第28話 いまさらだけど学者の塔に戻りたい
夜がさらに深まると、宿営地の空気はいっそう重苦しく沈んだものになった。
レオン・カルディアスは、ダフネの横を離れて再び荷駄幕へと戻っていた。火床の隣に置かれた木箱の机には、書きかけの控え板と、煤で汚れた灯皿が置かれている。
明日の会戦を控えいても実務屋ともいうべきレオンたちの仕事は…止まってくれない。
「テオドルス、その第二列の配給控えですが、数が昨日のままです 。夜明け前に再確認して、書き直しておいてください 」
「は、はいっ。……すみません、主計殿。すぐにやります」
従者のテオドルスは、泥のついた羊皮紙を抱えたまま、必死に目をこすっていた。レオンは彼を下がらせると、再び帳面という名の「現実」に向き直った。
「主計の坊ちゃん、この二列の水袋、入れ替わってんぞ 」
低い声と共に、荷駄頭のバウコスが幕舎へ踏み込んできた。使い古された革帯を肩にかけ、不機嫌そうにレオンを見下ろす。
「前列用じゃなくて、荷駄と獣の分だ。中身はただの水だが、いいのか ?」
「……よくありません。前へ出すのは、傷口を洗うための水です 。中身まで確認して、必ず入れ替えないと行けないです…あぁ…そっか、さっき組み直した時に狂ったんだ…減らさないと… 」
「洗える水も飲める水も、どっちも足りねえんだぞ 。どっちを削るつもりだ ?」
レオンは一瞬、言葉に詰まった。だが、すぐに冷徹な理屈が口をついて出た。
やだな、フィロンに似てきたんじゃないかな…
「将軍の幕舎へ回す身支度用の水を削ります 。負傷兵の洗浄用を優先させてください 」
「……へっ、そいつを俺に言わせる気かよ 」
「すいません、でも身支度しなくても人は死にません…飲み水よりも負傷兵の洗浄水は、絶対に確保したいんです
主計が指示したって言ってください。叱られるのは慣れてます」
バウコスは鼻を鳴らし、嫌味を言いながらも指示通りに動き出した。
自分が下した判断の冷たさに、レオンの指先が微かに痺れる。兵たちの喉の渇きよりも、後始末のための水を優先した。
その「判断」は、本当に「正解」なのか、正直自信はない。
でも決めないと進まないのだ、仕方ない。
入れ替わりに、軽装歩兵の半隊長、ミュロンが姿を現した。
「おい、帳簿役。軽装歩兵の随伴荷車を、一台減らしてえ 」
ミュロンは剣の柄に手を置いたまま、鋭い目でレオンを射抜いた。
「この先は道が狭いし、敵の騎兵がいつ突っ込んでくるか分からねえ 。もたついている暇はねえんだ 」
「……荷車を減らすのは構いませんが、それでは前列の替え槍が足りなくなりますよ。
いっそのこと障害物にするために簡単に荷が壊れるように…いやでも荷が失われるのはよろしくないな… 」
レオンは帳面に目を落としたまま、即座に在庫の数字を弾き出した。
「替え槍を半分だけ残し、残りをふた便後ろへ回すなら許可します 。ですが、それ以上は認められません。替えの槍も投げ槍も必要でしょう?
