補章3 プロクセノスの勧誘
一度ついた足跡は、次の足を呼ぶ。
自分でそう書き置いておきながら、プロクセノスは葦筆を握ったまま、三度目か四度目かの沈黙に沈んでいた。
卓上には、王弟キュロスへ宛てた返書がすでに封をされて置かれている。
だが、その横に広げた白紙の羊皮紙は、夜の風を吸って白々と光るばかりだった。
「……筆が進まないようだな、甥よ」
扉の脇で、叔父が酒坏を傾けていた。
この男は、プロクセノスが思考の泥沼に足を取られているとき、決まって最悪のタイミングで声をかけてくる。
「王弟への返事は済んだ。これは別の……私事ですね、叔父上」
「私事ね。そのわりに、さっきから勘定を弾いているような顔をしているが」
図星だった。
プロクセノスは内心の舌打ちを飲み込み、ようやく筆を動かした。
宛名は、アテナイのクセノポン。
家柄もよく、教養もあり、ソクラテスの知己として知られる若き友人だ。
――君を、王弟キュロスに引き合わせたい。
最初の一行を書き、プロクセノスは自嘲気味に口角を上げた。
これは勧誘ではない。共犯者の募集だ。
キュロスが自分に求めているのは、ただの槍の数ではない。理屈の通る指揮官だ。ならば、自分の傍らには、自分と同じ言葉を解し、同じ論理で動ける男が必要だった。
傭兵たちの荒っぽい現場言葉と、将軍たちの教養ギリシア語、王弟側の流麗なペルシア語。その間に立って、軍という巨大な家政を回すには、教養という名の共通言語を持つ相棒が不可欠だ。
クセノポンなら、その資格がある。
彼には、状況を俯瞰し、善と利を天秤にかける知性がある。何より、今の沈滞したアテナイで燻っている彼にとって、この遠征はこれ以上ない「機会」に見えるはずだ。
「おい。その顔はよくないな、なんか悪だくみをしてる顔だぞ」
叔父が歩み寄り、肩越しに文面を覗き込んだ。
「アテナイのあの若造か。ありゃあ、『いい恰好』をしたがる性質だ。そんな甘い言葉を並べりゃ、二つ返事で来るだろう」
「甘い言葉ではない。私は、彼を王弟の友人にしたいと言っているだけだ」
「それを甘い言葉って言うんだよ。血と汗にまみれて泥道を歩かせてあげましょう、なんて書いて来る奴がいるか?」
プロクセノスは筆を止めた。
叔父の言う通りだ。自分は今、友人を泥道に誘おうとしている。
ピシディア討伐という「表向きの目的」が、もし別の何かへ変質したとき、クセノポンは自分を恨むだろうか。それとも、その「変質」すらも知的な遊戯として楽しむだろうか。
……おそらく、後者だ。
そうそう、「実務」をこなせる若者も連れてこなくては。
プロクセノスの脳裏に、ボイオティアの知人の顔がいくつか浮かんだ。
たとえば、あのカルディアス家の次男はどうだろうか。
学問の塔に残れず、実家で持て余されていると聞く。剣は振るえなくとも、帳面が読め、計算ができ、少しばかりの魔法が使えるなら、この大軍の兵站監補の椅子に座らせるにはちょうどいい。
家と学統の縁。
それは軍を組織する上での強固な鎖だ。
出資を受けるうえでも、大事な要素だ。
「……書けた」
プロクセノスは文を締めくくった。
――キュロスは、私以上に君を重用するだろう。君の知見は、この遠征に、ひいては君自身の将来に、欠かせないものになるはずだ。
嘘は書いていない。
「送るのか」
叔父の問いに、プロクセノスは無言で頷いた。
封泥を押し、印を刻む。
アテナイへ向かう使者は、明日発つ。
この一通がクセノポンの手に渡ったとき、歴史の歯車は音を立てて回り始める。
プロクセノスは、窓の外の暗闇を見つめた。
雨は完全に上がり、星が冷たく光っている。
明日には、ぬかるんだ地面も少しは固まるだろう。
足跡は、もうついた。
あとは、誰がその後に続くかだけだ。
彼は卓上の灯を吹き消した。
暗がりの中、自分の心臓の音だけが、行軍の太鼓のように低く響いていた。
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