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第34話 誰の軍でもなくなった朝

 泥と獣の脂にまみれた配給札を指で弾きながら、レオン・カルディアスはひどく硬い干し肉を齧っていた。

 噛みちぎるというより、奥歯ですり潰すような作業だ。顎の付け根が痛くなるが、吐き出すわけにはいかない。昨日からまともな麦を口にしておらず、胃の腑は空っぽのまま熱を持っているような不快感があった。


 クナクサでの会戦から一昼夜がたった戦場跡には、勝者の歓喜など微塵も残っていなかった。

 エジプト兵が落としていった巨大な木製盾や、使い物にならなくなった敵味方の籐盾、壊れた荷車の残骸は、昨夜のうちに薪としてあらかた燃やしてしまった。あちこちに残る灰と火床の跡が、薄ら寒い朝の空気に晒されている。


 手元の木板には、従者のテオドルスが夜明け前から書き写した頭数の控えが乱雑な字で並んでいた。

 死傷者の数、かき集めた矢の束、そして残された水袋と穀物の量。数字の列を追うレオンの目は、乾いた疲労でかすんでいた。


「坊ちゃん、そこ退きな。驢馬が通るぞ」


 不意に頭上から降ってきた野太い声に、レオンは弾かれたように顔を上げた。

 古参の半隊長ミュロンが、顎で背後をしゃくっている。慌てて立ち上がり帳面を抱え込むと、すぐ横をバウコスたち荷駄番に引かれた驢馬の列が通り過ぎていく。生き残った獣たちに、散乱していた荷を乱暴に積み直しているのだ。軋む車輪の音と、許容量ギリギリの荷を背負わされた驢馬の悲鳴のような鼻息が、静まり返った陣にやけに響く。


「荷が偏ってる! 右の革紐をもっと締めろ! 車軸が折れるぞ!」


 バウコスが怒鳴り散らしながら、泥にまみれた車輪を蹴りつける。

 ミュロンは通り過ぎる荷駄の列を鋭い目つきで見送りながら、短く舌打ちをした。


「……嫌な朝だな。こんな有様じゃ敵に出会(でくわ)した時に太刀打ち出来ねえ」

「同感です」


 レオンは手元の帳面を開き直した。

 王弟軍の主力として敵を打ち破ったはずが、今はもやに紛れてこそこそと移動の準備をした。兵たちの間には、得体の知れない不安が泥のように溜まっていた。重装歩兵たちは兜を脱いだまま車座になり、小声で不満を漏らし合っている。彼らの機嫌をとるための酒も、追加の肉もない。


 そこへ、プロクセノスの将軍幕から戻ってきた兵站監のフィロンが姿を現した。

 将軍たちと共に、現地側の副将格であったアリアイオスの陣営へ、今後の合流と方針の交渉に向かっていたはずだ。周囲の兵たちも、次の指示と「いつ飯がまともに食えるのか」という答えを求めて、一斉に視線を向ける。


 だが、フィロンの口から出たのは、朝の冷気よりもさらに凍りつくような結論だった。


「アリアイオスは、王位請求を拒否した」


 冷徹な声が、朝の空気を切り裂いた。周囲で聞き耳を立てていた兵たちの動きがピタリと止まる。


「我々の将軍団は、彼を新たなペルシア王に推戴する条件で合流を持ちかけた。だが、彼は一蹴した。『ペルシアには私より高貴な者がいくらでもいる。私が王になることなどあり得ない』とな」

「では、我々はどうなるんです……? 彼らと共に、王都へ進むのではないのですか」


 レオンが問いかけると、フィロンは感情の読めない目でこちらを見下ろした。


「彼らはイオニアへ帰るそうだ。『今夜までなら待つが、明日には出立する』と伝えてきた」


 短い報告だった。理由と結論だけを述べる、いかにもフィロンらしい伝達だ。

 だが、その言葉が意味する現実は、兵たちの間に鈍い衝撃となって広がっていった。

 つまり、アリアイオスは自分たちの『次の雇い主』にはなってくれないということだ。彼らは王弟の仇を討つ気もなければ、ギリシア傭兵団という巨大な荷物を丸抱えしてやる気もない。ただ、自分たちの生存と帰還を最優先にする別個の集団へと切り替わってしまった。


(待てよ。じゃあ、給金はどこから出る?)


 レオンの頭の中で、かすかに繋ぎ止められていた前提が音を立てて崩れ落ちた。


 帰路の食糧は誰が保証するのだ。

 ここから海まで、何十日かかるかもわからない行軍の道中、誰の権限と資金で現地の村から補給を買い上げるのか。ギリシアの金貨など辺境の村でどこまで通じるかわからない。王弟の「買い上げ許可」という後ろ盾があって初めて、市場は機能していたのだ。

 いや、そもそも――自分たちは今、誰の軍なのだ?


