第46話 敵のことば
泥と棕櫚の橋掛けに苦しめられた運河地帯を抜けると、風景は再び表情を変えた。
王側が用意した案内人たちの先導で、ギリシア傭兵団はバビロニアの豊かな平原地帯を南東へと進んでいた。頭上には容赦ない太陽が照りつけているが、時折吹き抜ける風には確かな水と緑の匂いが混じっている。
「前方、川幅が狭まる。隊列を三列から二列へ絞れ!」
伝令官のケリュクスが、腹の底から響く大声で各部隊に指示を触れ回る。その声を聞いて、重装歩兵の百人隊長や軽装歩兵の半隊長たちが、怒号と杖を交えながら兵の列を細くしていく。
レオンは、その一連の隊列変更の指示が下るまでの「空白の時間」に、胸の奥で澱のように溜まる居心地の悪さを感じていた。
(……指示が来るまで、我々は一歩も動けない。完全に彼らの『言葉』に支配されている)
先頭を馬で進むミトリダテスは、振り返るたびに常に愛想の良い、上品な微笑みを浮かべている。しかし、彼が発するのはペルシア語だ。ミトリダテスが何かを語り、その傍らに控える通訳がギリシア語に直し、それを聞いたクレアルコスたち将軍が判断を下して、ようやく伝令が走る。
この数秒、あるいは数十秒のタイムラグ。
自分の命が、敵の舌先から紡がれる異国の言葉と、通訳のさじ加減一つに握られているという事実が、真綿で首を絞められるような支配の圧を生んでいた。
軍は、いくつかの村を通り抜けた。
そこは、カイストロス平原で見たような略奪し尽くされた寒村や、泥まみれで何もなかった運河地帯とは違い、確かな「生活」の匂いが満ちていた。
日干し煉瓦で作られた家々の間を縫うように歩くギリシア兵たちの横を、現地の村人たちが遠巻きに、しかし日常の作業の手を止めずに見つめている。
村の共同水汲み場では、色鮮やかな布を被った女たちが、重そうな素焼きの水桶を頭に乗せて順番に水を汲んでいる。羊や山羊の群れが、長い杖を持った少年に追われて草地を移動し、乾いた土埃を上げている。庭先では、老人が編みかけの籠を膝に乗せ、手を休めることなく蔦を編み込んでいた。
「坊ちゃん、よそ見してっと牛の糞を踏むぞ」
ミュロンが、荷車の列を整えながら嫌味を飛ばしてきた。
「分かっています。……ただ、少し妙な気分になっただけです」
レオンは、帳面から顔を上げて村人たちを見た。
ここは敵地だ。昨日まで殺し合いをしていた相手の領土のど真ん中である。だが、村人たちが水桶を支える手つきや、家畜を追う仕草は、レオンの故郷であるボイオティアの農民たちと何ら変わりはない。彼らにとって、ここは戦場などではなく、ただの日常を営む生活の場なのだ。
一時雇いの道案内として軍に同行している現地の荷駄引き、ナブーは、そんなレオンの視線など意に介さず、道端の草を無造作に引き抜くと、自分の引く駄獣の口に押し込んだ。
「この草は食う。あっちは腹を壊す」
ナブーの言葉は常に短いが、そこには政治や大義名分が入り込む隙のない、純粋な土地の知恵があった。彼の手つきには、この土地で生まれ育った者だけの確かな実力がある。
「主計殿、ちょっといいですかね」
村の小さな広場での買い出しを終えた隻眼のシラクサが、木札のついた麻袋を抱えて小走りで戻ってきた。彼の額には汗が滲み、たった一つの目玉が油断なく周囲をギョロギョロと見回している。
「村で買い付けた穀物ですがね、どうも変なんですよ」
「変とは?」
「荷札の括り方ですよ。昨日までの村とは、紐の結び目が違う。それに……」
シラクサは麻袋をレオンの前に突き出した。
レオンは、そこにくくり付けられた木札を手に取った。帝国アラム語で書かれた納入記録だ。レオンはペルシア語の会話にはついていけなくとも、学問の塔で齧った知識のおかげで、この手の実務文書ならある程度は拾い読みができる。
