第32話 雇い主は死んだ
情報は、底冷えのする霧が地を這うようにして、幕舎の間を抜けてきた。
クナクサでの会戦から一夜が明けた宿営地は、およそ勝ち戦の翌朝とは思えないほど静まり返っていた。
昨晩のどんちゃん騒ぎの余熱はすっかり冷め、あちこちの火床からは頼りない細い煙が立ち上るばかりだ。燃料すら満足に配給されていないため、兵たちは戦場に転がっていた敵の巨大な木製盾や籐盾、へし折れた荷車の残骸などを叩き割り、無理やり火を起こして身を寄せ合っている。
公式な触れが出たわけではない。どこかの部隊が捕らえた捕虜の口から漏れたとか、クレアルコス将軍の天幕に駆け込んだ伝令の顔色が死人のようだったとか、そういった不確かな欠片が、喉を鳴らす兵たちの間で急速に形を成していく。
「どうも王弟が、討たれたらしい」
レオンがその言葉を耳にしたのは、前日の戦いの混乱で紛失した配給用の木札の再発行作業に追われている最中だった。
蝋板に文字を刻みつけていた尖筆の動きが、ぴたりと止まる。
隣の粗末な机では、従者のテオドルスが、丸まった皮紙を必死に押さえつけながら、羽ペンで清書を試みていた。慣れない素材にインクが滲み、彼は怯えた小動物のように肩をビクンと揺らした。
「レ、レオン様……今、外でなにか…」
「テオドルス、手を止めてはいけませんよ。あなたがいま格闘しているその皮紙は、ただでさえ貴重なんです。書き損じて駄目にでもしたら、おもったより高くつくしろものなんですからね。
あなたの言いたいことはわかります。
羊皮紙なんてパピルスよりも書きにくいし保存もメンドクサイのに…小アジアの風習はよくわからないですね」
テオドルスは、そんなことが言いたいわけではなかったが、目が回るほど忙しいのは事実だったので、何も言わなかった。
レオンはレオンで、こういう時は、なぜか無関係な愚痴を言っていた方が、精神の安定が保てる。
知りたくはない事実だったが...心にウソはつけないかった...たぶん、意味不明の愚痴を言っていなければ叫び出していただろう…などと思っていた。
いろんなものを無理やり理屈で押し殺し、レオンは手元の蝋板に視線を戻した。
日常的な計算や一時的な記録には、何度も均して書き直せる蝋板を使うのが常だ。だが、遠征軍全体の正式な配給記録や契約に関わるものとなると、どうしても羊皮紙やパピルスに残す必要がある。とはいえ、書物として完成されたものを読むのとは違い、野営地の不安定な机で、湿気を含んだ分厚い羊皮紙に正確な数字を書き込んでいく作業は、学問の塔で文字に親しんできたレオンにとっても骨の折れる仕事だった。
「ですが、王弟が……」
「噂です。ただの流言ですよ」
自分に言い聞かせるように、レオンは冷たく言い放った。
信じたくないというより、あまりに現実離れしていて理解が追いつかない。
あの、太陽を地上に降ろしたような輝きを持っていた王弟が、ただの骸になった? 十万を超える大軍勢の中心で、黄金の馬車に乗り、鷹のように鋭い眼光で全軍を睥睨していたあの男が。
あり得ない。何かの間違いだ。だが、蝋板を握る指先の冷たさは一向に引かなかった。
「主計殿。元気かい?」
低く、地を這うような声に顔を上げると、陣幕の入り口にミュロンが立っていた。
彼はいつも通り、使い込まれた盾の縁を無造作に撫でている。だが、その目は笑っていない。歴戦の古参兵特有の、最悪の事態を値踏みするような鋭い目をしていた。
「……ミュロン。今、外を通っていった声が聞こえましたか?」
「聞こえたも何も、俺の耳は飾りじゃねえ。……だが、将軍幕舎からの正式な触れが出るまでは、ただの寝言だと思っておけ」
ミュロンはそう吐き捨てて、短く舌打ちをした。
その直後だった。宿営地の中心部、将軍たちが集まる区画の方角から、どよめきが沸き起こった。
