第44話 市場が立つ
休戦の合意と共に「案内」された村は、それまでの荒涼とした泥道が嘘のような、緑豊かなオアシスだった。
高くそびえる棕櫚の木々が天を突き、その葉の隙間からこぼれる陽光が、泥にまみれた兵たちの青銅の兜を皮肉なほど明るく照らしている。
だが、何よりも兵たちの理性を揺さぶったのは、風に乗って運ばれてくる匂いだった。
焼きたてのパンの香ばしさ、炙り肉の脂の匂い、そして――発酵した果実の、鼻をくすぐるような甘い芳香。
「市場だ……本当に、市場があるぞ!」
誰かが上げた叫びは、瞬く間に全軍へと波及した。
つい数日前まで、クナクサの会戦で死線を彷徨い、その後の数日間は飢えと渇き、そして正体不明の恐慌に怯えていた男たちが、今は子供のように相好を崩している。
彼らにとって、市場とは単なる売買の場ではない。文明の、そして「日常」の象徴だった。
村の入り口付近には、すでに簡素な露店や天幕がひしめき合っていた。
地元の農民たちが、籠に山盛りにした穀物や果実、そして水に濡れた革袋を並べている。
(……おかしい。手際が良すぎる)
レオンは、歓声を上げて市場へ流れ込む兵たちの背中を見ながら、内心で冷めた毒を吐いた。
昨日の今日で、これだけの物資を揃えた市場が「偶然」そこに立っているはずがない。あらかじめ王の側が用意し、供給を調整していると考えるのが妥当だ。
彼らは、我々の腹を満たすことで、戦意という名の牙を抜こうとしている。
「坊ちゃん、突っ立ってると踏み潰されるぞ。仕事だ、仕事」
背後からミュロンの太い声が飛ぶ。彼はすでに荷駄の列を整え、部下たちに周辺の警戒と野営地の確保を指示していた。
口では粗っぽく言っているが、ミュロンの目もまた、市場の物資を冷徹に見定めている。彼も分かっているのだ。ここでどれだけ「命の在庫」を積み増せるかが、これからの撤退戦の成否を分ける。
「分かっています。テオドルス、控えの帳面を出して。シラクサはどこですか?!」
「へいへい、ここですよ主計殿。鼻を利かせて待ってました」
人混みの中から、片目を眼帯で覆った男――隻眼のシラクサが姿を現した。随伴商人でもあり傭兵隊の調達役でもある彼は、すでに現地の商人たちと怪しげな身振り手振りで交渉を始めている。
彼の話すギリシア語は常に不穏な訛りがあるが、金の匂いに関しては軍の中で誰よりも鋭い。
「市場の相場はどうなっている」
「ひどいもんですよ。相場の倍、いや三倍はふっかけてやがる。だが、こっちの兵どもが金貨を握りしめて涎を垂らしてんだ。足元を見ない商人なんて、この世にゃいねぇ」
シラクサはニヤリと笑い、汚れた指先で群衆を指した。
確かに、兵たちはキュロスから支払われたダレイコス金貨を惜しげもなく差し出している。需要が供給を圧倒的に上回れば、価格が跳ね上がるのは道理だ。
だが、その不自然な高値すら、飢えた兵たちには「命の値段」として受け入れられてしまっている。
「……買い付けを急いでください。まずは穀物、次に油。肉は二の次で。それから――」
レオンが指示を出し始めた時、一人の男が重い籠を背負って近づいてきた。
日焼けした肌に、必要最小限の言葉しか持たないような無表情な顔。今回の行軍で一時雇いされた現地の荷駄引き、ナブーだった。
彼はギリシア兵たちが市場の喧騒に浮足立つのを余所に、淡々と、しかし確かな手つきで自分の受け持った駄獣の世話を終え、籠の中身をレオンたちの前に差し出した。
「……ナツメヤシ。それと、酒だ」
ナブーの言葉は短く、事務的だった。彼は籠から、琥珀色に輝く大粒の果実――ナツメヤシ(デーツ)を取り出した。
レオンが一つ手に取ってみると、それは驚くほど重く、指先に吸い付くような粘り気がある。
「ナブー、これは?」
「村の誇り。これを食べれば、一日は歩ける」
レオンは半信半疑でその果実を口に運んだ。
――脳が痺れるような、暴力的なまでの甘さだった。
干しぶどうよりも濃厚で、蜜そのものを固めたような味が、乾ききった体に染み渡っていく。
