第29話 明日まで生きていたら
遠くの角笛が鳴ったあと、あたりは静まり返っていた、いや…息を潜めている。
音が消えたわけではない。火床は低く鳴り、駄獣は時々鼻を鳴らし、見張りの足音も絶えない。だが、そのひとつひとつが妙に遠慮していた。大きな声を出すと、夜そのものが、あるいは何か得体の知れないものがこちらを振り向く気がする。そういう静けさだった。
レオンは火の前で膝を抱えたまま、しばらく何も言わなかった。火は低い。煙も少ない。火床の脇には飲み水の皮袋と、洗い用に落とした桶が分けて置いてある。明日のための配置だ。見れば見るほど嫌になる配置でもある。
「まだ数えてる?」
ダフネが言った。
「数えてない」
「嘘」
「見てるだけだ」
「板を見てる時は、だいたい数えてる」
返す言葉がなかった。見ているつもりで、頭の中では勝手に線が動く。夜半の見張り交代で一口、夜明け前に一口、それでも朝の分を削りすぎると駄目で、もし夜のうちに騒ぎになれば洗い用からさらに桶を一つ回すしかない。そういう嫌な勘定ばかり、止めようとしても止まらない。
ダフネが火の向こうから立ち上がり、こちらへ一歩だけ寄った。
「貸して」
「何を」
「それ」
顎で蝋板を指す。
「嫌だ」
「何で」
「いま手放したら、本当に何もしてない感じになる」
「もうだいぶ長いこと座ってるだけ。何もしてない」
「言い方」
「正しいでしょ」
レオンは少しだけ顔をしかめたが、結局、板を渡した。渡した瞬間に不思議なくらい手が軽くなる。軽くなるのが、また少し腹立たしい。
ダフネは蝋板を自分の膝に置き、火の明かりから少し外した。見えにくくなる位置へ。さらに、火床の縁を靴先で少し崩し、火をほんのわずかだけ寝かせる。影が深くなり、こちらの顔は見えにくくなった。
「それで?」
と彼女が言う。
「何の」
「さっきの続き。学者に戻りたい話」
レオンは目を閉じたくなった。さっきの惨めな告白は、火と一緒に燃えて消えてくれればよかったのに、どうもそうはいかないらしい。
「え?」
「つづき…ありそうだった」
「……よくわかったね…」
「見てたらわかるもの」
しばらく黙ったあとで、レオンはゆっくり口を開いた。
「書庫って、夜の匂いがあるんだ」
「うん」
「昼と違う。蝋灯が少なくて、昼の熱が抜けて、棚の木の匂いが少しだけ立つ。羊皮紙の乾いた匂いと、墨と、紐と、古い埃。全部がちゃんと“置かれてる”匂いなんだよ」
「へえ」
ダフネは笑わなかった。ただ聞いていた。
「戦の前の夜は違う」
とレオンは続ける。
「何もかもが現実感がないんだ。
水桶も、皮袋も、鍋も、人間まで。明日になったらどこへどう転がるかわからない」
「そうね」
「書庫は違った」
「レオン、そこ本当に好きだったのね」
「……好きだった」
好きだった、では足りない。好きで、そこへ残れなかった。だからまだ、未練が乾かない。
「でも、塔は…書庫は、僕が好きなほどは、僕のことを好きじゃなかったみたいだ…
それでも…戻れたら」
とレオンは言った。
「明日が終わって、全部片づいて、もし生きてたとして、戻れるなら、僕はまだ書庫へ行きたいと思う」
ダフネは火を見ながら頷いた。
「行けばいいじゃない」
「簡単に言うなぁ」
「今すぐは無理でも、いつか」
「いつか、か」
遠すぎて、かえって少しだけ救いになる言葉だった。
ぼくはきづいたら泣いていた。
「でも、戻っても同じじゃない」
とレオンは言う。
「前みたいにはならないし、なれない」
「そうかもね」
「血を洗う水と、飲む水が別々だって考える頭のまま、書庫へ戻る。
本棚のならびを順番に見てても、たぶんどこかで“この棚は燃えやすい”とか考える」
「それ、だいぶ嫌ね」
「だよね」
ダフネが少しだけ笑った。
「でも」
と彼女は続けた。
「前みたいじゃなくても、そこに行けたら、なんだかんだ上手くやれるんでしょ」
「……そういう言い方、ずるいな」
「そう?」
「いまの僕にちょうど反論しづらい」
