第42話 朝まで秩序を保つには
ほっとしたのも束の間。
狂乱の代償は、泥まみれの荒野に無惨な形で散乱していた。
一頭の驢馬が引き起こした恐慌パニックが過ぎ去った後、軍営はまるで嵐が吹き荒れた直後のような有様だった。ひっくり返った荷車、泥に沈んだ穀物袋、踏みにじられた毛布、そして持ち主のわからない青銅の盾。
夜の冷気が容赦なく体温を奪っていく中、レオンは微弱な火魔法を指先に灯し、ひしゃげた木箱の上に広げた配給帳を睨みつけていた。
「レ、レオン様……第十二半隊の歩兵が六名足りません。それから、第四荷駄車の荷縄がちぎれて、中身が半分ほど……」
従者のテオドルスが、震える声で羊皮紙の控えを読み上げる。彼の顔は煤と泥で汚れ、泣き出しそうだった。
「なんとも......その六名は『消えた』んですかねぇ、それとも『別の隊列に紛れ込んでいる』のか、どっちでしょうね?」
「そ、それは……暗くて、誰がどこにいるのか……」
テオドルスの言葉が尻すぼみになる。無理もない。
「ああ、ごめん。イジワルを言ったわけじゃないんだ…独り言みたいなものだよ」
月明かりさえないこの泥濘の中で、一万を超える人間の正確な位置を把握するなど、不可能に近い。
(……クソッ。あまりにまずい。帳面がグズグズに滑っている。この暗さじゃ現物と噛み合わせることもできない…)
レオンは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
学問の塔で叩き込まれた実務の基本は、「記録と現実を一致させること」だ。だが今、テオドルスが読み上げる古い数字は、目の前の泥まみれの現実と何一つ噛み合っていない。帳面上の数字に固執すれば、現場の混乱はさらに深まるだけだ。
「主計殿、火番の交代をしてきましたけど……」
泥だらけの顔をした若手兵のカリアスが、息を切らせて駆け寄ってきた。
「南側の陣、火の数が三つ減ってます。灰も冷めてました。あそこにいたはずのトラキア兵の連中、やっぱり戻ってきてませんよ」
灰は嘘をつかない。人がいなくなれば、火は消えるし、時間が経てば、冷える。
レオンは帳面から目を離し、暗闇の中で蠢く兵士たちの影を見渡した。恐怖と疲労で限界を超え、立ったまま眠りそうになっている者すらいる。
(……このままじゃ、朝までもたない)
もしこの状態で本当に敵の夜襲を受ければ、今度こそ全滅だ。あるいは、夜明けとともに王の軍隊が整然と現れたら、この「泥棒市」のような惨状を見ただけで、彼らは交渉すらせずに蹂躙を始めるだろう。
「テオドルス、その控えはもういいです。古い数字は捨てましょう」
レオンの言葉に、テオドルスが弾かれたように顔を上げた。
「す、捨てるんですか!? でも、それでは誰に何を配ったか……」
「今重要なのは、『誰がどこにいるべきだったか』じゃない。『今、目の前に何人いて、どれだけの荷が動かせるか』なんですよ」
レオンは帳面を閉じ、懐にねじ込んだ。
面倒だが、実棚しかない。
管理への執着が、彼の頭を急速に冷やしていく。
すべてを完璧に元通りにするのは不可能だ。ならば、最低限の「形」だけを朝まで保つ。それ以外のすべてを切り捨てる。
「バウコス!」
レオンは、ひっくり返った荷車の前で悪態をついている古参の荷駄頭を呼んだ。
「その車軸が折れた荷車、直すのにどれくらいかかるか……肌感でいいんでわかりますか?」
「明るくならねえと無理だ。それに、車輪の木が割れてやがる」
「なら、捨てませんか?」
「はあ!?」
「中身のうち、未開封の穀物袋だけ無事な車に移し替えましょう。濡れた布や嵩張る天幕は全部泥の中に置いてきましょう。駄獣の背中にも限界があります」
バウコスが信じられないという顔でレオンを見た。
「おいおい主計殿、天幕を捨てりゃ、明日の夜は野宿だぞ?」
「今夜死ぬよりはマシでしょう。荷を減らして、列の隙間を詰めて、全体の長さを短くしましょう」
レオンの断固たる声に、バウコスは舌打ちを一つして「野郎ども、手伝え!」と部下たちに怒鳴り始めた。
「ミュロン」
レオンは振り返り、剣の柄に手を置いて周囲を警戒しているミュロンを見据えた。
「車列の穴を埋めます。所属不明の兵がいたら、無理に元の隊へ戻そうとせず、その場の一番近い荷台隊に組み込んでください。頭数さえ合えば、今はそれでいい」
「……帳簿役が、ずいぶんと大雑把な指示を出すじゃねえか」
「敵前逃亡だとか持ち場を離れただとかは、今はどうでもいいです。
将軍達にバレる前に、なんとか形にしてください」
ミュロンはニヤリと笑ったが、その目には明確な承諾の色があった。
「わかった。だが、言うこと聞かねえ馬鹿がいたらどうする?」
「容赦なく槍の柄で殴りつけて、列に押し込んでください。朝までに『軍隊』の形を作れなければ、全員死にます。
しかも、この状況なら真っ先に、荷駄が狙われるんじゃないですかね?
