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第38話 元の道を戻りたいけれど

 宿営地の朝は、奇妙な熱気に包まれていた。


「なあ、帰るってことは、来た道をそのまま戻ればいいんだよな?」

 火の番をしている若い兵士、カリアスが無邪気な声で同僚に話しかけている。彼の顔には、死地を脱せるかもしれないという…淡い…期待が彼にとっては闇夜の光明のように感じていると言うのが…はっきりと浮かんでいた。


「ああ。足跡も轍も残ってる。迷うこたぁねえよ」


 周囲の重装歩兵たちも、それに同調して大きく頷き合っている。青銅の兜や脛当ての泥を布で拭いながら、彼らはすでに故郷へ続く道を歩いているかのような顔をしていた。


 レオンはなんとも言えない気持ちになっていた。


 来た道を戻る?


 確かに、兵たちの間ではその空気が急速に広がっていた。昨日まで王弟キュロス殿下という巨大な雇い主を失い、王の軍勢から武器を捨てろと脅されて絶望に沈んでいた陣営が、嘘のように明るい。


 道は分かっているのだから、ただ引き返せばいい。理屈の上ではひどく簡単なことのように思える。来た道を引き返すだけで、やがて見慣れた青い海に繋がり、故郷のポリスへ帰れるのだと、誰もが信じたがっていた。


 だが、幕舎の隅で簡易卓に向かっていたレオンは、羽ペンの先を羊皮紙に押し当てたまま、小さくため息をついた。


 これはアレだなあ…同胞たちは、自分たちがイナゴの群れだということを忘れているな。


 レオンは手元の配給帳をめくり直した。そこに並ぶ数字の列は、外の喧騒とは裏腹に、冷酷な現実を突きつけている。

 ギリシア傭兵だけで一万以上。荷駄引きや商人、従者などの非戦闘員を合わせれば、およそ二万人の人間と、数千頭の駄獣がこの陣営にはいるのだ。


 ここまでの行軍や戦闘で多少減ったとは言っても、およそ二万という数値には、圧力があった。


 二万人が一日に消費する麦と水の量を、ひとつの山として想像してみればいい。それは小さな丘ほどの質量になる。それが毎日、跡形もなく消えていくのが軍隊という生き物だ。


 レオンは指先に微弱な水魔法の魔力を込め、卓の脇に置かれた革の水袋にそっと触れた。中の水量を感知するためだ。

 ……半分も入っていない。指先に伝わる湿り気は、嫌になるほど頼りなかった。彼の魔法で出せる水など、半日かけて桶一杯が関の山だ。魔法を使った代償としてこめかみが微かに痛み始める。戦局をひっくり返すどころか、二万人の喉を潤すことなど到底できない。


 痛む頭を振って、レオンはここクナクサの会戦場に至るまでの直近十七日間を思い返した。砂漠のような不毛な地帯をひたすら前進してきた十七行程。その間、現地から補給らしい補給は一切得られていない。あの時は、出発地で荷車いっぱいに積み込んだ物資をただひたすらに食いつぶすことで乗り切ったのだ。

 今、手元にあるのは、戦場跡で拾い集めた驢馬の肉と、わずかな穀物だけだ。この備蓄であの十七日間の空白地帯を逆行するなど、計算するまでもない。


「……冗談じゃねえぞ、坊ちゃん」

 幕舎の入り口の天幕が乱暴にめくられ、現地の言葉訛りが混じった嗄れ声が響いた。隻眼の調達屋、シラクサだ。彼は苛立たしげに、空っぽの麻袋を地面に放り投げた。


「外の連中、来た道を戻るって浮かれてやがるが、正気か? 俺たちが往路でダレイコス金貨をばら撒いて、市場の麦から干し肉まで、根こそぎ買い尽くしちまった後だぞ。それに……リュカオニアみたいに、殿下から略奪の許可が出た地域なんざ、もうペンペン草も生えちゃいねえ」


 シラクサの顔が険しくなる。隻眼の奥にあるのは、商人としての冷徹な計算と、現地を知る者としての恐怖だった。


「住民はとっくに山へ逃げ散らかしてるか、俺たちを憎んで武器を取る気でいる。

 あの豊かなミダス王の泉の周辺だって、今は空っぽの壺しか転がってないはずだ」


「水と草も同じだ」


 シラクサの言葉を継ぐように、重い足音を立ててバウコスが入ってきた。古参の荷駄頭は、手に持っていた飼葉の束を、レオンの前の卓へ乱暴に落とした。

 その束を見て、レオンは息を呑んだ。青々として、程よく乾かした草など望むべくもなく、土に塗れた枯れ草の根が数本、申し訳程度に束ねられているだけだった。


「ひでえもんだろ」とバウコスは吐き捨てるように言った。


「何千って数の殿下の騎兵と、俺たちの荷駄の獣が、街道沿いの草を食い尽くして踏み荒らしたんだ。

 浅い井戸も泉も、何万人って人間が泥水になるまで啜った後だ。こんなもんしか食わせられねえんじゃ、驢馬もラバも、三日と持たずに泡吹いて倒れるぜ。獣が死ねば、荷車はただの薪だ」


