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第36話 兵の腹はきれいごとではいっぱいにならない

 ファリノスと名乗った王の使者が去ると、陣幕のあたりは妙に静かになった。

 武器を捨てろ。王の慈悲を乞え。

 将軍たちはその高圧的な要求を突っぱねた。少なくとも、今この場では。

 けれど、威勢のいい言葉を返したところで腹は膨れない。レオンにとってはいちばんそこが嫌だった。大義も誇りも立派だが、次の飯の算段には一粒もならない。


「主計殿」

 テオドルスが小走りでやってきた。握っている配給札は、脂と泥でべたついている。

「駄獣の頭数が、帳面と合いません。生き残った牛と驢馬のうち、脚をやられてるのが十四。荷車も、車輪が割れてるのが三台あります」

「……また減ったのか」


 勝ち戦のあとに言う台詞ではなかった。いや、勝ち戦なんだろうか?


 横で聞いていた荷駄頭のバウコスが、鼻を鳴らす。

「減ったっつうか、もう歩けねえんだ。脚ァ潰れた獣に飼葉食わせても、荷は運ばねえ。車輪の割れた荷車も同じだ」


 文字の読めない荷駄頭だが、荷車の悲鳴と獣の限界だけは誰より正確に読み取ってくれる。

 帳簿上は、全然問題ないのに、知らないうちに、実際の戦力はダメになっていく…この場合は荷駄とか駄馬だけど…現場というのはそういう場所だった。

 レオンは帳面をつけている蝋板を開いたまま、短く言った。


「潰しましょう。歩けない獣は食事に回しましょう。

 残った荷は無事な駄獣に積み替えてください」

「へいよ。だが、肉を焼くにしても燃やすもんはどうする?」

「なんとかかき集めましょう」

 顎でしゃくると、戦場跡にはまだ敵の残骸がいくらかあった。


 めぼしいものはすでに燃やしていたので、昨日ほどは潤沢では無かったが…まあ、なんとか薪と鍋敷きにはなってくれた。


「空荷車も壊していいです。引く獣がいないなら、ただの木材だ。火床を作って、肉を腐る前に焼き切ります」


「おう、そいつぁ話が早ぇ」


 少し離れたところで、火番の若手たちがもう盾を割り始めていた。カリアスが汗まみれで木片を積み上げている。

「坊ちゃん、火だけ頼めねぇですか!」

「その呼び方はやめてほしいんですがね」


 溜め息をつきながらも、火床のそばにより指先に意識を寄せた。


 乾いた木片と矢羽根の根元へ、ほんの小さな火種を落とす。ぱちり、と音がして、塗料の乾いた盾板が赤く舌を出した。指先がじんと痺れる。これで十分だ。戦局をひっくり返す業火は出せなくても、鍋の下に火をつけるくらいなら役に立つ。


「肉だ、肉を回せ!」

「こっちも昨日からろくなモン食ってねぇんだ、ペルシャの王と一戦するなら、メシは必要だ!」


 切り分けられた牛と驢馬の肉が運ばれてくると、兵たちの目つきが変わった。

 無理もない。勝っただの負けただの言う前に、彼らはろくに食っていないのだ。脂の焼ける匂いが立ちのぼった途端、飢えは一気に理屈を追い越した。


「おい、待て!」

 怒鳴り声が飛ぶ。

 重装歩兵ホプリタイの百人隊長カレスが、列を押しのけて前へ出てきた。

「なんで軽装歩兵ペルタスタイの連中が先に肉を受け取ってる。前線で踏ん張ったのは俺たちだぞ。一番いい部位を寄越すのが筋だろうが!」

「ふざけるな、解体も火の番も見張りもこっちがやってるんだ!」

 軽装兵の側からも怒声が返る。あっという間に、肉の匂いより血の匂いが濃くなりそうだった。


「……揉めているな」

 背後からフィロンの声がした。相変わらず、火の熱気にも怒声にも温度を奪われない冷ややかな声だった。

「はい」

「で、どうする」

 レオンは一瞬だけ黙った。


 重装歩兵を冷遇すれば、不満が溜まり、いざという時に戦列が崩れる。だが、実務を回している軽装兵と荷駄引きの機嫌を損ねれば、行軍の準備すら整わなくなる。どちらも要る。どちらも腹が減っている。だから余計に、配分の順番を決めなければならない。

「言い分は両方もっともです。重装歩兵の士気は――」

「わかった、で?」

 フィロンはぴしゃりと言った。

「だからなんなのだ?どうしたい?」


 この男はこんな時も変わらない。

 僕は少しイライラしているのを自覚した。


 もう少し、こう、人間味ってないもんかね?


