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第30話 会戦直前

 夜の帳が完全に下りたバビロニアの平原は、不気味なほどの静寂に包まれていた 。だが、それは安らかな眠りの静けさではない。数万の人間と獣が、明日という「巨大な断層」を前にして、息を潜めているだけの時間だ 。


 ダフネと話すことで、少し気持ちを整理したレオンは、最後に残った水桶の蓋を静かに閉じた。


 感知魔法の酷使による鈍い頭痛が、こめかみの奥で拍動している 。視界の端がチカチカと明滅するのは、魔力が枯渇しかかっている証拠だ。


 桶、よし。皮袋、よし。予備の包帯布も、火床係のカリアスへ渡した分で全てだ…


 蝋板に刻んだ数字を頭の中でなぞる。

 兵站監補エピメレテースという大層な肩書きにふさわしい武功など、自分には一つもない 。

 いや今では、兵站監代理だが、明日戦場で流される血を拭い、渇いた喉を湿らせるための段取りだけは、この帳面の中に揃っている。


 家政オイコノミアの延長だ、と自分に言い聞かせる 。


 塔の連中が見れば、泥にまみれて桶を数える僕を「学問を捨てた」と笑うだろか、あるいは、気の毒にと哀れみをかけるだろうか。


 だが、正しい事実こそが全ての始まりであり、観測者なくして何物も存在し得ないという、塔で学んだことは、戦場でも非常に役立っている。いやいやながらだけど……


 正しい認識が、秩序を作るという理屈は、戦場でも変わらなかった。


 ダフネとはなしたせいかな…と少し思った。


 ふと視線を上げれば、ギリシア傭兵たちの宿営地には、それぞれの故郷の神に祈りを捧げる者たちの低い呟きが満ちていた 。


 プロクセノス隊の陣地では、ボイオティア出身の兵たちが重い盾を磨き上げ、明日の輝きを確かめている 。彼らの中には、中央学都の恩師が語っていたような「名誉」のためにここへ来た者もいれば、ただ食い詰めて王弟の金に釣られた者もいる 。

 いや殆どは後者か……だが、今の彼らが一様に頼りにしているのは、神々の神託と、そして今夜レオンが差配した一口の水だった 。


 ぼくは不心得者ものなので、神々が居て、ほんとに力を持っているのであれば、前の戦争で勝たせてくれれば良かったのに…と思う。


「主計代理殿」

 背後からの声に、レオンは肩を揺らした。

 振り返らなくてもわかる。ダフネだ。彼女は軽盾を荷車に預け、短槍を手に持ったまま闇の中に立っていた。

 さっき分かれたあと、軽く周囲を確認して戻ってきたようだ。


「……また、ぼくを驚かせましたね……小心者なんで加減してほしいな」

「そんな暗がりでひとりでいるから…」


 ダフネが歩み寄り、レオンの横に立つ。彼女の視線は、整然と並んだ水桶に向けられていた。

「全部、終わった?」

「ええ。あとは明日、蓋が開けられるのを待つだけです」ダフネは何も言わず、腰の水袋を差し出してきた。受け取ると、中身はまだ半分ほど残っている。


「飲んで。

 さっきから顔色が紙みたいに白い」


「……ありがとう。でも、ダフネこそ」

「私はいい。喉が渇くほど、喋ってないから」

 促されるまま、ぬるい水を一口だけ含んだ。

 お、少し葡萄酒が混じってるか…これはダフネのとっておきのヤツか。


 彼女の気遣いが、ぐっと喉に染みた。


 胃の底に溜まっていた重い緊張が、わずかに解けるのを感じる。

「代理殿、怖がってる?」


 不意の問いに、レオンは答えに窮した。


「……怖くないと言えば嘘になります。

 剣より、鉄筆と書字版の方が性に合っている」


「知ってる」

「英雄になれるわけでも、王を討てるわけでもない」

「それも、わかってる」レオンは自分の白すぎる手を見つめた。

「それでも、ここを逃げたら、明日の朝に誰がこの水の栓を抜くのか。

 いや抜くのは誰かがやるだろうけど、メチャクチャになるだろうなってわかってる。

 きっと帰りの水なんか考えずに飲んでしまう。

 そう考えると、動けなくなる。責任アイティアを負うというのは、ひどく不自由なものですね」   


 ダフネはわずかに目を細め、夜風を遮るように位置を変えた。


「英雄じゃないからいいんじゃない。死に急がない分だけ、たぶん長生きする」


 視界の端、王弟キュロスの天幕のほうでは、未だに灯火が消えていない 。あそこには、明日の配置を最終確認する将軍たちが集まっているはずだ 。冷静なラケダイモン人クレアルコス、野心家のメノン、そしてレオンをここに送り込んだプロクセノス 。

 彼らは自分たちの「正義」や「利」のために、この巨大な人々の流れを死地へと向かわせようとしている 。

 一方、王側アルタクセルクセスの陣営からも、遠く馬のいななきや、数多の異民族たちが上げる祈りの声が風に乗って微かに届く 。あちらには百万人を超えるとも噂される大軍が、沈黙を守りながら布陣しているのだ 。その時、暗がりの向こうから重い足音が近づいてきた。ミュロンだ。


「坊主、まだ起きてんのか」

「ミュロン。配置はどうなりました」

「荷駄のケツは締めた。ダフネ、お前は夜明けまでここを動くな。主計の傍だ。いいな」

 ミュロンの言葉は、いつも以上に鋭く、執拗だった。ダフネは短く「わかってる」とだけ返し、レオンの隣から動こうとしない。ミュロンはレオンの方へ向き直り、一つだけ頷いた。

「水、足りるんだな」

「……ええ。足りるようにします」

「そうか。なら寝ろ。明日、王が死ぬにしても、その前にぶっ倒れちゃ締まらねえ」頼りになる古参兵はそれだけ言い残し、再び闇へと消えていった。

 彼らなりの信頼の受け渡しが終わったのだと、レオンは理解した。それは甘美なものではなく、石のように冷たくて重い委ね方だった。

 遠くで、夜番の交代を告げる角笛が鳴り響いた。


 明日、王が死ぬかもしれない。


 王弟キュロスが玉座を奪うのか、兄王アルタクセルクセスがそれを阻むのか 。あるいは、その戦いの渦中で、自分たちのような端くれが塵のように消えていくのか。


 それでも、僕はここに立っている。


 レオンは、帳面をしっかりと脇に抱えた。

 学者にはなれなかった。戦士にもなれない。

 けれど、この夜を生き延び、明日を繋ぐための命綱だけは、自分が守り抜くと決めていた。

 夜明けまで、あとすこし。

 今日は眠れそうにない…


 世界がひっくり返る前の、最後の静寂が宿営地を満たしていた 。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

本編は、ひとまずここで会戦前夜までとなります。

次回からは、まず補章を二話、続いて王弟キュロス側から見たクナクサ会戦を三話でお届けします。

その後、本編は敗戦後から再開します。

引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。

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