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第27話 書庫にいたはずの人生

 夜の宿営地は、耳が痛くなるほど静かだった。


 音が消えたわけではない。どこかで燻る火が爆ぜる音、荷駄獣が鼻を鳴らす音、夜番の兵が槍の石突きで地面を打つ音。どれもたしかにあるのに、それらがすべて、深い闇の底に吸い込まれていくような、奇妙な静寂だった。


 レオン・カルディアスは、火床の前に膝を抱えて座り、揺れる火を見つめていた。

 火は低く抑えてある。立ち上る煙が敵に位置を知らせぬよう、細心の注意が払われていた。


 ふと、鼻の奥にこびりついた匂いが、ひどく疎ましく感じられた。

 焦げた薪、獣の汗、乾ききっていない革、そして泥。それらが混じり合った、逃げ場のない「戦場の匂い」だ。


(……書庫は、もっと乾いた匂いがしていたのに)


 瞼を閉じれば、今でもありありと思い出せる。

 中央学都アテナイアの書庫、あるいはタナグラの地方塔の図書室 。

 そこには、古びた羊皮紙の乾いた匂いがあった。上等な墨と、綴じ紐の麻、そして長年の時を吸い込んだ木の棚の匂い。夜になれば、蜜蝋の灯火が落とす柔らかな香りが、それらを優しく包み込んでいた。


 あの場所では、すべてが「あるべき場所」に整然と置かれていた。

 写本の注釈は正確で、地図の線は揺るがず、言葉は沈黙を守りながら、知を求める者に応えてくれた。半日かけて桶一杯の水しか出せないような、魔法実技の劣等生であっても 、そこに座って羊皮紙をめくっている間だけは、自分もまた世界の一部になれている気がしたものだ。


 だが、今の自分はどうだ。


 レオンは目を開け、膝の上の蝋板を見下ろした。

 火の明かりで浮かび上がるのは、高尚な哲学の命題でも、古の戦史への考察でもない。


「……飲用に回す皮袋、残り四十二。傷口の洗浄に回す桶、三。朝までに火床で乾かす布、一束半……」


 無意識のうちに、指先が蝋の表面をなぞっていた。

 三度数えて変わらない数字を、四度目に見ても変わるはずがない。頭ではわかっている。それでも手が止まらないのだ。


 明日、誰かが死ぬ。

 たぶん大勢死ぬ。

 そして自分の役目は、そのあとで足りなくなる水の数を数えることだ。なんとも立派な人生だな、と内心で吐き捨てた 。


 本来なら、自分はあちら側にいたはずだった。

 灯火の下で本を読み、明日の朝に何人分の血を洗う水がいるかなんて考えもしない。そういう「静かな人生」を選ぶつもりだった 。それなのに、なぜ自分は今、泥にまみれた宿営地で、皮袋の口紐の緩みを気にしているのか。


「……監補殿」


 背後からかけられた声に、レオンは肩を揺らした。


 振り返ると、ダフネが立っていた。軽装歩兵用の短槍を肩に預け、暗がりに半分溶けるように立っている。焚火の赤が届かないせいで、顔はよく見えない。ただ、じっとこちらを見ている気配だけは分かった 。


「……脅かさないでください」

「脅かしてない。あんたが勝手にビクッと跳ねた」


 ダフネはそれだけ言うと、無言でレオンの横に座った。

 励ますでもなく、理由を問うでもない。ただ、夜の風がレオンの方へ直接当たらないよう、わずかに位置をずらして腰を下ろしただけだ。


 その沈黙が、今のレオンにはひどく重く、同時に奇妙な安堵を与えていた。


 レオンは、蝋板を握る手に力を込めた。

 ここには書庫のような静謐も、羊皮紙の乾いた匂いもない。あるのは仮初めの宿営と、明日には消えてしまうかもしれない命の勘定だけだ。


 嫌で、嫌で、たまらない。

 今すぐにでも帳面を投げ捨てて、どこか遠くの静かな場所へ逃げ出してしまいたい。


 それなのに。

 レオンの頭は、明日、荷車が驚いて散った時に失われる水の量や、負傷兵が集まる場所の導線を、勝手に計算し続けている。

「役に立たない学者崩れ」だと自嘲しながらも、その実務の精度を高めることに、異常なまでの執着を燃やしている自分がいた。


(……学者になれなかったくせに、僕は今、この帳面を手放せずにいる)


 その矛盾が、腹立たしかった。

 今の自分を否定したいのに、明日を生き延びるために数字を揃えようとする自分を、どうしても無視できない。

 自分を「不要な人間」として外へ弾き出した研究塔の世界への未練と、現場で「必要とされてしまう」現実 。その二つの間で、レオンの心は不器用に波打っていた。


 夜番交代の角笛が、遠くで短く鳴った 。


 乾いた音が、黒い宿営地の上をまっすぐ走っていく。夜がまた一段、深くなった。


 レオンは、蝋板の上に再び尖筆を滑らせた。

 未練は消えない。書庫に戻りたいという願いも、消えはしない。

 それでも、今この瞬間の数字を間違えることだけは、自分の中のプライドが許さなかった。


 隣に座るダフネは、相変わらず何も言わなかった。

 ただ、彼女の存在という確かな質量だけが、レオンの背中を、この「戦場の夜」に繋ぎ止めていた。


 喉の奥に、抑え込んでいた熱い塊がせり上がってくるのを感じた。

 もう、自分一人で抱えきれる限界が近かった。


 レオンは震える指先を隠すように、強く蝋板を胸に抱きしめた。

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