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第41話 驢馬一頭で……

 暗闇の底から響いたのは、一頭の驢馬の甲高い悲鳴だった。

 それに重なるように、繋がれていた荷車の木製車輪が「ギギギッ」と嫌な音を立てて軋み、次いで荷留めの綱が弾け飛ぶような鈍い音が響いた。


「馬鹿野郎! 綱の結びが甘いぞ!

 獣が暴れてる、誰か押さえろ!」


 怒声は、荷駄頭のバウコスのものだった。

 レオンは、彼にしては珍しい長いセリフだなぁと漠然と考えていた。


 彼の思考は、麻痺し、どうでもいい事を考える…そう言う思考の沼にハマっていた。


 そこで、ハッとした。


 バウコス以外のものから上がった、同じ様な声と、その調子に気付き…ようやく…ほんとうにようやく事態が呑み込めた。暗闇と泥濘に怯えた驢馬が一頭、パニックを起こして列から飛び出そうとし、荷車ごと暴れているだけだ。

 荷崩れは厄介だが、敵襲でもなんでもない。


 だが、極限まで張り詰めていた軍営の空気は、その「事実」を正しく受け取る余裕を完全に失っていた。


 王弟が死に、帰る道もわからず、敵のど真ん中で泥にまみれて震えていた兵士たちの耳には、車輪の軋みは「敵の戦車の響き」に、バウコスや彼の部下の怒声は「奇襲を受けた味方の断末魔」に変換されてしまったのだ。


「て、敵襲だ……! 夜襲だぁっ!!」


 少し離れた火床で身を寄せ合っていた若手兵が、弾かれたように立ち上がって叫んだ。うたた寝していたカリアスが、その声に驚いて飛び起きていた。


 その悲鳴にも似た一言が、寝ぼけたカリアスに連鎖し、乾ききった枯れ草に火を放ったようなさらなる連鎖を生んだ。

「え?敵襲?!どこだ?」


そこからは、蜂の巣を突いた様な騒ぎだった。


「王の騎兵だ!」

「陣の内側に入り込まれたぞ! 武器を取れ!」

「俺の盾はどこだ!」


 恐慌が伝染するのは、あっという間だ。

 暗闇では目よりも耳が優先される。そして、目に見えない敵を、幻視させる。


 誰も敵の姿など見ていない。


 矢の一本も飛んできていない。


 それなのに、一万を超える戦闘要員が同時にパニックを起こしたかの様だった。


 暗闇の中で、重装歩兵(ホプリタイ)たちが我先にと青銅の兜を被り、槍を振り回す。誰かが蹴飛ばした鍋がけたたましい音を立て、辛うじて残っていた火床の灰が盛大に散らされる。その金属音と火の粉が、さらなる錯覚を呼ぶ。


(違う! ただの驢馬だ! 落ち着け、音を聞けばわかるだろう!)


 レオンは叫ぼうとした。だが、彼の細い声は、怒号と金属音の濁流に一瞬で呑み込まれた。

 恐ろしい光景だった。

 理屈など全く通用しない。帳面上の数字も、補給の論理も、この「集団の恐怖」の前では紙切れ以下の価値しかなかった。兵士たちは見えない敵と戦うために、味方同士で押し合い、槍の石突きで互いの足を突き刺し、転倒した者を泥ごと踏み潰そうとしている。


「どけ! 前を塞ぐな!」


 恐怖で目を血走らせた大柄な重装歩兵が、槍を構えたままレオンの真横を駆け抜けようとした。

 避けきれない。そう思った瞬間、レオンの襟首を強い力が乱暴に引っ張った。


「突っ立ってるな、死ぬぞ」


 ダフネだった。

 彼女にしては、強い断定口調だった。


 少し呆けていると感じたのか、彼女はレオンを荷車の陰へと引きずり込むと、自らの軽盾を構えて覆い隠すように前に立った。

 長い慰めも、気の利いた言葉もない。だが、暴走する兵士たちの波からレオンを物理的に切り離し、絶対に見捨てないという意志だけがその背中から伝わってくる。


「ダ、ダフネ、あれはただの驢馬だ。敵なんかどこにも……」

「わかってる。だが、狂った味方の槍で串刺しにされたら、死ぬのは同じこと、戦死者一名の出来上がり」


 ダフネは前方を睨みつけたまま、冷徹に言い放った。彼女の言う通りだ。今、一番恐ろしいのは王の軍隊ではない。狂乱した味方の集団そのものだった。


「押し返せ! 一歩でも逃げようとした奴は、俺が後ろから叩き斬る!」


 怒号の只中で、ひときわ低く、しかしよく通る声が響いた。ミュロンだ。


 彼は全軍のパニックを止めようなどという無謀な真似はしなかった。ただ剣の柄に手を置き、自分の部下である軽装歩兵(ペルタスタイ)たちの顔を一人ひとり睨みつけ、短い命令と位置取りだけで自隊の崩壊を食い止めている。

 彼の周囲だけが、嵐の中の岩礁のように奇妙な秩序を保っていた。ダフネもミュロンも、この極限状況において自分が何をすべきか、身体で理解しているのだ。


(僕には……何が止められる?)


