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第3話 あそこに男がいる

 

 ギリシア軍が追撃戦に移行し、視界から消えていった。

 そして右翼にポッカリと空いた穴を埋めるように、敵の分厚い騎兵の壁がゆっくりと動き始めていた。


 王の軍勢は、逃げる左翼など見捨てていた。無傷の六千の騎兵が、孤立したキュロスの中央陣営を包み込もうと旋回を始める。


 ここで包囲されるのは面白くない。

 キュロスは少し片眉を上げた。


 その時だった。

 分厚い敵陣の奥、黄金の馬衣を着せた馬に跨るアルタクセルクセスの姿が、不意に土煙の切れ間から覗いた。


「あそこに男がいる」


 キュロスの声は低く、ひどく静かだった。

 それは司令官の号令ではなく、冷たい確信だった。この一言を口にした瞬間、彼は数万の軍を率いる王弟から、ただ兄を殺すためだけの弟へと変わった。


「私に続け!」


 黄金の馬具が鳴り、六百の拍車が同時に馬の腹を蹴り上げた。

 地鳴りが起きる。標的は、王の前に立ち塞がる六千の親衛騎兵。十倍の厚みを持つ壁へ向けて、キュロスは六百の騎兵を楔の形に束ねて一直線に叩きつけた。

 馬の胸と胸が激突し、兜と骨の砕ける鈍い音が連続して響く。絶望的な数合わせを無視した、ただひたすらに命と速度を削る突撃だった。


 キュロスを先頭にした猛烈な熱は、分厚い敵の陣列を力ずくで押し破っていく。

 先頭を駆けるキュロスの前に、敵の騎兵指揮官アルタゲルセスが長槍を構えて立ち塞がった。互いの馬が殺し合うほどの速度ですれ違う。アルタゲルセスの穂先がキュロスの紫の衣を掠めて裂いた瞬間、キュロスは身を沈め、すれ違いざまに自らの槍を真横になぎ払った。

 青銅の刃が、兜の隙間からアルタゲルセスの頸動脈を深く断ち割る。噴き出した熱い血がキュロスの顔と胸当てを濡らしたが、彼は瞬き一つしなかった。その視線はただ一点、陣列の向こうにいる兄の姿にしか向いていない。


 指揮官を瞬殺され、六百の狂気じみた突進に恐れをなした六千の騎兵は、もはや盾の役目を果たさず算を乱して割れた。

 だが、その強すぎる突破力が仇となった。敵を追い散らすことに熱狂した六百の騎兵たちは、自ら散開して彼方へと駆け去ってしまったのだ。


 陣列が完全に割れ、ついに視界が開けた時、キュロスの周囲には「食事の友」と呼ばれるごく僅かな側近しか残っていなかった。

 数十歩先の土煙の向こうに、驚愕に見開かれた兄の顔があった。


「あいつだ!」


 キュロスは叫び、手にした投げ槍を頭上高く振りかぶった。

 馬の踏み込みに合わせて、全力で放つ。空を切る鋭い音が響いた。槍は恐ろしいまでの正確さで吸い込まれ、王の分厚い胸当てを真正面から打ち抜いた。

 青銅がひしゃげ、肉を裂く音。アルタクセルクセスは血を吹き出し、悲鳴を上げて馬の背から大きく崩れ落ちた。


 周囲の時間が止まったかのように思えた。

 討ち取った。玉座が、世界が、確かに彼の手の中に落ちた。

 キュロスの唇の端が、勝利の感触に歪む。

 キュロスは叫び、手に持った投げ槍を全力で放った。

 槍は吸い込まれるように王の胸当てを貫き、アルタクセルクセスは血を吹き出しながら馬上で大きく体勢を崩した。


 周囲の時間が止まったかのように思えた。

 討ち取った。玉座が、世界が、確かに彼の手の中に落ちた。

 キュロスの唇の端が、勝利の感触に歪む。


 だが次の瞬間。

 視界の死角から突き出された、顔も知らぬ無名の兵の槍が、キュロスの目の下、右の頬骨を深く貫いていた。


 大義も、運命も関係なかった。

 ただ、自らを誇示するために兜を被っていなかった。その顔の、ほんの一寸の露出に刃が届いた。それだけの偶然だった。


「あ……」


 声にならない息が漏れる。

 世界がゆっくりと回転し、紫の衣が土煙舞うバビロニアの赤土へ引きずり下ろされていく。


 あと一歩。わずか数寸の距離で、王弟キュロスはすべてを取り損ねた。

 その瞬間......多くのものの運命が定まった。

お読みいただきありがとうございます。

王弟キュロス側から見た会戦の補章は、ここで一区切りです。

次話からは本編へ戻り、ふたたび補給と撤退を中心とした話へ入ります。

もっとも、Book II では、焦げくささだけだったものが、少しずつ目に見える形になっていきます。

引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。

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