 減り続ける頭数表。傷んだ車輪。極端に細くなった飼葉の束。

 机上の計算と、現場の現実が、最悪の形で合致してしまった。


「主計殿」

 低い、地の底から響くような声だった。

 いつの間にか幕舎に入ってきていたミュロンが、腕を組んでレオンを見下ろしていた。いつものような、人を小馬鹿にした嫌味な響きはない。


「帳簿役のお前さんに聞く。……俺たちは、来た道を帰れるか?」


 幕舎の中が、水を打ったように静まり返った。シラクサも、バウコスも、レオンの口から出る言葉を待っている。

 嫌な役回りだ。できれば「帰れる」と言ってやりたかった。カリアスのような若い兵たちに安心を与えたかった。だが、頭の中で組み上がった補給の論理は、一切の情を挟む余地のない残酷な答えを出している。


「……無理です」

 乾いた自分の声が、やけに大きく聞こえた。


「僕たちが通り過ぎた道は、もう『帰路』として機能しません。食料も水も飼葉も、すべて僕たち自身が食い潰してしまった。今ある備蓄で元の道を戻ろうとすれば、間違いなく全滅します」


 レオンは言葉を区切り、ミュロンをまっすぐに見返した。


「引き返すという選択肢は、兵站の観点からは……完全な自殺行為アポリアです。待っているのは緩慢な餓死しかありません」


 レオンの言葉が、幕舎の中に重く沈んだ。外で笑い合っている兵士たちの希望を、自分自身が理屈という刃で切り裂いてしまった。逃げ道を塞ぐ死神にでもなったかのような、ひどく苦い味が口の中に広がる。


 ミュロンは、レオンの言葉を否定しなかった。

 彼は忌々しげに舌打ちをすると、「わかった」とだけ短く応えた。計算を、現場の現実として受け入れたのだ。


 ふと、背後に気配を感じた。

 ダフネだった。彼女は何も言わず、ただレオンの斜め後ろ、半歩ほど下がった位置に無言で立った。軽盾の革紐を締め直す微かな音がする。

 慰めの言葉などない。だが、その確かな質量と気配が、「お前は事実を言っただけだ」と、背中を支えてくれているような気がした。


「坊ちゃん、主計幕の連中に、たたむように言ってくれ。

 荷をまとめるぞ」


 ミュロンが踵を返しながら言った。その声には、有無を言わせぬ緊迫感が張り詰めている。


 レオンの冷酷な計算結果は、バウコスやシラクサを通じて、あるいは各隊の隊長たちによる備蓄の再確認を通じて、午後には陣営全体へとじんわりと伝播していった。

 昼前まで満ちていた帰郷への楽観論は、空腹という現実の前にひしゃげ、宿営地には重く淀んだ空気が立ち込め始めた。

 レオンは押し寄せる絶望感に浸る暇もなく、減らすしかない配給札の再計算と、荷駄の積み直しの指示など、絶望的な雑務に忙殺された。


 やがて、血のような夕陽が地平に沈み、乾いた風が吹き抜ける頃には、兵士たちの顔から完全に笑みは消え去っていた。車輪のきしむ音と、驢馬のいななきだけが虚しく響く。

 元の道を戻れないなら、見知らぬ敵地を、アリアイオスの気まぐれな案内に従って進むしかない。


 完全に夜の帳が下りた宿営地に、鋭い角笛の音が三度、響き渡った。

 続いて、クレアルコス隊の触れ役であるトルミデスの、腹の底から響くような大声が夜気を震わせた。


『全軍、直ちに行軍の準備にかかれ! 夜のうちに移動する!』


 夜の移動。

 足場は悪く、荷駄は遅れ、伝令は行き届かない。最も隊列が崩れやすく、恐慌が起きやすい最悪の時間が、始まろうとしていた。

 レオンは慌てて帳面を閉じ、革袋に放り込んだ。

皆様のおかげで、ちょくちょくランキングに顔を出すことができるようになりました!


ありがとうございます!


たまたまなんですが、舞台は現在進行形で、イランとアメリカ、ロシアとウクライナがツノを付き合わせているあたりなので、昔から係争地になりやすいところなんですね。



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