 僕が黙っていると、フィロンは言葉を重ねた


「私が聞いているのは、君の判断だ。配分を決めろ。兵を黙らせて、組織全体を…秩序を明日まで保つ案を出せ」

 胃の奥が冷たくなる。

 そういう役ではない。ぼくの仕事ではない、まだ補佐だ。帳簿役だ。そう言い訳したくなったが、腹を空かせた兵は役職表を考慮して殴り合いを始めたりしない。


 とばっちりを貰ったら、レオンなどすぐに伸びてしまう。

 ダフネが守ってくれるとは思うけど…

 この方面ではからっきし自信はない。


 レオンはテオドルスから配給札の束を受け取ると、諍い合う列の前へ出た。

「カレス隊長」

 呼ばれたカレスが不満げに顎を上げる。

「重装歩兵には、脂の乗った腿肉と骨付きの部位を優先して回します」

「……ほう」

「その代わり、食事の間から出発まで、外縁部の見張りを交代で務めてください。完全武装で」

「なんだと?」

「王の使者がいつ戻るか分からない状況です。陣の守りを任せられるのは最強の重装歩兵しかいない。そうでしょう?」

 わずかに周囲が静まる。名誉で釣って仕事は増やす。我ながら嫌な言い方だと思うが、武功を誇る手前、彼らも無碍には断れない。


 レオンはそのまま軽装兵たちへ向き直った。


「軽装歩兵と荷駄引きには、内臓と脂の多い部位を大鍋で煮て配ります。手間はかかりますが、量が出るし、早く腹にたまる。解体と火の番を続ける人間には、そちらの方が都合がいいはずだ」


「……ちっ」


 不満げな舌打ちは出たが、完全な反発ではない。腹に入ると分かれば、人はまだ我慢する。

 問題は最後だった。


 帳面の端に、負傷者の数が書いてある。見ないふりをしたくなる数字だった。

「負傷兵には、水と煮汁、柔らかい肉の切れ端を優先します」

「少なすぎるだろ!」

 誰かが叫んだ。「あいつらも血を流したんだぞ!」

 だが、レオンはそこで目を逸らさなかった。

「歩けない人に重い肉を詰め込んでも、消化に体力を取られるだけです。それに、今夜か明日には動くかもしれない。その時、彼らを運ぶのは動ける人間です」

 喉がひどく渇いた。

「限られた食糧は、まずは動けるもの、荷を運べるものに回します。そうしないと、全員がここで、立ち往生します」

 場が静まり返る。


 命の重さを、人ではなく役目と消費量で切り分けた。自分で言っておいて、口の中が鉄みたいにまずい。塔の書庫で読んだ賢者の言葉には、たぶんこんな生臭さはなかった。

 けれど、兵の腹は綺麗事では満ちない。

 誰かがやるしかないなら、自分が帳面を汚すしかなかった。


「テオドルス。今の通りに札を配布して」

「は、はい!」

「バウコス、解体する駄獣の選定を急いでください」

「任せな、主計殿」


 指示が流れ始めると、兵たちは渋々ながら持ち場へ散った。

 骨付き肉が焼ける音と、大鍋で内臓を煮る匂いが陣のあいだに広がる。ついさっきまで噛みつき合いそうだった空気が、肉を咀嚼する音に押し戻されていく。

 小さな成果だ。たった一食分。しかも中身は、死にかけた駄獣と敵の盾を燃やした火だ。勝利というには、あまりに貧しい。


「ひどい顔だな、坊ちゃん」


 ミュロンが寄ってきて、皮肉っぽく言った。

「人の命を頭数と残った肉の重さで見る顔になってる」


「立派な主計官だと褒めてるんですか」

「半分はな」

 半分だけなのが、いかにもこの現場の男らしかった。


 その時、横から無言で木の椀が突き出された。

 ダフネだ。中には煮汁と、柔らかい肉が少し入っている。

「食べて」

「……慰めの言葉はないんですね」

「慰め?……要る?」


 要らない。たしかに今は、要らない。

 レオンが椀を受け取ると、ダフネはもう周囲へ視線を戻していた。言葉の代わりに、熱と塩気だけ寄越してくる。そのやり方が、妙にありがたかった。

 煮汁を流し込む。臭みはある。だが、胃に熱が落ちると、止まりかけていた頭が少しだけ動いた。


 その時、外縁の見張りの方で声が上がった。

「戻ったぞ!」

「アリアイオスの陣へ行ってた連中だ!」

 レオンは顔を上げた。


 伝令に赴いていたプロクレスやケイリソポスたちが、西の空を背にこちらへ戻ってくる。

 別れるのか。くっつくのか。

 今夜の肉の分配が兵たちの腹に落ちきる前に、次の算段をどうつけるのかの選択が、もうこっちへ歩いてきていた。


 やれやれ、果たしていい算段がつくのか、つかないのか…

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