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補章2 最初の一手

 春先の雨は、地面を柔らかくするだけでなく、人の決心まで鈍らせる。


 プロクセノスは、中庭のぬかるみを見下ろしながら、槍の穂先に泥をつけた若者たちの動きを眺めていた。

 集めれば兵になる。

 だが、集めただけでは兵ではない。歩かせ、食わせ、怒鳴り、逃げ出させず、隣の男と肩を並べて立たせて、やっと形になる。


 それでも今いるのは、形になる前の連中ばかりだった。


「左、まだ高い。そこ!槍が寝てる」


 短く言うと、若者は慌てて構えを直した。

 直したつもりで、今度は足が狭い。


 プロクセノスはため息を飲み込んだ。

 彼はクレアルコスのように、怒鳴るだけで人を震え上がらせる男ではない。だから余計に、どこまで厳しく言うかを毎度測らねばならない。甘ければ舐められ、強すぎれば逃げ散る。兵の扱いは、弁論よりずっと面倒だった。


 門のところで馬が止まる音がした。


 振り返ると、旅塵を被った男が二人、従者をひとり連れて立っていた。馬具は良い。だが王の公使ほど仰々しくはない。中途半端に上等な旅装は、急ぎの私使に多い。


 門番が槍の石突で地を打ち、来意を問う。

 使者は濡れた外套の襟をはだけ、腰の小箱から封を出した。


「プロクセノス殿に」


 名を聞いた瞬間、プロクセノスは中庭を横切った。

 封蝋の印を見れば、差し出し人はわかる。


 王弟キュロス。


 受け取った蝋板書簡は、見た目には簡潔だった。

 余計な飾りのない文面は、いかにも彼らしい。礼を尽くし、旧交を温め、すぐ本題へ入る。自領の山地でピシディア人が境を荒らしていること。今季のうちに痛撃を与えたいこと。信用できる友に、できるだけ多くの兵を率いて来てほしいこと。報酬は弾ませる、指揮権も立てる、手柄も損なわせない、と。最後に短く、

