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第39話 夜の移動

 血の匂いは、鉄がひどく錆びたような冷たい味がした。


 月が雲に隠れた暗がりのなか、ひっくり返した青銅の盾の上に、生々しい赤が滴っている。アリアイオスたち現地側の将と、クレアルコスらギリシア傭兵団の将軍たちが、牡牛、狼、猪、そして牡羊の喉を切り裂き、その血に剣や槍の穂先を浸して誓いを立てている。

 互いに裏切らぬこと。そして、アリアイオスを案内役としてこの敵地のど真ん中から生きて帰ること。それが、この血に込められた約束の全てだ。


 レオン・カルディアスは、少し離れた荷駄の列のそばからその光景を眺め、泥に汚れた配給帳を強く抱き込んだ。

(……どう考えても、上等な羊皮紙で誓約書を交わすか、証人を立ててディプティコン(封印蝋板)に三者封印をする方が、こんな血生臭い生贄の儀式よりよほど確実で理にかなっているはずなんだけどな)

 学問の塔で学んだ洗練された論理とは程遠い、呪術的で野蛮極まりない儀式だ。だが、文字や印章など、この乾いた荒野では何の役にも立たないとレオンもわかっていた。刃と血と暴力の匂いだけが、今の彼らを繋ぎ止める唯一の、そして最も脆い命綱だった。


「主計殿、いつまで突っ立ってやがる。荷を詰めろ。角笛が鳴ったら即座に出立だ」


 背後から飛んできたミュロンの声は、いつも以上に低く、そして短かった。

 どうも、ミュロンはかなり危ぶんでいそうだ。


 古参の半隊長である彼は、すでに自隊の軽装歩兵ペルタスタイたちを容赦なく急き立て、夜間行軍の隊列を組み始めている。荷駄と非戦闘員を内側に固め、重装歩兵ホプリタイと軽装歩兵がその外側を包むように歩く。夜襲に備えた特殊な陣形だ。


「わかっています。テオドルス、頭数の控えを。夜の間に動かせる駄獣の数は」

「は、はい! ええと、荷車が三十、駄獣が……あ、あれ? おかしいですね」


 暗がりの中で身を縮めていた従者のテオドルスが、羊皮紙に目を落としたまま首を傾げた。彼の指先が、震えながらある方角を指す。

「さっきまで、あそこの焚火にミルトキュテス隊がいたはずなんですが……」


 レオンは視線を向け、心臓が嫌な跳ね方をするのを感じた。

 そこには、トラキア人の騎兵と歩兵たちが陣取っていたはずの空間がある。だが今は、燃えさしが寂しく燻っているだけで、人影も馬のいななきも、積まれていたはずの彼らの武具も綺麗に消え失せていた。


 逃げたか。

 いや、抜けたのだ。王の側へ寝返ったのか、単独で逃げ散ったのかはわからない。だが、焚火の数がごっそりと減っている。それは単に火が消えたのではなく、四十の騎兵と三百近い歩兵が、音もなく夜の闇へ溶けていったことを意味していた。

(左翼の持ち場が空いた。あいつらが持っていた干し肉も予備の靴底も、軍全体の勘定から消えたってことか)