学問の塔で齧った、干からびた乾パンとは比較にならない。これが、この土地の「豊かさ」なのか。
「へえ、主計殿、こっちが本命ですよ」
シラクサが、ナブーが持ってきた別の革袋を差し出した。
中には白濁した液体が入っている。棕櫚の樹液を発酵させた酒だ。
「一口いかがです? ギリシアの葡萄酒とは別物だが、これがまた効くんだ」
レオンは慎重に一口含んだ。
最初は甘く、次にピリッとした酸味が舌を刺し、最後に発酵臭が鼻に抜ける。決して上品な味ではないが、疲弊した神経を強制的に弛緩させる不思議な魔力があった。
「美味い……な」
「だろう? 兵たちもこれには目がない。だが、気をつけな。ナツメヤシの甘さとこの酒を一緒にやりすぎると、翌朝は石を詰め込まれたような頭痛に襲われる」
シラクサの忠告を裏付けるように、市場のあちこちではすでに酒宴が始まっていた。
焚火が熾され、即席の市場で買い求められた食糧が、兵たちの胃袋へと消えていく。数日間の死の恐怖を忘れるには、この甘みと酔いはあまりにも都合が良すぎた。
ナブーは、そんなギリシア兵たちの狂態を、まるで遠い異国の出来事のように眺めていた。
彼は籠の底から、白く、柔らかな円筒状の物体を取り出した。
「これは何だ?」
「棕櫚の芯。木の命だ」
ナブーが差し出したのは、棕櫚の木の一番高い場所にある成長点――「脳」とも呼ばれる部分だった。
レオンはそれを一口噛みしめた。
――アスパラガスに近いが、より繊細で、独特の気品ある甘みと苦みがある。
確かに美味だ。これほど美味いものがこの世にあるのかと、レオンは自分の無知を恥じたほどだった。
「……美味いだろう。だが」
ナブーが、初めて感情の混じったような、暗い眼差しでレオンを見た。
「この芯(脳)を抜かれた棕櫚は、もう枯れるしかない。二度と実は結ばない」
その言葉が、レオンの背筋に冷たい水を浴びせかけた。
木の命を奪い、その瞬間だけの美味を貪る。
今、この市場で起きていることは、まさにそれではないか。
レオンは市場を見渡した。
兵たちは笑っている。穀物の袋が積み上がり、失われた体力が回復し、軍としての「形」は確かに取り戻されたように見える。
実務官として、これ以上の「成果」はない。列は落ち着き、恐慌は消え、明日の行軍の目途は立った。
だが、その代償は何だ?
(……依存だ)
レオンは自分の震える指先を、帳面の下に隠した。
我々は今、王の提供する市場なしでは生きていけない体に作り替えられている。
自ら補給線を確保する牙を捨て、敵から与えられる「甘み」に群がる家畜に成り下がっているのだ。
この市場が、明日、閉じられたら?
案内人が、毒の混じった場所へ導いたら?
その瞬間に、我々は芯を抜かれた棕櫚の木と同じように、立ち腐れるしかない。
「レオン」
いつの間にか、隣にダフネが立っていた。
彼女は、兵たちが貪り食っているナツメヤシには目もくれず、いつも通り、レオンの横顔をじっと見つめている。
「……顔色が悪い。ナツメヤシの甘みに当てられた?」
「いや。……ただ、少し怖くなっただけだよ。この市場が、あまりにも居心地が良いから」
ダフネは何も言わず、腰に下げた水袋を差し出した。
中身は、先ほどの棕櫚酒ではなく、ただの冷たい水だった。
レオンはそれを一気に飲み込み、喉を焼くような不快な甘みを洗い流した。
「あんたは、みんなが笑っている時に一番嫌なことを考えるのが仕事なんでしょう」
ダフネの少し笑いを含んだ乾いた声に、レオンは自嘲気味な笑みを返した。
「ああ。……僕くらいは、この市場の裏側にある首輪の感触を、覚えておかなくちゃいけないからね」
市場の喧騒は夜遅くまで続いた。
兵たちが一時的な安堵に身を委ねる中、レオンは一人、松明の光を頼りに帳面を更新し続けた。
買い上げた穀物の量、支払った金貨、そして――明日から我々を導くという「案内」への、消えない不信。
翌朝、軍はさらなる深部へと進むことになる。
王の懐へと、自ら首輪の綱を差し出すように。