(……文字がかすれている。最近書かれたものじゃない。それに、この結び目の癖)
「シラクサ、これは村の農民が出した余剰麦じゃない。備蓄米だ。どこかの巨大な倉から、計画的に運び出されてここに配置されたものだ」
「へえ」とシラクサは片目をすがめ、低く唸った。「そいつは薄気味悪いですね。まるで、俺たちがここを通るのがずっと前から分かっていて、あらかじめ餌が用意されていたような手回しだ」
レオンは木札を帳面に挟み込み、前方に視線を戻した。
先頭では、ミトリダテスと実務配属先の将軍であるプロクセノスたちが、並んで馬を歩かせながら何やら込み入った話をしている。ミトリダテスは相変わらず優雅な笑みを崩さず、早口のペルシア語で何かを語りかけている。それは通訳の口を通る頃には、ひどく当たり障りのない、儀礼的な内容に丸められているように見えた。
政治的な駆け引きの会話だ。
今のレオンには、その言葉の真意を掴み切ることはできない。彼らが何を約束し、何を妥協しているのか。自分はただ、その結果として回ってくる荷駄の数を数え、その中に潜む毒に怯えることしかできないのだという事実が、強烈な「外様感」としてレオンを襲った。
(……僕は、彼らの言葉を信じられない。いや、信じてはいけないんだ)
レオンの中で、一つの明確な軸が固まりつつあった。
通訳越しの美しい言葉や、笑顔で交わされる政治的な約束は、いくらでも嘘を吐ける。こちらを安心させるための罠を仕掛けることなど造作もない。
だが、村人が水汲み場に並ぶ順番、家畜の毛並み、籠の編み方、そして荷札の結び目といった「物の流れ」や「実務の痕跡」は、決して嘘を吐かない。
自分が信じ、頼るべきは、耳に入る曖昧な言語ではなく、目に見える現物と数字だけだ。それでしか、この敵地で罠を見抜く術はない。
思考の泥沼にはまり、荷車の列からふと足が遅れそうになったレオンの脇腹を、硬い槍の石突きが軽く小突いた。
「立ち止まるな。置いていかれるわよ」
ダフネだった。
彼女は、レオンが将軍たちの会話に気を取られ、足元がおぼつかなくなっているのを察し、無言で立ち位置を変えて歩調を合わせてくれていた。慰めの言葉など一つもない。ただ、彼女がレオンの死角を補うように歩くその身体の位置取りが、レオンの意識を冷たい現実へと引き戻す。
「……ありがとう、ダフネ。少し考え事をしていた」
「言葉なんて分からなくていいのよ」
ダフネは前を向いたまま、日焼けした横顔で冷たく言い放った。
「あんたは、目の前の荷車の中身だけ数えていればいい。あたしは、あんたの周りの敵だけ数える。それで十分でしょう」
彼女の乾いた、しかし迷いのない声に、レオンの肩から少しだけ無駄な力が抜けた。自分がすべてを抱え込む必要はないのだと、その無愛想な背中が教えてくれているようだった。
その時、前を歩いていたナブーが不意に駄獣の手綱を引き直した。
「俺の仕事はここまでだ」
ナブーは無表情なままレオンを振り返った。
「この先は、俺の村の土地じゃない。別の者が案内する」
彼はそれだけ言うと、約束の銀貨を無造作に懐へねじ込み、あっさりと背を向けて去っていった。大義も何もない。この異国で唯一、確かな生活の手触りを感じさせてくれた男が姿を消し、レオンの周囲に再び不穏な空気が満ちていく。
ナブーが去った直後、前方の平原から、新たな土埃がもうもうと上がっていた。
近づいてきたのは、ティッサフェルネスの本隊、そして彼らに同調するように並走を始めたアリアイオスの部隊だった。
ほんの数日前まで、同じ陣営で火を囲み、血の盟約を結んだはずのアリアイオスの兵たち。だが、遠目に見える彼らの顔つきと陣立ては、すでにギリシア傭兵団とは違う、完全に「敵側」だった。