「ミュロン半隊長、トラキア隊が消えました。馬の足跡と、荷駄の引き跡が北へ向かっています」

「追うな」


 配下の軽装歩兵から報告を受けたミュロンは、舌打ち一つせず暗闇を睨みつけた。


「今は列の穴を埋めるのが先だ。


 くそっ。

 おいダフネ、とりあえず坊ちゃんたちの後ろを詰めさせろ。

 前後の間隔を絶対に開けるな、敵に隙を見せたくねぇ。


 俺は報告してくる」


 その時、隊列の再編を巡って、重装歩兵の顔役の一人であるカレス百人隊長が殺気立った足取りで近づいてきた。


「おい主計! なぜうちの隊が荷駄の後ろに回される。盾を持つ重装兵を遊ばせておく気か。前へ出せ!」


 カレスの要求は、表面的には、いつもの「重装兵優先」の傲慢さだったが、それだけではなさそうだ。彼なりに危機感ももっているのだろう。


 あたりまえか、この場で、自分たちだけ助かるなどあり得ないのだ。

 全員で死ぬか、全員で生き延びるか。どちらかしかない。

 まあ、全員で生き延びるといっても、結構な数が行方不明になったり、死んだりするんだろう。


 実に不思議なことだけど、歩くだけで、人が減っていくのだ。

 負けた後だからというわけではなく、普通に歩いているだけで人が減る。

 消えた人たちがどうなったかは考えたくもない。

 どうせ碌なことになっていないか、碌なことやっていないか、どちらかだ。


 だが、レオンは揺らがなかった。懐から、使い込まれた木枠の蝋板――あの封印した蝋板ディプティコンを取り出し、わずかな火明かりの下でカレスに突きつけた。


 カレスが少し怪訝な顔をした。

 自分でもびっくりするくらい、冷静で残酷な気持ちが心を占めていた。

 いつもやられている仕返しなのか、嗜虐心(エピカイレカキア)がめばえてしまったのか……


「カレス殿、今の夜行順は血盟に基づいたアリアイオス殿との合意事項です。隊列の『数』が狂えば、闇夜で同士討ちが起きます。それとも……」


 レオンは、かつて月給の増額支払いの際に、カレスを「支払いの保証人」として封印させたあの夜と同じ、事務的で容赦のない視線を向けた。


「かつての支払いの時と同じように、また立会人として僕の横で一晩中、全兵科の『数』を数えていただけますか? 僕は一向に構いませんが」


 その瞬間、カレスが意外そうな、毒気を抜かれたような顔をしたのをレオンは見逃さなかった。

 カレスの脳裏には、あの夜、小賢しい帳簿役に役職名で呼ばれ、断れない状況で「三者封印」の泥臭い責任を押し付けられた記憶が鮮明に蘇ったのだろう。


(……この状況で、まだあの時の蝋板を持ち出してくるのか)

 カレスの目はそう語っていた。


 いやちがうたぶんこうだ。


(このガキめんどくさいヤツになったな……)


 このあたりだろう。いいとこの出だろうに、残念な奴だ。

 いや、ぼくもか…すっかり残念な奴らの一員になってしまった…


 雇い主が死に、今しがた血塗れの野蛮な盟約が結ばれたばかりのこの地獄で、なおも「契約と記録」の重みを盾にするこの若造の異常なまでの執念。それがカレスに、怒りよりも先に一種の戦慄と、奇妙な「安心感」を与えたようだった。


「……ふん、小賢しい。勝手にしろ。だが、隊列が渋滞したらすぐに槍を叩き込むからな」

「隊列の渋滞は、主計の責任ではないですね。

 むしろ各半隊長の責任ではないですかね…ま、全部の半隊長の給料の半分をもらえるなら責任くらい負いますよ。命令権も、処罰権もらいますけど」

「はっ!話にならん!」


 カレスは吐き捨てるように言って、鼻を鳴らしながら自隊へと戻っていった。

 まあ、「話にならん」のはそうだろうな……半隊長も別に処罰できるわけじゃない。所詮契約で引っ張ってきてるだけだから、へそを曲げられたら、朝には冷たくなった半隊長が出来上がることだってある。

 事実、敵味方の死体には身内から殺されたんではないかという、後ろから一突きされたようなものもあった。

 ミュロンに聞いたら、金の貸し借りか、バクチの清算か、頭だった人間で嫌われてる人間か…そんなとこだろうって言ってた。


「坊ちゃん、たいしたもんだ。あのカレスが引き下がるとはな」

 ミュロンが皮肉交じりに、だがどこか満足そうに呟いた。


 若い兵士が、出発直前に最後に残った火床へ砂をかけて回っている。ジュッという嫌な音とともに、かすかな温もりすらも闇に飲まれていく。


 やがて、夜気を引き裂くように角笛が鳴り響いた。

 一度。荷をまとめよ。

 二度。列を組め。

 三度。


「……出立だ!」


 クレアルコス配下の触れ役、トルミデスの腹の底から響く声が、宿営地全体に突き刺さった。布告の声が届くうちは、まだこの軍隊は統制を保っている。レオンは重い外套を翻して歩き出した。


