第43話 休戦は、助けにもなるが、首輪にもなる
少し時を戻す。
昨夜の驢馬一頭から始まった恐慌の余波は、朝靄の中にもまだ薄く張り付いていた。
レオンは冷たい空気の中で、手元の帳面と目の前の現実を見比べていた。
水袋の数は減り、駄獣の背に括り付けられていたはずの穀物袋は、昨夜の騒ぎの中でいくつか破れ、中身が土に還っていた。
未開封の穀物袋の数は、テオドルスが震える手で書き写した控えの数字と合っていない。だが、今は数字の辻褄を合わせるよりも、目の前の兵たちの腹を満たすことが先決だった。
「主計殿、火は熾したんですがね……」
若手兵のカリアスが、すすけた空鍋を前にして恨めしそうな声を上げた。
「煮るものがねえんです。配給はまだですか?」
レオンは唇を噛んだ。
配給の札は使い回しで汚れきっているが、そこは問題ではない。
配ろうにも肝心の現物がないのだ。
戦場跡で拾い集めた驢馬の肉や得体の知れない干し肉は、昨日のうちに食い尽くしていた。
「……待て。今、荷駄組と残りの穀物のすり合わせをしている」
言葉を濁すしかない。事実、全軍を満たすだけの朝飯は、もうどこにもなかった。
腹を空かせた兵たちの苛立ちは、朝の冷気よりも鋭く陣営に満ちていた。
重装歩兵の顔役であるカレスなどは、兜を脇に抱えたまま、配給幕の方を露骨に睨みつけている。彼らにとって、戦って勝ったのに飯が出ないというのは、契約不履行に等しい裏切りであり、そんなハメになっていることは屈辱だった。
そこへ、陣の最前列からざわめきが波のように伝わってきた。
「王側からの使者だ!」
見張りの声に、兵たちの空気が一変した。空腹の苛立ちが、一瞬にして張り詰めた警戒へと変わる。
「並べ! 無防備な姿を見せるな!」
ミュロンの怒声が飛んだ。
彼の指示は早かった。まだ眠気や疲労を引きずっていた兵たちを蹴り飛ばすようにして立たせ、即座に隊列を組ませる。朝靄の中で、ギリシア傭兵たちの青銅の兜と盾が、見事な壁となって並んだ。
レオンも慌てて帳面を閉じ、ダフネの背後に回った。
ダフネは何も言わず、短い槍を軽く握り直してレオンの前に立つ。その位置取りだけで、彼女がいつでも動ける状態にあることが分かった。
現れた使者の一団は、昨日「武器を捨てろ」と高圧的に要求してきた時とは打って変わり、静かな足取りだった。先頭に立つのは、王族の縁者と思われる身なりの良いペルシア人だった。彼の手には、交渉の意志を示す伝令杖が握られている。
通訳を介して届けられた口上は、驚くほど柔らかいものだった。
『偉大なる王は、あなたがたとの間に休戦を結ぶ用意がある』
その言葉が伝達された瞬間、盾を構えていた兵たちの間に、ほっとしたような息遣いが漏れた。
(休戦……)
レオンも内心でその言葉を反芻した。
もしそれが本当なら、泥沼の撤退戦を避けられる。帰還の道筋が見えるかもしれない。誰もがそう期待したくなるような、甘い言葉だった。
だが、軍の先頭に立つスパルタ系の将軍クレアルコスの反応は違った。
彼は、伝令杖を持つ使者たちの前へ歩み出ると、ひどく機嫌の悪い、しわがれた声で言い放った。
「我々に、まだ朝飯はない」
通訳が慌ててその言葉を訳す。クレアルコスは使者たちをねめつけ、さらに続けた。
「朝飯も食わせずに、ギリシア人に向かって休戦の言葉を口にできる勇気のある者がいるなら、お目にかかりたいものだ。まずは戦が必要だ、腹が減っていては休戦の話などできん」
乱暴な物言いだった。だが、その声が後方まで伝わってくると、カリアスをはじめとする兵たちの顔に、微かな笑みが浮かんだ。
大義や政治の駆け引きなど、彼らにはどうでもいい。それよりも「まず飯を食わせろ」と敵の使者に言い放ってくれた将軍の言葉は、兵たちの空腹と苛立ちを正確に代弁していた。
使者たちは顔を見合わせ、一度陣営を引き返していった。王の側近か、あるいはティッサフェルネス本人が近くに控えていて、指示を仰ぐためだろう。
使者が去り、一時的に緊張が解けた陣営の端で、レオンは再び帳面を開いた。
休戦。甘美な響きだが、その裏にある現実を考えると、背筋が薄ら寒くなる。
「代理。今の在庫はどうなっている」
ふいに背後から声をかけられ、レオンは肩を揺らした。振り返ると、兵站監であるフィロンが、いつもと変わらぬ冷徹な眼差しでこちらを見下ろしていた。