槍が無くなったら弓もない我々の前列の部隊は崩壊しますから…流石に短剣で闘うのは厳しくないですか?」
喋りながら思いついた事をぶつけてみる。
そう、軽装歩兵には槍は絶対に必要だ。
「……チッ。言うじゃねえか主計代理殿…わかった、それで手を打とう 」
ミュロンはそれだけ言って去っていった。
現場の古参兵が、自分の管理する「数字」の通りに動き、命を預けている。その信頼の重さが、今のレオンには耐え難かった。
作業を終え、レオンは尖筆を置いた。
頭の中では、誰が明日血を流し、誰にどれだけの水と布が必要になるか、その計算は、いく通りかは完了している。
実に嫌な計算だ。
ふと、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
レオンは顔を覆い、木箱の机に突っ伏した。震えが止まらなかった。
外に出ると、夜気は刺すように冷たかった。
火床から少し離れた暗がりに、ダフネが立っていた 。短槍を肩に預け、油断なく宿営地の動きを見ている。
「……ダフネ……さっきはありがとう 」
どうしてもお礼が言いたくなって、そう言った。
明日にはお互い、死ぬかもしれないのだ。言うべきことは言っとかないと…
ダフネは無言でこちらを振り返った。
レオンの口からは、堰き止めていた本音が、濁流となって溢れ出した。
「いまさらですが、僕は、学者に戻りたいんです。本気で。戻れるなら、すべてを投げ出して戻りたい 」
声は震えていた。だが、口調だけは頑なに丁寧な言い方を崩さなかった。教養ギリシア語、それが、彼に残された最後の学者としての矜持だった。
「泥と血の匂いがしない、あの乾いた書庫にいたかったんです 。古い地図が間違っているだのと、そんな些細なことで苛立っていたかった 。実技魔法が弱くて役立たずだと笑われても、せいぜい居場所がなくなるだけで、誰かの命まで数える必要はなかったんですから 」
ダフネは何も言わない。ただ、レオンの横へ半歩だけ座る位置をずらした 。
「なのに、ここへ来てから、僕は水の順番を決めて、誰が死ぬかの順番まで勘定している 。
こんなの、僕のいるべき場所じゃないんです。
こんなの、僕には向いてない。
だいたいみんな乱暴で、臭くて、自分勝手で、会話するだけでこっちを不愉快にさせるようなわがままな連中なんです。
大っ嫌いな、連中なはずなんです。
塔にいたときだったら、口をきくどころか近寄りたくもないような連中なんです。
けど…そんな彼らが死ぬのが怖いんです」
喉の奥が熱い。ダフネは腰から革の水袋を外すと、レオンの胸に無造作に押し付けた 。
「……飲んで 」
「……」
レオンは両手でそれを受け取り、一口だけ含んだ。ぬるい水の味がした。
「……一番最悪なのは、そんな連中の役に立つのが嫌じゃないことなんです。
将軍たちや兵站監に認められるより、そんな連中から頼まれたり、信頼されたりすると嬉しいんです 」
レオンは、絞り出すように言った。
「水が足りるかと聞かれたら、足りる形にしたい。隊列が混乱してるなら、なんとかして解きたい。僕の引いた線の通りに人が動いて、誰かが生き延びる方に手を出せている 。……うまく回ると、少しだけほっとしてしまうんです 」
自嘲するように唇を歪め、レオンはうつむいた。
「学者になれなかったくせに、僕は今、この仕事の手触りが、肌感が…
いろんなことを知ってしまった 。それが……たまらなく悔しくて、苦しいんですよ 」
火床の爆ぜる音が、不気味なほど大きく聞こえた。
しばらくの沈黙のあと、ダフネの乾いた声が届いた。
「役に立つのが、嫌じゃないなら」
彼女はレオンを見ようともせず、ただ前方の闇を見据えて言った。
「そこはもう、嘘をつかなくていいんじゃないの?」
慰めではない。ただの冷徹な事実だった。
だがその一言で、レオンの胸を塞いでいた醜い未練が、ようやく形を得て落ち着いていくのを感じた。
「……ダフネ、あなたは、本当に慰め方が下手ですね」
「慰めてない。事実を言っただけ 」
「知っていますよ。それでも、ありがとう」
レオンは膝の上に置かれた蝋板を強く抱きしめた。
未練は消えない。書庫に戻りたいという願いも嘘ではない。
だが、この手の中にある「役に立ってしまう数字」の重みから、もう逃げられないことも理解していた。
遠くで、夜番の交代を告げる角笛が短く鳴った 。
夜明けは近い。
レオンは水袋の栓を締め、ゆっくりと立ち上がった。
「……明日の朝まで、まだ少し時間があります。もう一度だけ、負傷兵用の布の配置を見直してきます 」
「行く」
ダフネも立ち上がり、短槍を握り直した。
その顔には、先ほどまでの無機質な冷たさとは違う、静かな決意が宿っているように見えた。




