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第37話 次の雇い主なんて、どこにもいない

 闇の中に点在する焚き火の群れは、まるで目に見えない巨大な壁に隔てられているようだった。


 クナクサの会戦から一昼夜が経ったあと、王の使者が、帰ったあと、僕たちプロクセノス隊を含めたギリシア傭兵団は、ようやくアリアイオス率いる現地兵部隊との再合流を果たした。アリアイオスは、死んだ王弟キュロスの副将を務めていた男だ。

 主君を失った敗残の軍同士、同じ場所に野営地を張ることで、兵たちの間には一時的な安堵が広がっていた。少なくとも、僕たちは孤立無援ではない。そう思いたかった。


 だが、現実は僕のわずかな期待すら冷酷に削り取っていく。


「……見事なもんだね。同じ荒野にいるっていうのに、きれいに陣が分かれている」


 僕は膝の上に広げた帳面から顔を上げ、暗闇の向こうを睨んだ。

 僕たちの宿営地と、アリアイオスたち現地兵の宿営地の間には、互いの声が絶対に届かないだけの明確な距離が空けられていた。

 彼らは僕たちと同じ方角に火を焚いている。だが、その火の輪の中にギリシア兵を招き入れる気配は微塵もなかった。草を食む馬の鼻息や、武具を置く鈍い音は風に乗って聞こえてくるが、そこにあるのは「隣人」の生活音ではなく「他者」の気配だ。


「テオドルス。第三荷車隊の予備の麦は、あと何袋残っている?」


 隣で火の番をしていた若い従者に声をかける。テオドルスは弾かれたように顔を上げ、手元の控え札を数え直した。その指先は、夜の冷え込みと不安で微かに震えている。


「え、ええと……手付かずの袋が荷車四つ分と、半分になったものが一つです。ですが、昨日の戦闘で車輪の軸が歪んでおりまして、これ以上積んだまま荒れ地を進むのは……」

「わかってる。駄獣の背に分散させるしかないね。でも、ロバの背中もそろそろ限界だ」


 僕は苛立ちを隠せないまま、帳面の端を指で強く弾いた。

 昨日、戦場跡で死んだロバや牛を解体して急場を凌いだが、その分、荷を運ぶ足が減っている。兵の腹を満たせば荷が運べなくなり、荷を優先すれば兵が飢える。配給の数字をどう動かしても、数日後には破綻する未来しか見えない。


「レオン、火から離れすぎるな。体が冷える」


 背後から、低い声が降ってきた。

 ダフネだった。彼女は相変わらず短い槍を片手に持ち、僕の斜め後ろ――夜の闇から最も死角になりにくい位置――に立っていた。彼女の視線もまた、遠く離れたアリアイオス陣営の焚き火へ向けられている。


「……いやな感じだ。あっちはこちらを見ようともしない」とダフネ。

「そうだね。僕たちも、ただ待っている場合じゃないかもしれない」


 その時だった。

 プロクセノス将軍の天幕の方向から、重い足音とともにざわめきが波波及してきた。軍議に出出ていた百人隊長たちが、それぞれの部隊へ戻ってきたのだ。

 重装歩兵の顔役であるカレスが、苛立たしげに兜を脱ぎ捨てながら大股で歩いてくるのが見えた。


「どういうことだ! あのアリアイオスって野郎、俺たちの提案を蹴りやがった!」


 カレスの怒鳴り声に、周囲の兵たちが一斉に顔を上げる。

 少し遅れて戻ってきたミュロンが、ひどく不機嫌な顔で僕たちの焚き火のそばへ歩み寄ってきた。彼は無言のまま、手に持っていた革袋を地面にどさりと置く。


「……交渉は失敗ですか、ミュロン」

「失敗も何も、最初から交渉の席に着く気すらなかったんだよ、あの野郎は」


 ミュロンは舌打ちをして、火のそばにどっかと腰を下ろした。


 ギリシア側の将軍たちは、アリアイオスに対して「君が王位を継ぐなら、我々はこの武力で全力で支持する」という提案を持っていったはずだった。

 僕たちにとって、キュロスという巨大な「財布」であり「契約の中心」が消えた今、それに代わる新しい主君が必要だった。アリアイオスを神輿に担ぎ上げれば、彼が新しい雇い主となり、僕たちの給金も帰路も保証される。将軍たちはそう計算したのだ。


 だが、現地の情勢を知り尽くしているアリアイオスの態度は、ひどく冷淡で現実的なものだったという。

『ペルシアには、私よりも高貴な生まれの者がいくらでもいる。彼らが私の即位など許すはずがない。私はそんな無謀な真似はしない』

 そして、彼はこう付け加えたらしい。

『我々は明日の早朝、ここを出発して帰路につく。同行したければ夜明けまでに準備をしろ。遅れるなら、置いていく』


 こんな感じで、取りつく島もなかったが、おどしたりなだめたりして、ギリシア側が提案した『王位』については一蹴されたが、『王の軍から逃げて共に生還する』という最低限の利害だけは妥協点を見出したため……不承不承アクーシオースながら血の盟約を結ぶことは合意したらしい。


