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第31話 朝になっても王弟は来ない

 血と泥、それに排泄物の混じった臭いが、冷たい夜明けの風に乗って鼻を突く。

 クナクサの平原に白み始めた空は、どこまでも高く、そしてよそよそしかった。


 レオン・カルディアスは、まだ薄暗い陣幕の裏手で、羊皮紙の束を片手に皮の水袋の数を数えていた。

 一つ、二つ、三つ。

 結び目の緩みを確認し、中身が漏れていないかを確かめる。傍らに控える若い従者のテオドルスが、震える手で控えの木簡に数字を写し取っていく。

 続いて、昨日の戦闘で負傷した者たちのために割いた、清潔な布の残量を数える。


(足りない。圧倒的に足りない)


 羊皮紙に書き込まれた数字を睨みながら、レオンは内心で毒づいた。

 水袋の残数は、プロクセノス隊に所属する二千の兵が今日一日を凌ぐには到底足りない。傷口を洗うための水すら惜しい状況だ。


「おい、主計! いつまで待たせるつもりだ!」


 配給幕の前に、怒号が響いた。

 びくりと肩を跳ねさせたテオドルスが、控えの木簡を落としかけ、慌てて水袋の札を抱え込んで一歩後ずさる。

 残念ながら、僕にはびくりとするような感覚が無くなってしまった。

 皆の怪我や死を数字で数えているうちに、ちょっとづつ、色んなものが薄れてしまった…やっぱりフィロンに似てきてるよなぁ……

 日の出とともに、空きっ腹を抱えた兵たちが押し寄せてきているのだが、どこか薄らぼんやりしていた。

 しかも先頭に立っているのは、重装歩兵ホプリタイの百人隊長カレス殿だ。

 彼の分厚い青銅の胸当てには、昨日の激戦を物語る生々しい傷跡がいくつも刻まれている。


 もう、彼を見ても不愉快にすらならなかった…魔法を使い過ぎた時みたいに頭が熱を持ったようにぼうっとしていた。


「俺たちの突撃が敵の左翼を粉砕したんだ! 勝ったんだから、残っている干し肉と酒は一番に俺たち重装歩兵へ回すのが筋だろうが!」


へぇ、と思って聞いていると別の一隊が現れた。


「ふざけるな、この鈍亀ども!」


 カレスの怒声に噛み付いたのは、後方からやってきた軽装歩兵ペルタスタイの集団だった。


「夜通し泥にまみれて、散り散りになった荷駄を拾い集めたのはこっちだぞ! あんたらいびきを掻いて寝てただろうが! こっちには怪我人もいるんだ、水を先に出せ!」


 血気にはやる兵士たちが、配給幕の前にじりじりと詰め寄ってくる。兵科同士の利害衝突と、渇きという現物の限界が、薄氷の上に立つような宿営地の秩序にひびを入れ始めていた。

 レオンは小さく息を吐き、羊皮紙から顔を上げた。


「……気持ちはわかりますが、勝手な配分はできません。現在、上からの正規の配給指示を待っている状態です」

「指示だと? もう夜が明けてるんだぞ!」

「ええ。ですから、お待ちくださいと言っているんです。いま手元にある在庫を無計画に開ければ、重装歩兵全員の喉を潤す水すら足りません。略奪品の肉を配るにしても、隊ごとの頭数と負傷者の数を照合してからです」


 レオンが淡々と事実だけを突きつけると、カレスは忌々しそうに舌打ちをした。

 そこへ、低くしゃがれた声が割って入った。


「やかましいぞ、てめえら。主計殿が『ない』って言ってるんだ。羊皮紙を食って腹が膨れるなら、そこらの陣幕でも囓ってろ」


 軽装歩兵の半隊長、ミュロンだ。彼は剣の柄に手を置き、無言の圧でカレスたちをねめつけた。古参兵の放つ凄みに、重装歩兵たちも渋々と引き下がっていく。

 一時の場は収まった。だが、レオンの頭の中の帳簿は、けたたましく警報を鳴らし続けていた。


(遅い。いくらなんでも遅すぎる)


 昨日までなら、夜明けには誰かしらの伝令が来たはずだった。王弟キュロスからの使者が陣を駆け回り、再配置の命令や、新しい水場、今日の配給についての指示が飛んでくるはずなのだ。


「主計殿、俺たち、勝ったんですよね?」


 不意に背後から声がした。振り返ると、若い軽装歩兵が立っていた。カリアスだ。いつぞやの夜営で、レオンが火の番の彼に微弱な火魔法で火種を助けてやった縁がある若手兵だ。


「……ああ。敵の左翼は崩したと聞いていますね」

「ですよね! じゃあ、今日の飯は期待していいんですよね。もう腹が減って、背中とくっつきそうです」


 カリアスの腹が、きゅるると間の抜けた音を立てた。無邪気なその顔には、死線を越えた怯えよりも、勝利の後の配給への期待が張り付いている。手には、燃え尽きかけた荷車の車輪の欠片が握られていた。どうやら火床の火を絶やさないよう、残骸をかき集めてきたらしい。