 王弟キュロスが死んだ。

 その事実は、昨日までは「巨大な後ろ盾の喪失」という、どこか他人事のような、政治上の遠い出来事だった。だが今、それは兵站実務の輪郭を伴って、レオンの首を明確に絞めにかかっていた。


 レオンは手元の帳面を見下ろした。

 自分は王弟の臣下ではない。ボイオティア東部の有力市民の家に生まれ、中央の学問の塔に落ち、地方の塔でも燻っていた学者のなりそこないだ。家と学統のコネで、王弟が金で雇った『外国人傭兵団』の、さらに末端の実務役に押し込まれただけだ。

 自分たちが戦っていたのは「王弟の遠征」という契約があったからだ。


 その雇い主という契約の中心が消滅した今、二万のギリシア傭兵を帝国側から守る後ろ盾は何一つない。反逆者の烙印を押された武装集団が、ただそこにいるだけだ。

 広大な敵国のど真ん中に、どこにも属さない、ただ武器と飢えだけを抱えた迷子が取り残されている。誰も自分たちに命令してくれない。誰も自分たちを養ってくれない。


 途方もない孤立感が、冷水のように胃の腑へ落ちた。

 足元の地面が、唐突に底なし沼に変わったかのような錯覚を覚える。

 呼吸が浅くなる。指先が震え、泥のついた配給札を取り落としそうになった。今すぐここから逃げ出したいが、逃げ帰る場所すら数千キロの彼方だ。四方を敵に囲まれたこの平原で、帳面を抱えて立ち尽くすしかないのか。


 その時、視界の端から無造作に革の水袋が突き出された。


 受け取らないでいると、強引に胸に押し付けられる。ドン、という鈍い衝撃に顔を上げると、護衛のダフネが呆れたような、それでいてどこか見透かしたような目でレオンを見下ろしていた。


「……なんですか……いったい……」


 レオンが掠れた声でこぼすと、彼女は短く鼻を鳴らした。


「勝手に絶望しない。

 最初から王弟の軍は、わたしたちの軍じゃない。

 わたしたちはよそ者」


 その一言が、平手打ちのようにレオンの思考を揺さぶった。

 慰めでも励ましでもない。ただの冷徹な事実だ。だが、その乱暴な言葉の響きが、急激にレオンの視界をクリアにした。


 そうだ。最初から自分の軍でも、自分の王でもなかった。

 自分が王弟の死を嘆き、国が滅んだかのように深刻な顔で絶望するのは、そもそもおこがましい勘違いだったのだ。なにより自分はこの軍を率いる将軍ではない。


 自分はただの帳簿役だ。

 王が誰であろうと、給金が出なかろうと、大義が消え失せようと、今日この二万人を歩かせれば、必ず水と麦が消費される。そして食い物が尽きれば、人間はただの獣に変わる。

 誰の軍でもなくなったのなら、自分たち自身の足で、自分たちの命を生かして帰るための計算をするしかない。


 そこまで考えて血の気がひいた。


 つまり、ここは敵地で。ぼくらは敵地に取り残されてる、孤立無縁の集団になる可能性も…あるわけか…


 絶望している暇など無かった…


「……違いないな」


 レオンは小さく息を吐き出し、胸に押し付けられた水袋を受け取った。重さを確かめてから、栓を抜いて一口だけ含む。喉の渇きが少しだけ癒えた。

 空いた手に微弱な火魔法を通し、指先にこびりついた脂と泥を乾燥させて弾き飛ばす。魔力の通りは悪いが、汚れを落とすくらいならできる。

 帳面を握る手に、確かな力が戻っていた。それを確認したダフネは何も言わず、ただ無言でレオンの斜め後ろ――いつもの護衛の位置へと下がる。


 気持ちを立て直したレオンは、近くで荷縄をいじっていたバウコスと、顔色を悪くしているテオドルスを呼んだ。


「バウコス。食えるものを先に前回しましょう。急な移動に備えて、帳面と記録類は一番乾いた荷車の奥に載せてください。今夜動くなら、水袋の口紐も見直した方がいい。暗闇でポタポタこぼせば朝にはほとんど残らない。そうなったら水は一巻の終わりだ」

「おい、お前ら、聞いたな?主計殿が言ってる通り穀物の袋を前に回せ!」

「テオドルス、今のうちに配給の余剰分を再計算しましよう。正確性は半数でいい。最悪の事態を想定した数字の案を幾つか」

「は、はいっ!」


 実務の歯車が、重々しく、だが確実に再び回り始めた。

 その時だった。


 陣の外縁が、俄かに騒がしくなった。

 怒号。そして、槍の石突きが地面を叩くような乾いた音が連鎖する。重装歩兵たちが慌てて兜を被り、盾を構える金属音が波のように広がっていく。

 伝令に走っていた若手兵のカリアスが、血相を変えてこちらへ駆け込んでくるのが見えた。


「主計殿! 王側から使者が来たらしいですよ!」


 カリアスの顔は、火の番のときに見せる気楽さとは打って変わり、かつてないほど引き攣っていた。息を切らし、手にした槍を震わせている。


「我々に……武器を捨てろと要求しているそうです!」


 ざわめきが、どよめきへと変わる。

 レオンは手元の帳面を強く握りしめた。ただでさえ頼るもののない朝に、彼らは唯一残された命綱すら手放せと迫られていた。

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