここから一パラサング(約五キロ)は離れた場所に陣を張るようですぜ。近すぎず、遠すぎず。妙な距離感だ」
一パラサング弱。歩いて一時間程度の距離。
それは、もはや「同じ軍の宿営」ではない。互いの動きを監視するには都合が良く、奇襲を警戒するにも十分な距離だった 。
「……ここでいいとしましょう。荷駄を内側へ寄せて、四方を警戒できるように馬車で防壁を作りましょう」
レオンが指示を出すと、バウコスたち荷駄組が慌ただしく動き始めた。
陣の設営が始まると、兵たちは夕食の支度と駄獣の餌を求めて、周辺の草地や雑木林へと散っていく。
当然のように、一パラサングしか離れていない相手の陣営からも、同じように薪や草を求める兵たちが現れることになる 。
「てめえら、そこは俺たちが見つけた草刈り場だ! 退きやがれ!」
少し離れた雑木林の方から、ギリシア語とペルシア語の入り混じった怒号が聞こえてきた。
レオンがテオドルスを連れて急ぎ足で向かうと、そこでは若手兵のカリアスや数人の重装歩兵が、アリアイオス配下の兵たちと薪の束と草刈り鎌を奪い合い、つかみ合いの小競り合いを起こしていた 。
「主計殿! こいつら、俺たちが刈り集めた草を横取りしようとしやがったんです!」
カリアスが、血の滲んだ唇を拭いながらレオンに訴えかける。相手のアリアイオス兵たちも、負けじと剣の柄に手をかけ、敵意むき出しでギリシア兵を睨みつけていた。
「よせ!
やめてください。剣はダメです!」
レオンが制止の声を上げた時、小競り合いの向こう側から、見事な毛並みの馬に乗った男がゆっくりと歩み寄ってきた。
キュロス敗死の報せを運んできた使者の一人、グルスだった 。
グルスは馬上から冷ややかな視線を投げ下ろすと、自軍の兵たちに短いペルシア語で指示を出し、引き下がらせた。
レオンは、かつて言葉を交わしたこともある彼に向けて、小さく顎を引いて礼の姿勢を見せた。
「……兵たちが迷惑をかけた。互いに物資が入り用なのは分かるが、無用な血は流したくない」
だが、グルスはレオンの言葉に何も答えなかった。
彼はギリシア兵たちの薄汚れた姿を、まるで得体の知れない野犬の群れでも見るような、一切の感情を欠いた目で見下ろしていた。そこに、かつて同じ王弟の旗の下で戦ったという「身内」の意識は微塵もない。
彼は、ティッサフェルネスやオロンタスといった『王の秩序』の側にすでに取り込まれており、その「向こう岸の目」でレオンたちを観察しているだけだった。
グルスは無言のまま馬首を巡らし、アリアイオスの陣営へと去っていった。
残されたギリシア兵たちは、釈然としない怒りと、それ以上に深い「見限られ感」に包まれていた。
「……クソが。ついこの間まで、一緒にキュロス様のために戦ってたんじゃねえのかよ」
カリアスが、手の中の草刈り鎌を地面に叩きつけて吐き捨てた。
その言葉が、レオンの胸にも重くのしかかる。
(裏切られた。……いや、そう感じる僕が間違っているんだ)
レオンは、手元の帳面を強く握りしめた。
アリアイオスたちは裏切ったわけではない。雇い主であったキュロスが死に、契約が消滅した以上、彼らが自分たちの生存のために王側に擦り寄るのは、実務としては極めて正しい判断だ 。彼らからすれば、王の恩赦を受け入れることを拒み、敵地のど真ん中でまだ武装を解かないギリシア傭兵団の方が、よほど異常な集団なのだ。
理屈では分かっている。
だが、同じ火を囲み、共に戦場で血を流した相手が、たった数日で完全に「別の陣営の顔」に変わってしまった現実は、冷たい棘のように感情を傷つけた。
夜になり、宿営地には無数の焚火が点った。