「薪ももうないんですよ。この湿った木っ端じゃ、火も点きやしない」


 レオンはカリアスから車輪の欠片を受け取った。指先を木片の端に当て、意識を集中する。

 ほんのわずかな熱。ぼそり、と乾いた音がして、木片の端に小さな種火が宿る。


「うおお、助かります! これで冷たい驢馬の肉を炙れますよ!」

「風除けを作ってから燃やしてくださいね。魔法で起こした火は、最初は勢いがありますが、すぐに普通の火と同じになりますから」


 手で覆いながら喜んで駆け出していく若手の背中を見送りながら、レオンはこめかみを押さえた。指先の軽い痺れと、目の奥に鈍い疲労感が走る。たかが木片に火を点けるだけでこれだ。戦局を覆すような魔術師になど、なれはしない。


「ちったぁ静かにしろ、馬鹿野郎ども」


 ミュロンが不機嫌そうに顎髭をさすりながら、灰になった火床を靴の先で小突いた。その目は、喜びに浮かれる若手兵たちではなく、静まり返った将軍たちの陣幕に向けられている。


「よく覚えておけ、勝った軍ってのはな、もっと喧しいもんだ。

 戦利品の自慢や、死んだ奴の愚痴で夜通し騒ぐのが相場だ」


 現場でいくつもの死線を潜り抜けてきた古参の半隊長の嗅覚が、この朝の異常性を正確に突いていた。


「嫌な朝だ、チクショウめ」


「そう、どうにも嫌な感じがする」

 ミュロンの後ろから、護衛のダフネが短く付け足した。

 彼女は日に焼けた顔に険しい色を浮かべ、手には短槍が握られたままだ。昨夜から一睡もしていないかのように、そして多分一睡もしてないと思う…これは、僕が悪い…下手すると彼女は二徹目だ…それでもいつでも動ける立ち位置を崩していない。

 ぽいっ、と放物線を描いて、皮袋がレオンの胸に飛んできた。

 慌てて受け取ると、中には三分の一ほど水が入っていた。ダフネは何も言わず、ただ顎でそれを示しただけだ。慰めや労いの言葉など一つもない。ただ「今のうちに飲んでおけ」という、生存に直結する事実だけを突きつけてくる。


「……ありがとう」


 朝から何も口にしていないことを思い出した。


 レオンは一口だけ水を喉に流し込み、革紐をきつく縛り直した。


 ミュロンの言う通り、宿営地は不気味なほど静かだった。

 一万を超えるギリシア重装歩兵。二千五百の軽装歩兵。減ってしまったとはいえ、それなりの規模だつた。また、それに随伴する荷駄引き、従者、商人たちを含めれば、この集団は二万人規模の「移動する都市」に等しい。

 これだけの人間が一日留まるだけで、どれだけの水と麦が消えるか。

 レオンは周囲を見渡した。


 視線の先にあるのは、灰ばかりになった無数の火床の跡。

 昨日の残骸の驢馬肉を煮ることもできない、水気のない空の鍋。

 傷口を洗う分すら惜しく、口を湿らせるのが精一杯の皮袋。

 そして、誰一人として使者が訪れない、静まり返った将軍たちの幕舎。


 我々は金で雇われた外国人傭兵だ。主君への忠誠ではなく、契約と給金で繋がっている。勝ったのなら、真っ先に戦利品の荷駄が到着し、恩賞の約束が触れ回られるはずだ。

 だが、その雇い主からの連絡が、夜が明けても一切ない。


(いや、ただ混乱しているだけだ)


 レオンは自分に言い聞かせるように、奥歯を噛み締めた。

 会戦直後で、命令系統が追いついていないだけだ。王弟はいま、どこか別のもっと大きな始末に追われているのだろう。そう理屈をつけて、無理やりにでも納得したかった。

 だが、帳面の方が、怒鳴り声より先に尽きるものを教えてくる。

 帳簿が示していたのは、勝ちの朝にしては減りすぎた水と、遅すぎる命令だった。


「……おい、見ろ」


 ミュロンが目を細め、平原の彼方を指差した。

 朝霧を割って、一団の影がこちらへ向かってくる。遠目にも、それが将軍たちの陣幕へ向かう使者であることがわかった。

 だが、その馬の歩みはひどく重い。勝者の報せを告げ、恩賞を約束する華やかな伝令のそれには、到底見えなかった。


 ダフネが音もなく槍の柄を握り直す。

 レオンは手元の羊皮紙を強く握りしめた。

 勝ったはずなのに、勝者の朝ではない。

 冷たい風が、火床の灰だけを虚しく巻き上げていった。

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