第1話 決戦前夜の値札
バビロニアの夜は重かった。乾いた風がユーフラテス川の湿りを運び、運河の泥の匂いと、数万の兵が焚く火の煙とを、ひとつの息苦しい帳のように野営地へ垂らしている。地平の果てまで散らばる火は、空の星を地上へまき落としたようにも見えたが、近くへ寄ればただの脂臭い焚火でしかない。兵は火のそばで眠り、馬は泡を噛み、明日死ぬかもしれぬ者たちが、それでも腹を満たしていた。
王弟キュロスは、陣幕の奥で卓上の羊皮紙から目を上げた。補給路、部隊の位置、伝令の書き付け、諸将の報告。どれも明日の朝には紙屑になるか、帝国の設計図になるか、そのどちらかだ。
彼はゆっくり立ち上がる。金糸で縁取られた紫の衣が、松明の火を受けて鈍く艶めいた。戦場の幕舎にあってなお、その衣だけは王宮の色を失っていない。だが顔つきは宮廷人のそれではなかった。長い行軍と待機に削られているはずなのに、眼だけが妙に冴えている。若さの熱に、勝負の前だけが持つ冷えた鋭さが混じっていた。
「キュロス様。ギリシア人の将軍たちが」
控えていた側近が告げる。キュロスは頷き、幕を払って外へ出た。
そこに並んでいたのは、彼が海の向こうから呼び寄せた猛禽たちだった。青銅の胸当て、脛当て、外した兜を脇に抱えた者、なお被ったままの者。背丈も年もまちまちだが、誰の目にも同じ種類の光があった。王家への畏れではない。値踏みの光だ。目の前の若い王弟が、どれほどの金と勝ち目を持っているかを量る目だった。
「待たせたな、ギリシアの将軍たちよ」
キュロスが言うと、彼らは一斉に顔を上げた。脇へ控えたミトリダテスが、一歩遅れてその言葉を教養ギリシア語へ流す。柔らかく、よく通る声だった。角を削り、刃を隠し、だが意味は少しも痩せさせない声だ。
「私が諸君を雇ったのは、自軍の兵が足りなかったからではない」
ミトリダテスが訳す。
この通訳がはいる”間”が、彼は嫌いではなかった。
「諸君らギリシア人が、他のいかなる大軍よりも強く、勇猛であると知っていたからだ。だからこそ、私は諸君を、最も頼りとする場所へ置いた」
何人かの口元が動いた。笑ったのか、せせらいだのか、暗がりでは分からない。ただ、悪い反応ではない。褒め言葉そのものに動いたのではなく、褒められるだけの値札をつけられたことに気をよくした顔だった。
それでいい、とキュロスは思った。
勝てば得をする、と信じさせれば人は前へ出る。人は様々な旗の下へ集まるが、最後に脚を動かすのはだいたい欲得ずくの何かだ。その程度のことも分からぬ王族は、この帝国にはいないし。
「明日、私が兄を討ち、玉座を得たなら」
ミトリダテスの声が夜気へ伸びる。
「望むだけのものを与えよう。帰りたい者には船を。残りたい者には土地を。黄金の冠を欲する者には冠を授け宮殿持ちの貴族に列させよう」
どよめきが起きた。槍の石突が乾いた地面を打つ。
彼らは将軍だった、それも最も手練れのギリシア人傭兵たちを束ねるものたちだ。
そこには熱狂はなく、軽い興奮をおぼえつつ冷徹に計算している。その冷たさが、キュロスには心地よかった。何よりキュロスの考えが間違っていないことを冷静に判断させてくれるのだ。
臣下では、どうしても追従が混じってしまう。
その中でも、とりわけほとんど顔色を変えぬ男がいた。
クレアルコス。ラケダイモン人。幾つもの戦場を渡り、幾つもの雇い主を見限り、なお立っている老いた狼だ。
「一つ伺いたい、キュロス殿」
低い声だった。周囲のざわめきを切り裂くには十分な低さだ。
「アルタクセルクセス王は、本当に我らの前に姿を現すとお思いか。この軍を前にして、なお戦うと」
問いの形は戦術だった。
だが中身は違う。
お前は本当に王を殺し切るところまで行くのか?
そこまでの器か?
そういう値踏みだ。
未熟なものなら、そこで声を荒らげたかもしれない。侮辱と受け取ったかもしれない。だがキュロスは、むしろ少しだけ笑った。
「兄はダレイオスの息子だ」
ミトリダテスが訳す。その声が静かに夜気へ溶ける。
「そして、私の兄だ。たとえ臆していようとも、戦わずして玉座を明け渡す男ではない」
キュロスはそこでわずかに言葉を切り、将軍たちの顔を見回した。
「明日、必ず我々の前に立つ」
沈黙が落ちた。焚火のはぜる音が、妙に大きく聞こえる。
クレアルコスはしばらく黙っていたが、やがて短く鼻を鳴らした。
納得というより、採算が合うと認めた時の顔だった。王が出るなら、その首には値がつく、値がつくなら、槍を突き出し討ち取ればよい、それなら損得が釣り合った状態になる……と。
それでよかった。
将軍たちが去っていく。青銅のきらめきが揺れ、革紐がすれる音が鳴り、異国の言葉が小さく交わされる。
幕舎の前に残ったミトリダテスが、慎重に口を開く。
「殿下、皆、乗りましたな」
「ふむ、うまく乗せられたな、その方の通訳のお陰だ、ミトリダテス」
キュロスは答えた。それ以上は言わない。
夜空を見上げる。黒い天蓋の下、火の帯が延々と地を這っている。約束も、黄金も、船も、土地も、すべては明日、兄の軍を裂き、兄自身を地に落として初めて本物になる。あの猛禽たちの貪欲さもまた、玉座までの踏み石にすぎない。
キュロスは無意識に、腰の短剣の柄へ触れた。
明日、最後に王を討つのは軍ではない。あくまで自分だ。
そうでなければ、この遠征に意味はない。