何事かとレオンが陣幕の外へ出ると、遠くの土埃の向こうから一団の使者があらわれるのが見えた。
キュロスの腹心だったはずの男たちだ。ギリシア語が通じるプロクレスと、グルスという名だったか。彼らの姿に、兵たちが波を割るようにして道を作る。
使者たちのまとう空気には、勝利の凱旋など微塵もなかった。馬は疲労で泡を吹き、騎乗する彼らの顔は土気色に沈んでいる。
やがて、将軍たちの天幕から漏れ聞こえた事実が、さざ波のように全軍へ広がっていった。
使者の口から語られた事実は、残酷なまでに簡潔だった。
キュロスは死んだ。
王の陣を突いた際、乱戦の中で致命傷を負い、落命したという。
そして、軍の右翼を担い、現地ペルシア人の主力部隊を率いていたアリアイオスは、すでに前日の宿営地まで部隊を後退させている。
使者は、アリアイオスの言葉をそのまま伝えた。
『今日一日はここで待つが、明日にはイオニアへ向けて帰還を開始する』
「……死んだのですか。本当に」
レオンの口から、呆然とした声が漏れた。
周囲では、にわかに真実味を帯びた訃報に、兵たちが頭を抱え、槍を地面に投げ出し、中には声を上げて泣き出す者すらいた。彼らにとってキュロスは、金払いの良い気前のいい主であり、勝利と富を約束してくれる絶対的な光だったのだろう。
ちょっとまえは契約金の不払いで大騒ぎをしたのを考えると、人間とは実に現金なものだ。
だが、そんな人間観察をよそにレオンの背中を伝ったのは、べっとりとした冷や汗だった。
ボイオティアの次男坊が抱いていた、異国での立身出世という淡い夢が霧散した、というような情緒的な話ではない。
いや、そもそもそんな夢は抱いてないけどね。
それはさておき、契約の主がいなくなったのだ。
僕たち一万を超える外国人傭兵の身の安全を、いったい誰が保証する?
あの大盤振る舞いの給金は? 勝利のあかつきに約束されていたダレイコス金貨は?
いや、そんな先の金の話はどうでもいい。
今日、誰がこの広大な敵地の真ん中で、一万人分の飯を出すんだ?駄馬や従者を入れると二万人分は考える必要がある。
僕たちは王弟に金で雇われたから、ここまでついてきた。その雇い主が死んだなら、金の当てがないまま帰路につくことになる。
背後から迫る王の軍勢に気を使いながら。
控えめに言って、かなり…追い込まれた後のプテイアだ。
「雇い主が、死んだ……」
思わず口に出た言葉は、自分でも驚くほど冷淡だった。
周囲で嘆く兵たちの声が、遠い波音のように聞こえる。
レオンの頭の中では、世界を支えていた前提が猛烈な勢いで書き換えられていた。帳面の黒字が、たった一行で完全に消え去ったのだ。
残されたのは、ただ毎日飯を食い潰す数万の口と、草を食う膨大な数の獣。そして、帰り道を知らない無数の荷駄の列。
さらにその外側には、明確な敵意を持ったペルシア王の巨大な軍勢が取り囲んでいる。
契約が切れた瞬間、僕たちはただの巨大な盗賊団と同じだ。
その事実が重くのしかかり、レオンは胃の中のものがせり上がってくるのを感じた。自分が今、主の死を悼むことすら忘れ、いかに冷徹な計算をしているかに気づき、ぞっとする。自分の中には、立派な大義など初めからなかったのだと、己の浅ましさにひるむ。
「坊ちゃん。顔色がひどいぞ」
いつの間にか隣にいたダフネが、ひしゃくを差し出してきた。中には底の方に少しだけ濁った水が入っている。
「……ダフネ。あなた、驚かないのですか。王弟が死んだのですよ」
ひしゃくを受け取りながら、レオンはすがるような声で聞いた。だが、彼女は表情一つ変えない。
「別に。
雇い主が死ぬことは珍しいことじゃない」
彼女は短く、事実だけを突きつけた。慰めの色など微塵もない。
「レオンはこれから忙しくなる。
王弟が生きていれば、将軍たちの命令を待てばよかった。
だが、もう当てが無くなったんだ。今日誰がこの軍の飯を出す?