なんせ目立ちますから」
「違いねえ」
ミュロンは短く応じると、暗闇の中へ歩き出した。彼の荒々しい、だが的確な指示の声が響き始めると、バラバラだった兵士たちが、まるで羊の群れが牧羊犬に追われるように、少しずつ列の形を成していく。
(……これでいい。僕の仕事は、きれいな帳面を作ることじゃない)
冷たい自己嫌悪が胸の奥をよぎる。荷を切り捨て、人を単なる「頭数」としてパズルのように当てはめる。それは、かつて自分が軽蔑していた、血の通わない数字の操作そのものだった。
だが、そうしなければ彼らを「生かして帰す」ことはできない。
「レオン」
不意に、真横から声がした。ダフネだ。
彼女は片手に自分の短槍を持ち、もう片方の手で、無造作に結ばれた朝の配給袋をいくつか提げていた。
「先に、食べ物の袋を整えて。
兵士は腹が減ればまた狂う」
彼女の言葉は、氷のように冷たく、そして正しかった。
休戦の条件提示が来るにせよ、再び戦いになるにせよ、腹が空いていては兵は動かない。
何より飢えと寝不足は、簡単に人を狂わせると習った。それこそダフネのいう通りのことを。
「……ああ、そうですね。テオドルス、カリアスたちにも手伝ってもらって
未開封の穀物袋から、今すぐ配給を!
さっきこぼれてしまったものを追加で入れてしまいましょう。
量は少なくていいので、とにかく全員の手に何か、おかゆの一杯、いや一口二口でもいいのであったかい食べ物が回るようにしましょう!」
レオンの指示で、若手兵たちが泥だらけの袋を抱えて走り回る。
眠って歩くような足取りの兵士たちも、手に食い物を握らされると、わずかに目に生気を取り戻し、前後の間隔を詰めていく。
夜の闇が、少しずつ薄れてきていた。
東の空が白み始め、冷たい朝靄が荒野を覆っていく。
やがて、完全に夜が明けた時、そこには奇跡のような光景が広がっていた。
泥と疲労に塗れながらも、一万を超えるギリシア傭兵たちは、会戦当日とまったく同じ位置取りで、整然と隊列を組んでいたのである 。
外側には青銅の盾を構えた重装歩兵、その内側に軽装歩兵、そして中央には固く結集された荷駄と非戦闘員。
無防備な者は一人もいない。外見上は、完璧な「勝者の軍隊」がそこにあった。
(……保った)
レオンは、配給帳を握りしめたまま、小さく息を吐いた。
中身はボロボロで、切り捨てた荷も多く、帳面の数字は完全に死んでいる。だが、外から見れば、彼らはまだ「恐るべきギリシアの重装歩兵」のままだ。
その外見上の秩序が、どれほどの意味を持つか。それはすぐに証明された。
朝靄の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
王側からの使者が、休戦と条件提示のためにやって来る気配だった。彼らがもし、数時間前のあの狂乱状態や、泥棒市のような惨状を見ていれば、交渉など最初から成立しなかっただろう。
レオンは冷たい指先を擦り合わせながら、使者の姿を待った。
夜は越えた。だが、それは単に、首に巻かれる縄の感触を確かめるための、新しい朝の始まりに過ぎなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
驢馬一頭から始まった騒ぎのあと、今度は朝まで形を保てるか、という回でした。
次話からは休戦と補給まわりの少し違う種類の息苦しさが始まる話へ入っていきます。
引き続き、何卒よろしくお願いいたします。