 ――おまえなら話が早い。

 とだけあった。


 その一文が、妙に生々しかった。


「なんて顔してるんだ」


 背後から声がして、プロクセノスは書板を伏せた。

 叔父だった。若い頃に戦い、今は家の用心棒じみた立場で居着いている男で、礼儀は雑だが人を見る目だけはある。


「金の匂いがした顔だが、それだけじゃなさそうだな」


「叔父上、確かに金の匂いはした」


「じゃあ罠でもあるのか?」


「たいていはそうだから、それなら気にしない」


 叔父は鼻を鳴らし、使者たちへ顎をしゃくった。

「中に入れるのか」


「入れる。濡れたまま立たせるほど厄介ごとをもちこんだわけじゃない」


 使者は通された。

 客間に炭火を入れさせ、温い葡萄酒を出し、馬にも餌をやらせる。そのあいだにプロクセノスは書簡をもう一度読んだ。


 文は短い。

 だが短い文ほど、含意が…そこには欠けているものが大きい。


 ピシディア人討伐。

 それ自体はおかしくない。山地の略奪者に手を焼く地方領主など珍しくもないし、キュロスほどの立場なら、大がかりな討伐をやっても不思議ではない。


 不思議なのは、わざわざ自分に寄越したことだった。


 プロクセノスは王弟と面識がある。友と言ってよい間柄でもある。

 だが、彼の周りにはもっと名のある将軍も、もっと荒事に向いた男もいる。そんな中で、自分に「できるだけ多く」と書くのは、ただ兵が欲しいからではない。

 扱いやすい兵が欲しいのだ。

 あるいは、理屈で納得して動く種類の指揮官が。


 それは買いかぶりかもしれないし、試されているのかもしれなかった。


 客間へ行くと、使者のひとりが立ち上がった。

 年のころは四十前後、日焼けはしているが兵ではなく、書記でもない。交易路を知っている顔だ。軍資金を運ぶ者か、雇い入れの口利きか。


「王弟殿下より、口上も預かっております」


「聞こう」


「兵は多いほどよい、とのことです。ただし、数を揃えるために質を落とす必要はない、と」


 プロクセノスはわずかに眉を上げた。

 そこまで言うなら、本気だ。


「報酬は」


「前払も可能です。兵の数、装備、出立の早さで上積みも」


 叔父が横で低く笑った。

 下品な笑いではない。危険を嗅いだ時の笑いだ。


「気前がいいな。山賊退治にしちゃ」


 使者はその無礼を咎めず、ただ黙っていた。


 そして短く。

「殿下は、約束の金を惜しまれません」


 それは事実として広く知られていた。

 キュロスは、人を使うのに、まず払いを渋らない。そこが王都の連中とは違う。口先で名誉を語りながら財布を閉じる連中より、よほど信用できる。


 だから厄介なのだ、とプロクセノスは思った。

 金払いのよい大人物は、人を惹きつける。惹きつけた先で、どこへ連れていく気かまでは、最初は誰も深く考えない。


「いつまでに」


「夏に入る前には動きたい、と」


 早い。

 兵集め、食糧、盾、槍、革紐、予備の履き物、荷駄。どれも時間が要る。だが間に合わぬ日程でもない。間に合わせる気がある者にとっては。


「他にも声はかけているか」


 その問いに、使者は一拍だけ黙った。

 黙ってから答えた時点で、答えは半分出ている。


「殿下には友人が多うございます」


「便利な答えだ」


「殿下は、便利でない者を使者にはされません」


 プロクセノスは少しだけ笑った。

 この手の男は嫌いではない。要ることしか言わず、要らぬことは言わない。信用はしないが、扱いやすい。


 書簡を机に置き、彼は指先で封蝋の縁をなぞった。


 引き受ければ、金になる。

 名も上がる。

 王弟に恩も売れる。


 だが同時に、断ったときに何を失うかも見えた。

 キュロスのような男は、一度声をかけて断られた相手を、二度と同じ温度では見ない。今後も大きな仕事が欲しいなら、この誘いは軽くない。であれば、どう受けるかだ。

 つまり山の登り方を考えないといけない。


 叔父が使者の前であえて言った。


「やめておけ。でかい話ほど、穴もでかい」


「叔父上、使者に聞こえている」


「聞こえるように言ってる」


 使者は黙っていた。

 やはり良いおとこだとプロクセノスは思った。

 彼は、口を挟めば安っぽくなる場面だとわかっている。


 プロクセノスは外を見た。

 雨は細くなっていた。中庭では若者たちがまだ槍を振っている。構えは頼りなく、足は重い。だが、二十人が百人になり、百人が千人になれば、話は変わる。そこに前払の銀と、王弟の名がつけば、集まる男はもっと増える。


 兵は、理屈より先に腹で動く。

 だが将軍は、さすがにそういう言い訳はできない。


「叔父上」


「なんだ」


「あなたなら断るか」


「俺は最初から、王弟に呼ばれるような男じゃねえ」


「答えになっていない」


「じゃあ答えてやる。俺なら受ける」


「さっきはやめろと言っただろう」


「甥が浮かれる顔をしてたから、水をかけただけだ」


 叔父は鼻を鳴らした。


「断っても惜しい。受けても危ねえ。そういう話は、受けるしかねえんだよ。でかくなりたいならな」


 その言い方が気に食わず、だが同時に自分と同じ考えだった、プロクセノスは黙った。


 彼はまだ若い。

 若いからこそ、自分がただの地方傭兵団の一将で終わるのか、もっと大きな舞台へ出られるのかを、測らずにはいられない。


 キュロスはその心を知っている。

 だからこの文面なのだ。


 断る理由はある。

 だが、受ける理由のほうが、少しだけ多かった。ほんの少しだけ。


「返書を書く、しばし待て」


 使者が頭を下げた。

 プロクセノスはそのまま書記を呼び、蝋板と葦筆を持ってこさせた。


 文は、考えていたより短くまとまった。


 招請を受けること。

 兵を募ること。

 質を落とさぬため少し時間が要ること。

 ただし、王弟の信に背かぬよう急ぐこと。


 そこまで書いて、彼は筆を止めた。

 最後の一行をどうするかで、文の温度が変わる。


 ――友への義として動く。

 そう書けば、近く温度感は上がる。

 ――契約として承る。

 そう書けば、遠く温度感は下がる。


 少し迷って、結局そのどちらにも寄せなかった。


 ――着いた時、事情を詳しく伺いたい。


 それだけを足した。


 彼はそれを書記官に渡し、清書させ、署名した。

 一度、内容を使者に見せ、封泥し印を押した。

 書記官に、魔法で乾燥させる。


 使者は返書を受け取ると、今度は初めて少しだけ安堵した顔を見せた。

 この返事なら、任務は半ば成功だ。

 まだ兵は一人も動いていない。だが、一番大事なものが動いた。将軍の心だ。


「殿下はお喜びになります」


「それは着いてみないとわからん」


「では、そういうことにしておきます」


 使者が去ったあと、叔父が下書きの書板を覗き込んだ。


「事情を詳しく、か。ずいぶんお上品だな」


「真正面から『何を企んでいる』とは書けない」


「企みがあると思ってるわけだ」


「あるだろう」


「それでも行く?」


「それでも行く…」


 声に出してしまうと、思ったより重かった。


 その夜、プロクセノスは遅くまで起きていた。

 町の有力者の名を書き出し、誰が何人出せるか、どの家が槍を持ち、どの村に盾職人がいるか、借金まみれで流れてきそうな若者はどこにいるか、順に並べる。


 兵は、呼べば湧くものではない。

 金と約束と見栄と困窮を、一人ずつ結び合わせて初めて列になる。


 彼はそこで、ようやく気づいた。


 もう自分は、受けるかどうかを考えていない。

 どう集めるかを考えている。


 卓上の灯が揺れた。

 外では雨が上がり、軒先から落ちる雫だけが細く続いている。


 プロクセノスは最後に、別の小さな書板を取り寄せた。

 こちらはキュロス宛ではない。

 遠縁の家へ、学都に顔の利く知人へ、武具を融通できる商人へ。兵そのものではなく、兵を集めるために要るものへ手を伸ばす文だ。


 最初の一本が来た日には、もう次の一本を書くしかない。


 彼は封蝋を押しながら、ふと笑った。

 雨で鈍るのは地面だけではない、と昼には思った。だが違う。鈍るのではない。濡れた土に、最初の足跡が深く残るのだ。


 そして一度ついた道は、次の足を呼ぶ。


 翌朝には、兵集めの噂が町に流れるだろう。

 ピシディア討伐だと人は言う。


 前の戦争に敗れて以来、金に困るものが増えた。


 払いのよい仕事だと人はすぐ集まる。

 その中の誰も、本当にどこまで行くかは知らない。


 プロクセノス自身でさえ、まだ知らなかった。


 ただ、ひとつだけはわかっていた。


 王弟キュロスから届いたあの短い書簡は、兵を呼ぶ文ではない。

 人の人生を、少しずつ元の場所から剥がし始める文だ。


 そして彼は、もうその一人になっていた。

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