早晩、この軍は野犬の群れに変わるよ」
ダフネの言葉が、レオンの混乱を鋭く切り裂いた。
情けないことに、自分はまだ「上からの命令」を待とうとしていたのだ。プロクセノス将軍か、フィロン兵站監か、誰かがどうにかしてくれるはずだと。
だが、もう命令の大元である雇用主は、戦場の大地に血を流して伏している。上層部だって混乱の極みだろう。
「終わったんじゃねえ、これからが始まりだ。主計代理殿」
ミュロンが、腕に抱えていた木札の束を、レオンの机に叩きつけた。
バッ、と乾いた音がして、配給用の木札が散らばる。
「第一中隊の連中が、昨日分の配給が足りねえと騒ぎ始めてる。荷駄のバウコスも、駄獣の飼葉が今日で尽きると言ってきた。どうする」
ミュロンの目は、レオンを試していた。ここで腰が引けるようなら、ただの口ばかりの「帳簿役」として切り捨てる。そう言外に告げている。
こんな粗暴な連中にすごまれるのは……しかも、それに対して物申すのは、ちょっと前なら、絶対に無理だったろう。
たとえミュロンが気持ち僕らの味方でも。
なんせ、相手のお気持ちひとつで、あっというまに骸に変えられてしまう自身はあるのだ。
レオンは小さく息を吐き、机の上に散らばった木札を睨みつけた。
キュロス名義の焼印が押された配給札。つい昨日まで、これがあれば絶対的な価値を持って穀物やワインと交換できた。だが今は違う。これはもう、ただの薪にもならない木片だ。
「……テオドルス」
レオンは、震えを押し殺した、努めて丁寧な声で従者を呼んだ。
「はい、レオン様」
「配給札の再発行はすべて中止です。今ある木札もすべて回収してください。キュロス様の名で発行された札は、もうただの木片です」
「えっ、しかし……それでは兵たちが、自分たちの取り分はどうなるのかと……」
「騒ぐなら騒がせておきなさい。今は、手元にある現物だけがすべてです。見もしない財宝の約束で、腹は膨れません」
レオンは手元の蝋板の表面をヘラで乱暴に平らにならすと、尖筆で新しい項目を深く刻み込んだ。
もはや存在しない雇い主への献辞も、前日までの虚飾に満ちた帳尻合わせも必要ない。ただ、生きている人間の数と、残された物資の量だけを追うための冷酷な数字を。
「テオドルス。今日からは、今朝生きている頭数だけを基準にします。各隊の天幕を回り、現在の人数と負傷者の数を、正確に蝋板に書き取ってきてください」
「は、はい!」
「それから、僕の印のない古い札での配給は、これより一切認めない。そう各隊の半隊長に伝えてください。……文句があるなら、この役立たずの主計代理のところへ来るようにと」
テオドルスが弾かれたように陣幕を飛び出していく。
レオンは尖筆を握り直した。
アリアイオスの元へ合流するのか。それとも、ペルシア王へ降伏の使者を送るのか。そんな軍全体の巨大な方針は、将軍たちが軍議で決めればいい。
だが、その決断が下るまでの間、この一万の集団を飢えさせず、内側から崩壊させないための泥臭い計算は、自分がやるしかないのだ。
ああ、こういうときにふっと塔に残りたかった自分が顔を出す。
絶対に、残れるはずもないし、あそこだってそれなりに嫌な思いをしたはずなのにな……
人間、こういうときだけ都合のいいことだけ思い出す。
決意したと考える傍らで、よしなしごとを考えている自分がいた。
でも......
朝日が照らす陣幕の中で、レオンは冷たい現実に腹を括った。
誰の庇護もない、逃げ場のない夜は、もう始まっている。