ギリシア側の陣営から平原の向こうを見渡すと、一パラサング離れた暗闇の中に、ティッサフェルネスやアリアイオスたちの陣営の火が、まるで包囲する星の群れのように浮かび上がっている 。
互いの夜警が、その離れた火光を見張り合う。休戦中でありながら、そこに漂う空気は完全に「敵対者」のそれだった 。
「……坊ちゃん、こんなとこで突っ立ってると風邪を引くぞ」
夜警の見回りをしていたミュロンが、背後から声をかけてきた。
彼は手にした薪の束をレオンの足元の火床に放り込み、火勢を強くする。
「ミュロン……あちらの火の数、昨夜よりも増えているように見えます」
レオンは、遠くの焚火から視線を外せずに言った。
「ティッサフェルネスの本隊が合流した影響でしょうが……あの巨大な陣営の端に、アリアイオスの部隊も組み込まれている。彼らはもう、我々とは絶対に相容れない側に立ってしまった」
ミュロンは、顔の半分を火光に照らされながら、鼻を鳴らした。
「当たり前だ。あいつらは、てめえらの命が惜しいから強い方に尻尾を振った。それだけのことだ。……お前、まさかまだ、あいつらが味方に戻るなんて甘い計算を帳面に入れてねえだろうな」
「入れていませんよ。……もう、彼らを頼れる味方として計算することはできないと、今日ではっきりしました」
レオンの言葉に、ミュロンは少しだけ目尻を下げた。
「ならいい。計算が合うなら、それで上等だ」
ミュロンはそう言うと、レオンの肩をバンと乱暴に叩いた。
「俺たちの身内は、今ここで同じ火に当たって、同じ泥にまみれてる連中だけだ。向こうの火の数を数える暇があったら、こっちの荷駄の紐でも点検してこい」
その粗っぽい言葉は、レオンを明確に「こっち側(現場の連中)」として扱うものだった。
学問の塔から来たよそ者で、有力市民の坊ちゃん。そう呼ばれていた自分が、いつの間にかこの泥臭い現場の男から、身内として線を引かれている。
いまだに坊ちゃんとは呼ばれているが…
ふと、反対側の横から温かいものが差し出された。
「ほら、飲みなさい」
ダフネだった。彼女は、煮出した酸い汁の入った木杯をレオンの手に無言で押し付けた。
「冷えるわ。あんたが倒れたら、誰が明日の配給を数えるのよ」
ダフネはレオンの隣に立ち、やはり遠くのアリアイオスの陣営を睨みつけている。彼女は決して慰めの言葉を口にしないが、冷たい風を遮るように風上に立ち位置を変えてくれていた。
ミュロンの乱暴な手と、ダフネの無言の位置取り。
その二つの気配に挟まれて、レオンは木杯の熱を両手で包み込んだ。
(……味方の線引きは、もう済んだんだな……傭兵の理屈ではそういうもんなんだろう……)
感情としては、まだ彼らの寝返りを「裏切り」と感じてしまう痛みが残っている。
だが、実務官としての計算は終わっていた。アリアイオスはもう味方ではない。今後、彼らから食糧の融通や情報の共有が得られることは二度とないだろう。
自分が生かすべきは、今この火を囲んでいるギリシア人だけだ。
「……美味いですね、これ」
レオンが木杯の汁をすすると、ダフネが呆れたようにため息をついた。
「ただの泥水みたいな味でしょうが。舌まで馬鹿になったの?」
レオンは小さく笑い、帳面を懐にしまった。
誰を味方と見てよいか、その輪郭は固まった。
だが、それは同時に、これから本格化するティッサフェルネスという巨大で理屈の通る「本物の敵」と、たった一つの陣営で対峙しなければならないことを意味していた。
離れた焚火の光が、バビロニアの夜風に揺れて不吉な影を作っている。
休戦という名の薄氷を踏むような行軍は、いよいよその本性を現し始めていた。




