第40話 焚火
敵襲か、それともまた誰かが逃げ出したのか――。
張り詰めた糸が切れるような恐怖が夜の隊列を走ったが、実態は違った。前方の暗闇から響いてきたのは、刃を交える音でも、部隊が散り散りになる足音でもなかった。木材がへし折られ、泥壁が乱暴に崩される音だったのだ。
泥濘を抜けた先にあったのは、最寄りの村の無惨な骸だった。
陽が沈む頃に先着していたアリアイオス側の兵士たちや、ギリシア軍の先鋒部隊が、夜の寒さを凌ぐために手当たり次第に村を解体していたのである。家々の屋根や梁はもちろん、木工の家具から扉板に至るまで、燃やせそうなものは全て剥ぎ取られていた。踏み潰されるような悲鳴は、逃げ遅れた村の家畜か、あるいは場所取りで小競り合いになった兵士のどちらかのものだったのだろう。
レオンたち後続の部隊が、重い外套に泥を吸わせながらようやく辿り着いた時、まともな屋内の寝床はすでに先着組に占拠されていた。残されていたのは、踏み荒らされた家畜小屋の跡と、冷たい風が吹き抜ける戸口、そして泥だらけの庭先だけだった。
「主計殿……勝った軍の夜じゃないですよ、これ」
若手兵のカリアスが、鼻の頭を泥で黒くしながら不満げにぼやいた。彼は手の中で、どこかの家からむしり取ってきたらしい木彫りの椅子の脚を握りしめている。寝場所を失った苛立ちが、その声にはありありと滲んでいた。
「勝ったのは戦場での話だ。ここでは、早く着いた奴が勝者というだけのことだよ」
レオンは溜息をつきながら、無言で指先に微弱な火魔法を灯した。カリアスが不揃いに組んだ扉板や家具の残骸に火を移してやる。湿った木材は嫌な煙を上げて燻り、やがて頼りない炎を立ち昇らせた。
カリアスのぼやきは正しい。学問の塔の歴史書で読んだ凱旋の宿営は、もっとこう、豊かな戦利品と美酒、そして秩序に彩られているはずだった。勝ったはずのギリシア傭兵が、なぜ敗残兵のように他人の家の扉を燃やして泥の中で震えているのか。
レオンは火の温もりに指をかざしながら、泥に汚れた配給帳をめくった。
頭数と火の減りは、暗闇の中でも残酷なほど明確に事実を告げていた。抜けた駄獣の跡、使われなかった配給袋の数。ミルトキュテス隊が夜の間に空けた穴は、単なる人数の減少にとどまらない。彼らが持っていたわずかな糧秣も、軍全体の勘定から消え去ったのだ。
(……あのままついてきても、どうせ途中で食い扶持が尽きて揉めただろうさ)
レオンは無理やり自分を納得させようとした。だが、崩れゆく勘定の数字を見るたびに、胃の腑が鉛のように重くなる。
ふと顔を上げると、少し離れた場所にアリアイオス側の陣営が見えた。
彼らとは、ほんの数時間前に牡牛や狼の血で盟約を交わしたばかりの同盟相手だ。だが、その宿営はギリシア軍から一パラサング弱ほど、絶妙に距離を置かれていた。
向こうの焚火は大きく、屋内を陣取っているせいか温かそうだった。レオンは、もしかすると彼らから何か補給の融通や、この村の残存物資、あるいは正確な現在地の情報を得られるのではないかと考えた。同じ血盟を結んだのだから、少しは仲間としての融通が利くかもしれない。そう思って、泥にまみれた足を引きずり、両軍の境界付近へと近づいてみた。
しかし、向こう岸の火を背にした現地の歩哨たちと目が合った瞬間、レオンは足を止めた。
彼らの視線は、昨日まで同じ王弟キュロスのために肩を並べて戦った仲間のそれではなかった。草刈り鎌や薪束を抱えた彼らの目は、明確に「こちら側へ来るな」という冷たい拒絶と警戒に満ちていた。
(……そうか。ここはもう、同じ焚火を囲む場所じゃないんだ)
雇い主であったキュロスが死に、ただ「生き残る」という利害だけで一時的に結びついた相手。彼らにとって、自分たちギリシア傭兵は、厄介な足手まといか、いつか裏切るかもしれない危険な異分子にすぎない。同じ火の近くにいても、同じ陣営ではないのだ。
わかりきっていたことだ。頭では理解していたはずなのに、少しでも寄りかかれる壁を探し、仲間意識を持とうとして空振りした自分が酷く情けなかった。疎外感が、冷たい夜風と共に首筋を撫でていく。
「……あっちを見るな、坊ちゃん」
不意に、背後から無骨な手が伸びてきて、レオンの肩を強く掴んだ。ミュロンだった。
彼は怒鳴るでもなく、ただ低い声でそう言うと、レオンの身体をギリシア軍の、自分たちの貧相な火床の方へと乱暴に引き戻した。
「俺たちの飯は、あっちの鍋には入ってねえよ」
その言葉には、無意味な感傷を切り捨てるような現場特有の冷徹さと、わずかながらレオンを自陣側へ引き戻そうとする不器用な気遣いが含まれていた。
レオンは短く頷き、自分たちの陣地へと戻った。そこには、ダフネが黙って壊れた家具の破片の上に座り、レオンの分のスペースを空けて待っていた。彼女は何も言わず、ただ自分の外套の端を少しだけ広げ、風除けを作ってくれた。
そうだ。自分が同じ列で生き残らなければならないのは、あの大きくて温かい焚火を囲む見知らぬ同盟者たちではない。文句を言いながらも泥だらけになってこの小さな扉板の火を守り、自分と一緒に乾いた干し肉を齧る連中なのだ。
味方の線引きは、もう済んでいる。
だが、その小さな仲間たちの陣営すらも、決して平穏ではなかった。
後着組が寝場所やわずかな薪を巡って言い争う声が、あちこちで上がり始めていた。誰もが極限まで疲労し、飢え、疑心暗鬼に陥っている。その騒音は暗闇に反響し、異常なほど大きく聞こえた。
これほど大きな音を立てていれば、近くにいるかもしれない王の軍隊に、自分たちの位置と混乱ぶりをわざわざ教えているようなものだ。(後になって知ったことだが、この異様な騒ぎは実際に近くの敵の耳にまで届き、不気味に思った彼らを退却させる結果を生んだらしい。だが、今のレオンたちにそんな幸運を知る由もない)。
「おい、誰だ! こんなとこに荷車を置いたのは!」
「そっちこそ、俺の毛布を踏むな!」
闇の中で怒号が飛び交う。レオンは泥の冷たさが芯まで染み込んでくるのを感じながら、膝を抱えた。
その時、喧騒の奥深くで、一頭の驢馬が甲高い悲鳴を上げた。
何かが決定的に壊れるような、ひどく嫌な気配が暗闇の中に連鎖して膨れ上がっていくのを感じ、レオンは思わず配給帳を胸に抱きしめた。