「不承不承か……」


 僕は自分の声が、ひどく乾いているのに気づいた。


「当然だ。あいつらはペルシア人で、俺たちは余所者の雇われ兵だ。雇い主が死んで契約がパーになったんだ。残るのは、誰の首が繋がるかっていう利害の計算だけだろうが」


 ミュロンの吐き捨てるような言葉が、冷水のように頭から浴びせられた。


 僕は無意識のうちに、帳面に書いていた『アリアイオス軍合流・補給予定』の文字を、羽ペンで黒く塗りつぶしていた。

 誰かにぶら下がれば、また昨日までのように給金と飯が上から降ってくる。そんな甘い幻想は、この戦場には一ミリも残っていなかった。アリアイオスは次の主君などではなく、ただ自分の生存だけを計算する別の獣にすぎない。彼らにとって、足手まといになるかもしれない異国の傭兵団など、守る義理もなければ待つ理由もないのだ。


 遠くのアリアイオス陣営に目を凝らす。

 焚き火の明かりの中で、彼らがすでに荷車を整え、馬の鞍を再点検している影が動いていた。休んでいる者などいない。彼らは僕たちに相談するでもなく、自分たちの生存の論理だけで動いている。

 彼らの焚き火の温もりは、もう僕たちのものではない。つまり、僕たちの飯や水が尽きても、あの火のそばから分け前が回ってくることは二度とないということだ。


 自分が、広大な異国の荒野にただ一人で放り出されたような、強烈な孤立感が襲ってきた。

 王弟直属の軍隊の一部だと思っていたものは、とうの昔に崩壊していた。僕はただ、金で雇われた実務官であり、今やその金を出してくれる者さえいない。誰も、僕たちの命に責任を持ってくれない。

 外国で、荒野で、無職、言葉だけを見ると、もう完全に詰んでいる状況だ。

 まあ、無職ではないけれど。


「……まいったな。本当に、誰も見向きもしてくれない」


 膝の上の帳面が、ただの重いパピルスの束に感じられた。ここにどれだけ正確な数字を書き込んでも、明日歩くための保証にはならない。

 こんなことなら蝋板から転記しなければよかった…

 喉の奥から、自嘲めいたため息が漏れそうになった。


 その時、視界の端でダフネが動いた。

 彼女は何も言わず、僕と焚き火の間に無造作に割り込むと、自分の足元にあった水袋を僕の胸元へ押し付けてきた。


「……ダフネ?」

「飲んで。声が掠れてる」


 彼女は僕を慰めるような言葉は一切口にしなかった。アリアイオスが冷たいだの、状況が絶望的だのといった愚痴に付き合う気もないらしい。ただ、僕が「置いていかれる側」に沈み込まないよう、物理的に身体を寄せて、現実の重さを手渡してきたのだ。


 押し付けられた水袋はずっしりと重く、中の水は生ぬるかったが、一口飲むと乾いた喉が少しだけ潤った。

 彼女の短い言葉と、その立ち位置。それは、「まだ終わっていない」という、何よりも強い事実だった。


「坊ちゃん。感傷に浸ってる暇はねえぞ。置いていかれたくなきゃ、荷駄をまとめる算段をつけな」


 ミュロンが立ち上がりながら、顎で僕たちの背後――乱雑に置かれた荷車と、疲労で座り込む兵たちの列――をしゃくった。


「わかっています。……テオドルス、帳面を。荷の優先順位を変えよう。もう長居はできない。

 アリアイオスたちが動くなら、僕たちも無理やりにでも食らいつくことになるだろうし」


 はぁ~と、ため息が出そうになって、ぐっとこらえる。


 僕は水袋をダフネに返し、再び手元の紙面に向き直った。

 頼れる雇い主はいない。だが、僕たち自身が歩くのをやめない限り、まだ完全に運命に捨てられたわけではない。彼らの後ろを歩く権利だけは、何としてでも手放してはならないのだ。


 しかし、新しいページに『帰路の必要物資』と書き込もうとした僕の手は、ふと止まった。


 明日、アリアイオスたちの後ろについて動くとして。

 僕たちは一体「どの道」を通って帰るというのだろうか。来た道をそのまま戻る? いや、だめだ。あの広大なカイストロス平原も、乾いた村々も、往路で僕たち自身が草の根一本残さず食い尽くしてきたじゃないか。

 帳面に記された駄獣の数と、残りの飼葉の量が、絶望的な矛盾を起こして僕の目を突き刺す。


 帰る道など、じつは最初からどこにもなかったのではないだろうか。


 ああ畜生…突然魔法が上達して、ここからギリシア人の領域、少なくとも黒海あたりまで飛んで帰れるようにならないかなぁ…

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