第51話 呼ばれた将軍たち
橋を越えてしばらく。
帳面の更新が、完全に止まっていた。
正確に言えば、支出――消費の欄だけがだらだらと書き足され続け、収入や移動の記録を記すべき頁は、もう二十日以上も白紙のままだ。
「……また、麦の相場が上がっています。昨日のさらに一割増しです」
背後でテオドルスが、すり減った木簡を握りしめたまま震える声で報告した。彼が抱えている予備の羊皮紙も、長引く野営の湿気と手汗で波打っている。使い回された配給印の文字はかすれ、軍の疲弊をそのまま写し取ったかのようだった。
ペルシアの王と休戦を結んでから、ティグリス川を越え、ザパタス川のほとりに至るまで、ギリシア軍はただ「待つ」ことを強いられていた 。
王弟という巨大な重力を失った二万の集団......多少減ったとはいえ、まだ約二万といえる規模だった……は、ティッサフェルネスの用意する市場に首根っこを掴まれ、どこへ向かうべきかも定まらないまま、泥濘のような時間に足を取られている。
レオン・カルディアスは、手元の帳面から目を上げ、宿営地の外へと視線を向けた。
一パラサング(約五キロ)ほど離れた場所に陣を敷いているアリアイオスの軍勢は、日を追うごとに冷淡さを増している 。かつては同じ火を囲んで酒を飲んだ現地兵たちも、今では薪拾いや草刈りの場で顔を合わせるたび、露骨に敵意を剥き出しにして小競り合いを起こすようになっていた 。
「坊ちゃん、これを見な」
足音荒く近づいてきたミュロンが、不機嫌そうに一頭の驢馬を引き寄せてきた。
その駄獣は、あばら骨が浮き出るほど痩せ細り、虚ろな目で地面の土を舐めようとしている。
「飼葉がもう底を突いてる。兵たちだって同じだ。カレスのところの重装歩兵どもが、『なぜ動かない』『なぜこんなに飯が減らされる』って、配給幕の周りで槍の石突きを鳴らして毒づいてやがる」
「分かっています、ミュロン。ですが、市場からの供給自体が絞られているんです」
レオンは苛立ちを隠せずに答えた。
「……このままここで停滞を続ければ、我々は戦う前に干上がる。ティッサフェルネスが約束した『平和的な護送』も『市場の提供』も、我々を緩やかに殺すための毒にしか見えない」
レオンは、数字という冷徹な証拠を通して、この軍を包囲している「絶望の輪郭」を見つめていた。
動けば休戦協定違反として補給を断たれ、全滅する 。留まれば、少しずつ物資の値段を吊り上げられ、飼葉と兵糧から腐っていく。まさに真綿で首を絞められるような日々だった。そこへ、本営からの呼び出しがかかった。
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「ティッサフェルネスとの直接会談が決まった」
プロクセノス将軍の言葉に、居並ぶ百人隊長たちの間にざわめきが走った。
「向こうは、互いの疑念を晴らすために将軍たちが直接来ることを求めている。これ以上の不信を積み上げるのは、軍を内側から崩壊させるだけだ。クレアルコス殿が会談に応じることを決断された」
それは、あまりにも危うい誘いだった。
将軍たちが一度に本営を離れる。その危険性を指摘する声も上がったが、総司令官格のクレアルコスがそれを押し切ったという 。彼もまた、この停滞という名の蟻地獄から抜け出すために、博打を打つしかないと考えているようだった。
「フィロン殿、本気ですか」
幕舎の片隅で、荷造りを始めた自らの上官を見て、レオンは思わず声をかけた。
フィロン兵站監もまた、決裁印と大量の書類を革袋に詰め、会談に随行する準備を進めている。
「私は実務官だ、レオン。向こうが提示する休戦条件が、本当に我々の兵站を支え得るものか、その場で確認せねばならん」
フィロンの手は止まらない。
「市場の供給量は適正か。麦の計量単位はどうすり合わせるか。ダレイコス金貨と現地の銀の交換比率はどうなるか。……私が直接行って釘を刺さねば、将軍たちは体面ばかりを気にして、三日で全軍が飢え死にするような条件に平気で合意してしまう」
フィロンの言葉は、完璧に論理的だった。彼がこの軍の胃袋を握る最高責任者である以上、補給線の交渉を人任せにはできない。
だが、レオンの背筋には、ひどく冷たい嫌な汗が流れていた。
「……罠かもしれないという計算は、なされていないのですか」
レオンは上官に一歩詰め寄った。
「将軍たちだけでなく、兵站の要であるあなたまでが一度に陣を出る。あまりにも都合が良すぎます。もし向こうが、頭脳と胃袋を同時に切り落とすつもりなら……」
「その危険性は百も承知だ」
フィロンは、感情を完全に排した冷たい目でレオンを遮った。
「だが、行かねば我々はここで腐るだけだ。停滞による兵の不満は、すでに限界を超えている」
フィロンは革袋の紐をきつく縛り、レオンにまっすぐ向き直った。
「お前はここに残り、帳簿と配給を守れ。何があっても現場を止めるな。……もし我らが戻らねば、次にそのペンを握る者は、私の代印をもっているお前だ、分かっているな」
それは、実務者としての重すぎる遺言のように聞こえた。
レオンは何も言い返せなかった。自分はただの兵站監補に過ぎない。危険の輪郭を誰よりも正確に見抜いていながら、それを変える権限も、この濁流を止める力も持っていないのだ。
「……レオン」
不意に、傍らに立っていたダフネが短く声をかけてきた。
彼女は、本営の前に集まり始めた会談へ向かう者たちの背中を、射抜くような鋭い目で見つめている。
「嫌な予感がする。……そう言いたいんだろう?」
「……ああ、そうだね。いろんな予兆があるけれど、つまるところ、あそこへ行ってはいけないと、ぼくの勘が叫んでいるんだ……でもうまく説明できない」
いつもなら「坊ちゃんの臆病風」とちくりと刺すはずのダフネが、この時ばかりは否定しなかった。
彼女はただ、自身の短剣の柄に置いた手にわずかに力を込め、レオンの隣で油断なく周囲を警戒している。彼女のその無言の肯定が、レオンの嫌な予感をさらに真っ黒な確信へと変えていく。
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会談へ向かう一団が動き出した。
五人の将軍と、二十人の隊長。そして護衛と買い出しを兼ねた二百人ほどの兵たちが、ティッサフェルネスの陣営へと歩を進めていく 。先頭を歩くプロクセノス将軍の紫の外套が、風に揺れている。
彼は、レオンがこの異国の軍に所属している「法的な根拠」であり、有力市民としての所属の柱だった。
その少し後ろを、馬に乗って進むフィロンの真っ直ぐな背中が見えた。
彼は、レオンをこの戦場へ繋ぎ止め、現場のすべての判断を預ける「実務の柱」だった。二つの異なる傘。
レオンを守っていたその二つの背中が、夕闇の迫る平原の彼方へ、ゆっくりと溶けるように遠ざかっていく。(行かせてはいけない。あの扉の向こうに、生きて帰る道などない)レオンの内心の叫びは、ついに喉から外へ出ることはなかった。
彼はただ、書き足すことのない重い帳面を腕に強く抱えたまま、土煙の向こうに消えていく足音をいつまでも聞き続けていた。
来るはずのない使者を待つ、長く恐ろしい夜が始まろうとしていた。
そんな中、レオンが気になったのは一つ。
(プロクセノス将軍の馬が、いつもの馬と違うな…?)
ということだった。




