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補章4 大王の使者、あるいは現実主義者の嘲笑

 ギリシア人でありながら、ペルシアの大総督サトラップティッサフェルネスの側近として仕える男。それが、ファリノスという男の現在の立ち位置であった。彼は自らを戦術と重装歩兵ホプリタイの戦法の専門家であると自負している 。事実、その知識と教養、そして冷徹なまでの現実主義は、巨大なペルシア帝国においても高く評価されていた。彼にとって、大義や名誉といったものは、腹を満たすことも命を救うこともない、ただの装飾品にすぎない。


「全く、哀れな同胞たちだ」土煙の向こうに広がるギリシア傭兵団の陣営を見下ろし、ファリノスは鼻で笑った。


 昨日、彼らは確かに戦場では勝った。だが、彼らを雇った王弟キュロスは死んだのだ 。巨大な帝国のど真ん中、渡ることもできない大河に挟まれた荒野に、一万人以上の兵士がぽつんと取り残された状態である。


「さて、大王の慈悲をどう伝えてやろうか」


 ファリノスは豪奢な衣を纏ったペルシアの役人たちを従え、使者の杖を掲げてギリシアの陣幕へと進み出た。出迎えたのは、血と汗と土埃にまみれた将軍たちだった。彼らの背後には、腹を空かせ、苛立ちを隠そうともしない無数の兵士たちが控えている。


「大王からの言葉を伝える」

 ファリノスは、あえて流暢な教養あるギリシア語で語りかけた。同胞の言葉で絶望を突きつけることが、最も効果的だと知っているからだ。


「大王は勝利し、反逆者キュロスを討ち取った。ゆえに大王は諸君に命じる。直ちに武器を捨て、王宮の門へ出頭せよ。そして、大王の慈悲と寛大な処置を乞うのだ。さすれば、あるいは良き条件が得られるやもしれん」


  予想通り、場は水を打ったように静まり返った。そして、ギリリ、と無数の革紐が軋む音が鳴った。兵士たちが一斉に槍の柄を握りしめたのだ。ギリシア傭兵団の総司令官ともいうべき老将クレアルコスが、険しい顔で前に出た。


「勝者が武器を引き渡すことなど、あり得ない」 岩のように硬い声でそれだけを言うと、クレアルコスは「あとは各将軍でふさわしい返答をしてくれ」と言い残し、生贄の臓卜ぞうぼくを確認するためだと言って、さっさと奥へ引っ込んでしまった 。ファリノスは内心で舌打ちをした。


(あの狸め。わざと場を外し、血気盛んな若手たちに交渉を投げたな)


 残された将軍たちは、予想通り、誇り高く青臭い反論を次々と口にし始めた。


「武器を渡すくらいなら、死んだ方がましだ」


 最年長のクレアノルが怒鳴る。「王は我々の主人として武器を要求しているのか? それとも友としての贈り物か?」 理詰めで問いただすのは、プロクセノスという将軍だ。「もし主人としてなら、わざわざ要求などせずに力で奪えばいい。友としてなら、武器の代償に我々に何をくれるのかを明示すべきだ」 さらに、若いアテナイ出身の将軍が、胸を張って言い放った。


「ファリノス殿、見ての通り、我々に残されているのは武器と勇気だけだ。武器を手放せば、命も奪われるだろう。我々から唯一の財産を奪い取れるなどと思うな。我々はこの武器を使って、あなた方の財産を奪うために戦うつもりだ」


  名誉。大義。誇り。勇気。どれもこれも、アテナイの学問の塔で語られるような、美しい「哲学」だった。ファリノスは、堪えきれずに鼻で笑った。


「若者よ、君の理屈は立派だ。いかにも哲学者らしい美しい言葉だ。だが、現実を見ていないな」

 ファリノスは、哀れむような視線を将軍たちに向けた。


「君たちのその勇気とやらで、大王の力に勝てるとでも思っているのか? 君たちは大王の領土のど真ん中に取り残され、渡ることもできない巨大な川に囲まれているのだぞ。大王がその気になれば、君たちが殺しきれないほどの兵を送り込めるのだ」


 圧倒的な物量。地形の不利。補給の断絶。ファリノスは戦術家として、彼らがすでに「詰んでいる」ことを知っている。武器を握りしめて喚こうが、腹が減れば人は死ぬ。この荒野で、一万の兵を養える者など大王以外にいないのだ。将軍たちの間に、微かな動揺が走った。


 中には「我々を雇えば、エジプト遠征で役に立つはずだ」と、すでに見苦しい命乞いにも似た提案を口にする者まで出始めた 。(所詮はこの程度だ。名誉を語りながら、現実に直面すればすぐに行き詰まる)そこへ、クレアルコスが戻ってきた。老将は、ファリノスの顔をじっと見据えると、ふいに声の調子を変えた。


「ファリノスよ。あなたを見るのは喜ばしい。なぜなら、あなたも我々と同じギリシア人だからだ。どうか同胞として、我々に最もふさわしく、後世に名誉を残すような助言をしてくれないか」


  老将の駆け引きだった。同郷のよしみに訴えかけ、使者であるファリノスの口から「武器を捨てるな」という言葉を引き出そうというのだ 。だが、ファリノスはそうした情に絆される男ではない。


「ならば答えよう。一万分の一でも勝機があると思うなら、武器を捨てずに戦え。だが、王の同意なしに助かる見込みがないと悟るなら、武器を捨てて生き延びろ。それが私の助言だ」


  現実主義者としての、冷徹な最後通告だった。


「ならば、こう持ち帰れ」


 クレアルコスは低い、だが決して揺るがない声で言った。


「我々が王の友となるなら、武器を持っている方が役に立つ。我々が王と戦うことになっても、武器を持っている方が戦いやすい。どちらにせよ、武器は渡さない、と」

 ファリノスは小さく肩をすくめた。


「その返答は確かに伝えよう。だが、大王からもう一つ伝言を預かっている。『お前たちがここに留まるなら休戦とする。だが、一歩でも前へ進むか、一歩でも退けば、それは戦争とみなす』とのことだ。さて、どう答える?」


「大王の言う通りだ。留まれば休戦。動けば戦争だ」

「で、本心はどうなのだ? 戦うのか、留まるのか?」


「留まれば休戦、動けば戦争だ」クレアルコスは同語反復を繰り返し、それ以上自らの意図を明かそうとはしなかった 。


「……そうか」

 ファリノスは背を向けた。交渉はここまでだ。ペルシアの役人たちと共に馬へ乗り込み、土煙を上げて陣営を後にする。馬に揺られながら、ファリノスは背後に残したギリシアの陣営を振り返った。将軍たちの青臭い「誇り」など、どうでもよかった。彼が本当に薄気味悪さを感じたのは、将軍たちの背後で、無言のまま槍を握りしめていた一万の重装歩兵たちの姿だった。


 そして、彼らを支えるため、静かに、だが確実に削れていく物資を睨みつけていた裏方たちの気配だった。大義や名誉で腹は膨れない。だが、あの腹を空かせた獣たちは、生き延びるためならば大王の喉元にすら平気で食らいつくかもしれない。


「くそ、一時休戦、か…手間をかけさせる」ファリノスは、乾いた風の中で誰にともなく呟いた。大王の力をもってしても、あの飢えた獣たちを綺麗に処分するのは、骨が折れる仕事になるだろう。現実主義者の戦術家は、ただそれだけを確信していた。



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