 だが、夜の移動は想像を絶するほど神経と体力を削る作業だった。

 月明かりのない荒野。道と呼べるようなものはなく、ただ前を歩く者の背中と、時折白く浮き上がる馬の鼻息だけを頼りに進む。


 レオンは歩きながら、微弱な感知魔法を足元へ向ける。飲料水ではない底なしの泥だ。重装歩兵たちの青銅のすね当てが泥を跳ね上げ、荷車の木製車輪が嫌な音を立てて沈み込んでいく。


「主計殿! 右の三号車が泥に沈んだ! これ以上引かせりゃ車軸が折れるぞ!」


 暗闇の中から、荷駄頭のバウコスの怒鳴り声が聞こえた。

 レオンは反射的に駆け寄ろうとしたが、ダフネの手がそのベルトを強く引っ張り、強引に引き留めた。

「行くな。あんたが行っても泥は乾かないし、車輪も軽くならない」

「でも、あの中には明後日分の穀物袋と、負傷兵用の毛布が積んであるんだ!」

「バウコスがなんとかする。あんたの仕事は、ここで足を止めず列にさらなる『穴』を作らないことだ」


 ダフネの声は無機質に聞こえるほど冷たかったが、その手はレオンが足元のわだちに足を取られそうになった瞬間、的確にバランスを支えてくれた。


 レオンは唇を噛み、歩みを止めずに頭の中で数字を弾き直す。

 ミルトキュテス隊が抜けたことで、左翼の警戒陣が薄くなっている。そこに三号車が遅れれば、内側の荷駄列に歪みが生じ、外側を歩く重装歩兵たちとの歩調が完全に崩れる。列が伸びれば伸びるほど、暗闇の中では誰がどこにいるのか分からなくなり、疑心暗鬼が爆発する。


 勝ち戦の朝を迎えられなかった軍隊が、雇い主を失い、誰の軍でもなくなったまま夜の泥を這いずり回っている。

 疲労が限界を超え、思考が泥のように鈍り始める。足が前に出なくなり、ふらついたレオンの胸に、不意に冷たい革袋が押し付けられた。


「……飲め」


 ダフネだった。彼女は前を向いたまま、自分の水袋を無言で差し出していた。

 レオンは受け取り、生ぬるい水とおもったら、薄いワインだった。

 彼女のとっておきを、一口だけ、湿らす程度含み、喉に流し込む。舌と鼻の刺激で、止まりかけていた思考がわずかに息を吹き返した。

 彼女は何も言わないが、ただ見捨てずに横を歩いてくれている。守られているという屈辱よりも、今は一緒にこの夜を耐えてくれる存在がいることが、どうしようもなくありがたかった。


 なんとか列の形を保ったまま、頭数と荷駄の状況を帳面に繋ぎ止めることはできている。

 だが、肉体が先に限界を迎えつつあった。重い外套が泥を吸い、歩幅が徐々に狭くなっていく。


 その時だった。

 前方、荷駄の列の奥深くから、奇妙な音が響いた。

 最初は、車輪が軋む音かと思った。だが違う。それは獣のいななきと、何かが激しくぶつかる音、そして――誰かが踏み潰されるような、短い悲鳴だった。


「なんだ……?」


 敵襲か。それとも誰かがまた逃げ出したのか。

 誰も敵の姿など見ていないというのに、見えない夜の恐怖が、張り詰めていた糸を弾き切るように宿営の列全体へと波及していく気配がした。

ひりひりした現場の空気。

逃げ出すもの。

残るもの。

そんな中でも、食べさせなければ、どうにもならないこと。


雲行のあやしいプロジェクトと同じで、徐々にケイパビリティ(実行力)が毀損されていきます。

上手くいっていないことを周囲の誰かのせいにして叫ぶ人。

目先の自分の事以外には目がいかなくなる人。


いろんな人間模様が、姿を現します。

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