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第33話 勝ったはずなのに、何も手に入っていない

 雇い主が死んだ。

 その事実がもたらす最大の恐怖は、大義の喪失でも、元からあったかどうか怪しい忠誠の行き場でもなく、「今日の配給がどこからも出ない」という極めて物理的な現実だった。


 そういえば、塔で読んだ書物にあったなぁ...戦いに勝って勝負に負けるだったか…ええとエテオクレスとポリュネイケスだったかな。


 今のぼくらはまさにその状態。

 とてもイヤな現実だ。


 見渡す限りの広大な平原には、一万を超える人間が煮炊きするための薪など、どこにも落ちていない。昨日までなら、王弟の陣営から何らかの指示と、それを裏付ける十分な物資が降りてきたはずだった。だが、契約の中心であった男が消えた今、伝令の影すら見えない。


 ではどうするか?


 自分たちの足元に転がっている、昨日の戦場の残骸を漁るしかなかった。


「ほら、もっと持ってこい! その無駄にでかい板っ切れも割っちまえ!」


 古参の荷駄頭であるバウコスが、ひび割れた声で指示を飛ばす。

 兵たちが泥まみれになりながら抱えてくるのは、昨日まで敵が持っていた武器や防具だ。散乱している矢束、血と泥を吸って重くなった籐盾、そしてエジプト兵が持っていたという身の丈ほどもある巨大な木製盾。それらをその辺の石や手持ちの斧で乱暴に叩き割り、無理やり薪の代わりにして火床に放り込んでいく。


 盾になるような木材は頑丈で重いのだが、燃えにくい。

 軽装歩兵たちが、端々を削って火がつきやすく加工する音が響いていく。


 さらに、車輪が割れて使い物にならなくなった自軍の空の荷車まで容赦なく解体され、燃料として積み上げられた。


「おい、待て! その荷車を燃やす気か!」


 鋭い怒鳴り声を上げたのは、重装歩兵ホプリタイの顔役である百人隊長のカレスだった。まだ乾いた血がこびりついた青銅の兜と紫の衣を身につけたまま、バウコスに詰め寄る。

「怪我人を乗せる車が足りなくなるだろうが! 俺たち重装歩兵の負傷者を地べたに寝かせるつもりか!」

「車軸が折れてるんだよ! 直す木材も暇もねえ! これを燃やさなきゃ、てめえらの口に入る肉も焼けねえんだ!」


 バウコスも負けじと怒鳴り返す。


「ふざけるな。俺たちが敵の中央を押し返したから勝てたんだぞ! 肉だって、最前線で槍を振るった歩ける者に先に回せ! 荷駄の連中や軽装歩兵ペルタスタイの分は後回しだ!」


「ふん、その最前線でてめえらが戦ってる間、背後から襲いかかってきた敵の騎兵から荷駄を守ったのは誰だと思ってやがる!」


 怒号が飛び交い、今にもつかみ合いになりそうな空気を、ミュロンが間に割って入って乱暴に引き剥がした。


「やかましい! 腹が減って喚く元気があるなら、さっさと火種を持ってこい! 薪があっても火がなきゃただのゴミだ!」


 ミュロンの荒い声に、カレスは舌打ちをして引き下がったが、重装歩兵と軽装歩兵、そして荷駄側との間の軋轢は、勝利の翌朝とは思えないほど険悪だった。


「主計殿、火種を頼む。こいつら、血やら何やら吸っててひどく湿気てやがる」


 バウコスに呼ばれ、レオンはため息をつきながら火床の前にしゃがみ込んだ。

 平原を吹き抜ける風が強く、配給品の粗悪な火打ち石ではなかなか火が起きないのだろう。こんな時だけ魔法使い扱いだ。いや、実際、今の自分にはこれくらいの使い道しかない。


 レオンは指先をこすり合わせ、火口となる乾燥した草の束に意識を集中する。

 ぼっ、と小さな炎が生まれた。蝋燭の火より少しマシな程度の、微弱な火魔法だ。

 風で消えそうになる炎に対し、隣にすっと影が落ちた。ダフネが無言で風上に立ち、自分の外套を広げて風よけになってくれている。相変わらず、口より先に身体が動く女だ。

 そのわずかな無風の隙に、レオンは火種を木製盾の破片の間に滑り込ませ、息を吹きかけた。指先に嫌な痺れが走るのを無視しながら火を育てる。何度か重い煙が上がり、やがてパチパチと木が爆ぜる音が鳴り始めた。


「よし、火が点いたぞ! 肉を吊るせ!」


 バウコスの声で、腱切り小刀を手にした兵たちが動き出す。

 焼かれているのは、敵陣から奪った牛でも羊でもない。自分たちの荷駄獣だ。昨日の戦闘で流れ矢を受けて歩けなくなった驢馬や、限界を迎えて倒れた牛たちが、その場で荒っぽく解体され、縄で吊るされて火に炙られている。

 脂の焦げる匂いが漂い始めるが、誰の口からも歓声は上がらない。


「どう見ても、勝ち戦の軍隊の食い扶持じゃねえな」


 肉の焼け具合を確認しながら、バウコスがぽつりとこぼした。

 その言葉に、レオンも内心で深く同意する。


「荷駄獣は、どれくらい減ったんですか」


 レオンが尋ねると、バウコスは顔の深い皺をさらに寄せて首を振った。


「使い物にならなくなった車と駄獣で、ざっと一割強ってとこだ。だが、それ以上に……」


 バウコスは焼け焦げた木製盾の破片を棒で突いた。


「この先、何を駄獣に食わせるんだ? 干し草の蓄えなんて、とっくに底をついてる。この辺りの草なんて、進軍してきた時にあらかた食い尽くしちまった。腹をすかせた駄獣は、いくら鞭を入れたって動かねえ。動けなくなった端から、こうやって俺たちの胃袋に収まるだけだ」