「……現在、全軍に配給できるだけの穀物はありません。薄めようにも飲める水があまりありません。
雑炊にしても、もって半日分です」
レオンは事実だけを短く報告した。
「そうか」
フィロンは感情を交えずに頷いた。彼の視線は、遠く王側の陣営が敷かれている方角へ向けられている。
「休戦は、我々にとっての命綱だ」
フィロンは、まるで講義でもするかのような平坦な声で言った。
「だが、相手の言葉がどれほど柔らかくとも、補給の栓を握るのは向こうだ。彼らが『市場を開く』と言えば我々は食いつなげるが、『市場を閉じる』と言えば、その瞬間に我々は飢え死にする」
レオンはため息が出そうになり、フィロンの前ということで堪えた。
昨日までは、敵地から略奪してでも食糧を奪うという選択肢があった。だが、休戦を結び、相手の案内と市場に頼ることになれば、我々の命は完全に敵の手のひらの上に乗ることになる。
だがもう、徴発という名で略奪する先すら無くなっていたのが実態だ。
まぁ、対価はもらえると言ってと、相手が納得していないまま物資を持っていくので、ほぼ略奪である。
「……受けるしかないが、信じてはいけない、ということですね」
レオンが口にすると、フィロンは視線をレオンに戻し、短く頷いた。
「その通りだ。受けると信じるは別だ。連中がどれほど友好的な顔を見せようと、お前は帳面の数字と、荷駄の数だけを見失うな。事実と感想を混同するなよ」
それだけ言い残し、フィロンは再び将軍たちの集まる幕の方へと歩き去っていった。
残されたレオンは、自分の手が微かに冷たくなっているのを感じた。
休戦は命綱だが、首に巻かれる縄にもなる。つまりは首輪だ。
首輪をつけられ、餌を与えられることで、いつの間にか牙を抜かれ、最後には屠殺場へと引かれていく。そんな光景が脳裏を過った。
(僕は、なんて嫌な考え方をするようになったんだ)
レオンは自嘲気味に息を吐いた。
少し前までなら、休戦という言葉にただ安堵していただろう。だが今は、兵たちの喜ぶ顔よりも、使者の顔色よりも、手元の在庫と「誰が補給の決定権を持っているか」という理屈ばかりが先に立つ。
現実的すぎる自分の思考回路が、ひどく冷酷で、人間離れしたものに思えて嫌気がさした。
「レオン」
ダフネが声をかけてきた。彼女はレオンの顔色を見て、少しだけ眉をひそめている。
「どうかしましたか」
「いや。また、何か余計な先回りをして勝手に絶望してる顔だったから」
痛いところを突かれ、レオンは言葉に詰まった。ダフネは長い慰めなど口にしない。ただ、腰に下げていた自分の水袋を外し、レオンの胸に無言で押し付けた。
「水でも飲んで、
少し頭を冷やす」
「……ありがとうございます」
少しだけ口をつけた水は、生温かかったが、乾いた喉には心地よかった。
それからいくらも経たないうちに、王側の使者が再び戻ってきた。
今度の口上は、ギリシア兵たちにとって最高のものだった。
『王は休戦を承認された。これより、食糧を手に入れられる市場のある村へと、我々が道案内をしよう』
「市場だ!」
「飯が食えるぞ!」
陣営のあちこちから、今度こそ心からの歓声が上がった。
カリアスも隣の兵と肩を叩き合い、カレスたち重装歩兵も兜の紐を緩めて破顔している。
市場。
その言葉の魔力は絶大だった。兵たちの顔に血の気が戻り、絶望的な敗走の空気が、一瞬にして弛緩していくのが分かった。
「……さあ、坊ちゃん。仕事の時間だ」
ミュロンが、荷車の縄を締め直しながら声をかけてきた。その顔には、若手兵のような無邪気な喜びはない。あくまで「飯が食えるなら列が保てる」という、現場の実務者としての乾いた納得があるだけだった。
「ええ。移動の準備をします」
レオンは帳面を閉じ、テオドルスに荷駄の再集計を命じた。
兵たちは休戦と市場に安堵し、足取りも軽く案内の兵に従って歩き始めている。
だが、レオンの胸の奥底にこびりついた「気分の悪い納得」は、どうしても消えなかった。
我々は今、自ら敵の用意した首輪に首を突っ込み、彼らが引く綱の先へと歩き出しているのではないか。
遠く、まだ見ぬ市場の気配を感じながら、レオンは重い足取りで歩き出した。