ダフネは肩をすくめた。
「反論しなくていいじゃない」
不思議と、その雑さが今夜は少しだけ効いた。
しばらくして、見張りのひとりがこちらへ近づいてきた。若い兵だった。まだ古参ほど顔が乾いていない。若さゆえなのか、顔がまだてかてかしていた、そして、こわばってもいた。
「主計殿」
「何?」
「水、さっきの順でいいのか」
前より声が低い。文句ではない。確認だ。
彼は僕が水の残量にピリピリしてるのをわかってくれてるみたいだ。
「いいですよ」
とレオンは答える。
「ただ、夜明け前は半口にしてくださいね」
「半口」
「朝のぶんを残してください。朝、前の方まで水を送れるかわからないから…相手もいろいろ嫌がらせしてくるかもしれないし、急に移動がかかるかもしれない…陣形を変えるとかね…」
若い兵は少し不満そうな顔をしたが、すぐにひっこめた。
それ以上食い下がらなかった。
まぁ、わかっててもツラいよな…これだけ水を絞ると。
「……わかった」
引いていく背中を見送りながら、ダフネが何も言わずに自分の外套を半分だけこちらへ寄こした。いつもの雑な手つきだったが、肩へ乗ると少しだけ温かい。
「主計殿、板がなくても主計殿ね」
とダフネが言った。
「嬉しくない」
「知ってる」
「ほんとに、少しも嬉しくない」
「でも、さっきよりは落ち着いた顔してる」
レオンはそれを否定しなかった。実際、さっきよりは少しだけ呼吸が楽だった。泣き言が全部消えたわけではない。学者に戻りたい気持ちが減ったわけでもない。ただ、そのままの形で朝まで持っていける気がした。
「ダフネ…君は」
とレオンは言う。
「こういうの、慣れてるのか」
「何に」
「人が勝手に喋って、勝手に少しだけ落ち着くのを見てるやつ」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
その響きに、レオンは少しだけ申し訳なくなった。自分の泣き言ばかりが大きい夜だと思っていたが、彼女だって明日の決戦を前にしているのだ。
「悪い」
「何が」
「付き合わせてごめん」
「今さら」
「それもそうか…そうだね、ありがとう」
そこでようやく、少しだけ笑えた。ほんの少しだが、さっきまでよりはずっと楽だった。
「監補殿」
とダフネが言う。
「何」
「明日まで生きてたら」
そこで彼女は少しだけ言葉を探した。探すところが、彼女らしくない。
「……書庫の話、もう少し聞く」
「それ、約束になるのか」
「なるんじゃない」
「ずいぶん頼りないなぁ」
ダフネは薄く笑った。
レオンは火を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
明日まで生きていたら。その言葉は脅しにも願いにもなる。だが、いま彼女の口から出ると、不思議と少しだけ現実的だった。本当に明日の朝までの話として聞こえる。
「……じゃあ」
とレオンは言う。
「生きてたら、話す」
「うん」
「中央学都の書庫のほうも」
「うん」
「タナグラ地方塔都市の、湿ってるくせに妙に落ち着く書庫の話も」
「うん」
「それと、たぶん」
「たぶん?」
「なんで僕がそこへ残れなかったのか、もう少しましに話せるかもしれない」
ダフネはそこで初めて、少しだけこちらを見た。
「今でも十分ひどくは話せてるけど」
「君、本当にひどいなぁ…恥を忍んで正直に話そうとしてるのに…」
「知ってる」
その短いやりとりだけで、火床の向こうの夜が少しだけ薄くなる。敵はまだ近い。角笛はまた鳴るかもしれない。水はぎりぎりで、朝になればまた足りなくなる。何ひとつ良くなっていない。それでも、さっきまでのように泣き言だけが喉の奥でつかえている感じは薄れていた。
遠くで、見張りが交代の合図を低く呼んだ。
夜はまだ終わらない。だが東の空のいちばん低いところだけが、ほんのわずかに薄くなり始めているようにも見えた。
夜明け前は、もう遠くなかった。