 荷駄が減れば、運べる物資が減る。

 運べる物資が減れば、捨てていくしかない。


「レオン」


 背後から、低く冷たい声が降ってきた。上官である兵站監のフィロンだ。

 ダフネが素早く一歩下がり、護衛の立ち位置につく。フィロンは周囲の惨めな炊事風景にも、先ほどの兵科間の諍いにも目もくれず、レオンを見下ろした。


「現在の頭数と、残存する荷駄の積載可能量、そして歩行可能な負傷兵の数をすぐに洗い出せ」

「……頭数と荷駄と、歩ける負傷兵まで先に洗い出すんですか。前進前提の計算ではありませんね」


 レオンは立ち上がりながら、無意識に棘のある言葉を返していた。


「当然だ。キュロス様は死んだ。我々にはもう、王座を奪う大義も、それを支える莫大な金も存在しない。あるのは、一万を超える腹をすかせた兵士と、敵地のど真ん中という現実だけだ」


 フィロンの言葉は、氷のように冷徹だった。結論と理由だけがそこにある。


「必要なのは、この軍が『何日かけて、どこまでなら自力で移動できるか』の算段だ。感情は捨てろ。荷を捨て、歩けない者を切り捨ててでも、軍としての形を保てる限界点を弾き出せ。数だけは見失うな」


 わかりました、とレオンは短く答え、従者のテオドルスを呼んで帳面を取り出させた。

 怯えた顔のテオドルスが広げたざらついた羊皮紙に、木炭のペンで数字を書き込んでいく。

 駄獣の損耗率。

 残された麦と塩肉の量。

 一日の最低消費量。

 水袋の数。


 ――なんだ、これは。


 数字を並べながら、レオンは自分の思考の形にひどい嫌悪感を覚えた。

 つい昨日まで、「王弟が勝てば莫大な恩賞が出る」という計算をしていたはずだ。それが今は、「あと何日で食糧が尽きるか」「どこで荷を捨てるべきか」という、完全に撤退前提の計算に切り替わっている。

 生き残るためには、この計算をしなければならない。状況を整理し、現実を見据えなければ、一万の兵はあっという間に干上がる。自分の仕事は、その寿命を一日でも長く延ばすことだ。

 頭ではわかっている。だが、昨日まで肩を並べていた兵士をただの「消費する胃袋の数」として数え、荷駄獣の肉を食いながら限界点を弾き出している自分が、ひどく冷酷な人間に思えて吐き気がした。


「……坊ちゃん」


 ふいに、横から差し出された木の手桶が視界に入った。

 見上げると、ミュロンが嫌そうな顔をして立っていた。桶の中には、少しばかりの濁った水が入っている。


「帳面ばっかり睨んでると、目が腐るぞ。さっさと顔でも洗って、肉でも食え」

「……ありがとうございます」


 レオンが桶を受け取ると、ミュロンはバウコスの方へ向かい、再び荷駄の整理について短い言葉で指示を飛ばし始めた。乱暴だが、彼らの中には確かな現場の秩序がある。ミュロンもバウコスも、絶望する暇があるなら、目の前の荷縄を結び直す側の人間だ。


 ダフネが、焼けた驢馬の肉を削ぎ落とし、串に刺してレオンに無言で差し出した。

 脂が落ちて、ジュッと火が爆ぜる。慰めの言葉など一言もないが、彼女はレオンの顔色を見て、一番早く焼けた部分を持ってきてくれたらしい。

 一口かじると、硬くて筋張っていて、到底うまいとは言えなかった。だが、噛みちぎって飲み込まなければ、明日歩くための力が出ない。


 レオンが肉を咀嚼していると、少し離れた火床の周りで、火番の若手兵カリアスたちが寄り集まって話しているのが耳に入ってきた。


「なあ……俺たち、これからどうなるんだ?」

「決まってるだろ。故郷に帰るんだよ」

「でもよ、王弟様が死んだんだろ? 約束されてた金は誰が払うんだよ」

「そんなもん、知るか。とにかく、ここから抜け出さねえと」


 不安に押しつぶされそうな声。

 そして、カリアスがふと、最も厄介な疑問を口にした。


「……アリアイオス様の軍は、どうするんだ? 俺たちと一緒に来てくれるのか?」


 その言葉に、火床の周りに一瞬、重い沈黙が落ちた。

 アリアイオスは、王弟キュロスの副将格であり、現地ペルシア兵のトップだ。昨日までは同じ王弟軍として肩を並べて戦っていた。

 だが、キュロスが死んだ今、彼らがギリシア傭兵と行動を共にする義理があるのか?

 彼らには彼らの、ペルシア人としての都合と繋がりがある。言葉も通じない異国の傭兵を一万も引き連れて、彼らに何の得があるというのか。


「……来るに決まってんだろ。俺たちが昨日、どれだけ敵をぶっ飛ばしたか見てただろ。俺たちがいないと、あいつらだって困るはずだ」


 誰かが強がって言ったが、その声には確信がなかった。


 レオンは串から最後の肉を噛みちぎりながら、手元の帳簿に目を落とした。

 自分たちの食い扶持の計算には、アリアイオス軍数万の頭数は入っていない。そしておそらく向こうの計算にも、ギリシア人の胃袋を満たすための数字など入っていないだろう。

 もし彼らが手を引けば、ギリシア傭兵は完全にこの広大な敵地の真ん中で、文字通り孤立することになる。

 次の雇い主など、どこにもいないのだ。


 ――勝ったはずなのに。


 喉を通る硬い肉が、ひどく苦く感じられた。

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