 レオンは泥にまみれた配給帳を握りしめ、圧倒的な無力感に苛まれた。

 恐慌のきっかけは誰よりも早く掴んでいた。音の違いもわかっていた。だが、自分個人ではこの巨大な暴走を止める手立てが何一つない。

 誰かが狂乱の中で、味方に危険を知らせる角笛を手に取るのが見えた。あれが吹き鳴らされれば、もう取り返しがつかない。全軍が同士討ちを始めるか、暗闇の中へ完全に四散する。


 その時だった。

 夜の冷気を引き裂くように、腹の底から響き渡る巨大な声が軍営全体を震わせた。


「全軍、静粛に!!」


 クレアルコス配下の触れ役、トルミデスの声だった。その並外れた発声は、パニックの喧騒を物理的に切り裂くほどの音圧を持っていた。角笛を構えていた兵士の動きが、寸前でピタリと止まる。

 一瞬の静寂。その隙間へ、トルミデスは朗々とした、実務的でよく通る声を打ち込んだ。


「将軍たちからの布告である! 陣の中に『驢馬』を放った者が誰か、密告した者には……銀一タラントンの懸賞金を与える!!」


 ……しん、と静まり返った。

 槍を構えていた兵士も、兜の緒を締めていた兵士も、一様に目を丸くして立ち尽くした。


(銀一タラントン……!? 馬鹿な、一般兵の給金何年分だと思ってるんだ。それに、敵襲じゃなくて、驢馬……?)


 レオンでさえ、そのあまりに場違いで破格な布告に思考が停止した。


 次の瞬間、暗闇のあちこちから「ぷっ」という吹き出し笑いが漏れ、それは瞬く間に巨大な安堵の笑い声へと変わっていった。


「なんだよ、驢馬かよ!」

「俺の足を踏んだ奴、ふざけんな!」

「銀一タラントンだってよ、おい!」


 それは余裕のある笑いではない。つい十秒前まで本気で死を覚悟していた自分たちの滑稽さと、将軍たちが無事であり、敵がいないという事実に対する、強烈な安堵の反動だった。

 緊張の糸が緩み、兵士たちは次々とその場にへたり込んだり、落とした槍や食器を泥の中から拾い集めたりし始めた。


 散った灰、落ちた武器、荷崩れを起こした車輪、そして誰の足に踏まれたのかわからない配給の袋。

 笑い声に包まれる陣営を見渡しながら、レオンの背筋には冷たい汗が伝っていた。

 助かった。だが、これはただの運だ。もしあのトルミデスの声が数秒遅れ、角笛が鳴らされていたら、今頃この場所は味方の死体の山になっていただろう。


 集団という怪物の恐ろしさを、レオンは骨の髄まで思い知らされた。

 理屈など通じない。誰かが上から強烈な『声』で縛り付けない限り、この軍はすぐに自分たち自身で壊れてしまう。


「……終わったようだな。怪我はねえか、坊ちゃん」


 部下を落ち着かせたミュロンが、剣から手を離して歩み寄ってきた。


「怪我は……ありません。ダフネが止めてくれましたから」

「そうか。だが、喜んでるヒマはねえぞ」


 ミュロンは顎で、ぐちゃぐちゃになった隊列の惨状を示した。

 荷物は散乱し、隊列は完全に崩壊している。この泥と混乱の中で、誰がどこの持ち場にいるのかさえ定かではない。


「朝まで、まだ時間はある。……この泥棒市みたいな有様で、王の軍隊が本当に来たら、今度こそ全滅だ」


 レオンは自分の配給帳を見下ろした。

 そうだ。恐慌は去ったが、隊列の再編という絶望的な実務(おしごと)が残されている。朝が来るまでに、このバラバラになった万の頭数と荷駄を、もう一度『軍隊』の形に戻さなければならないのだ。

お読みいただきありがとうございます。

ここまで追ってくださって、とても励みになっています。

皆さまのおかげで、少しずつたくさんの方に読んでいただけるようになってきました。

引き続き、レオンたちの行く先を見守っていただけましたら嬉しいです。


※一箇所、表現を修正しております。意味の変更はありません。

誤  これの思考は、麻痺し、どうでもいい事を考える、そう言う思考の沼にハマっていた。

正  彼の思考は、麻痺し、どうでもいい事を考える…そう言う思考の沼にハマっていた。

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