第24話 逃げたい、でも今逃げると誰かが死ぬ
ユーフラテス川を右手に臨みながら、軍勢はアラビアの砂漠地帯へと足を踏み入れていた 。
そこは、海のようにどこまでも平坦な大地が広がる、木一本生えていない不毛の地であった 。ただ一面に苦蓬が群生し、風が吹くたびに、砂埃とともに甘く鼻を突く芳香が巻き上がる 。一見すれば詩的な情景かもしれないが、数万の胃袋を預かる身としては、この「木がない」という事実ほど絶望的なものはない。
「……薪もなければ、家畜の飼葉もない。これは、帳簿の数字以前の問題だなぁ」 レオン・カルディアスは、喉を焼くような乾燥に眉をひそめながら、手元の蝋板に厳しい現状を書き込んだ。
この地には、野生のロバやダチョウ、ノバリやカモシカが驚くほど多く生息している 。兵士たちはそれを追い回し、捉えた肉を焼いて飢えをしのいでいた 。ロバの肉はシカに似て柔らかく、ノバリの肉は美味だというが 、そんな「現地調達」で軍全体が維持できるはずもない。
案の定、軍内の物資は枯渇し始めていた。リュディア人の随伴商人が開く市場では、小麦の粉一カピテ(約二リットル)が、なんと一兵卒の一ヶ月の給与に近い額だ。
馬やロバは次々と倒れ、兵たちは肉を食らうことでかろうじて繋がっている状態だった 。
夜。荷駄幕。
「水の荷車は三。動く替え獣は六。外に空車、内に水。火は半分だけ残します」
僕が絞り出した指示は、現場に落ちた瞬間、当然のように泥臭い反発を招いた。
夜の荷駄幕は、ただでさえ張り詰めている。そこへ陣形の組み替えに近い命令を出せばどうなるか。
「寄せろと言われてもな、主計殿」
古参の荷駄頭であるバウコスが、ひび割れた声で吐き捨てた。
「水車をこの夜中に動かせば、どうしても車輪が鳴る。獣も騒ぐんだ。敵に居場所を教えてるようなもんだぜ」
「だから空車を外に置くんです。矢を遮る盾代わりに」
「盾なるわけねえだろ」
「あと、本音は駄獣が走り出すのを防ぐために。敵が来た時に駄獣から視線が切れるだけでも、意味があるかなぁって」
バウコスが鼻を鳴らす横で、見覚えのある顔が顔を出した。いつかの夜営で火番をしていた軽装歩兵だ。
「学者様、火を半分にするってのはいいが、落としすぎるなよ」
彼は手元の火口箱を揺らしてみせた。
「消えたら戻れねぇ奴が出るぜ。真っ暗闇で兵と荷車が絡まったら、もう解けねえからな」
正論だ。現場の理屈としては完全に正しい。
さらに悪いことに、重装歩兵の顔役であるカレスの部下が、わざわざ幕の近くまでやってきて声を張り上げた。
「おい、帳簿役! 重装歩兵の水を減らす気じゃないだろうな。俺たちが前に立たなきゃ、この列は一瞬で踏み潰されるんだぞ!」
兵科対立の圧力まで持ち込まれ、幕の中の空気は最悪だった。
テオドルスは青ざめた顔で、震える手を必死に動かし、羊皮紙に控えを書き留めようとしている。
――最悪だ。
僕は怒鳴り声の中でも、無意味に計算をしてしまう。
貴重な水がはいった革袋が散る確率。替え獣が暴れて列を乱す確率。暗闇で荷札が読めなくなり、負傷者用の水がどこへ回ったか分からなくなる確率。
計算すればするほど、最悪の結末しか見えない。
まあ、そうだろう。だって実戦経験なんかない。
妄想以外なにもできない。
逃げたい。
幕の外へ出ず、このまま荷車の陰にでも潜り込んで息を潜めていれば、少なくとも飛んでくる矢で即死することは避けられるかもしれない。
そもそも、僕がここに残ったところで、いったい何の役に立つというのか。白兵戦などできはしない。剣を抜いたところで、敵の軽装歩兵の一撃で終わりだ。あるいは、遠くから投げやりで…とか。
だいたい僕がいなくたって、ミュロンやバウコスが現場の勘でなんとかするんじゃないのか。
恐怖で喉が渇き、呼吸が浅くなる。頭の中の計算が、自分の生存確率の低さを冷酷にはじき出していた。たぶん、これだけは、あんまり外れてない気がする。
不意に、目の前にぽん、と革の水袋が突き出された。
「飲んで。倒れると邪魔」
ダフネだった。
彼女は慰めの言葉など一つも口にしない。ただ、僕が立ちすくむ横に無言で立ち、短い言葉とともに水を寄越しただけだ。彼女の視線は僕ではなく、幕の外の暗闇へ向けられている。その立ち位置が、僕の盾になる場所だと気づくのに数秒かかった。
「……逃げたきゃ逃げろ、坊ちゃん」
背後から、擦れた声が降ってきた。ミュロンだ。
彼は左手を剣の鞘にあてていたまま、僕を見下ろしていた。その目はいつも通りの嫌味な色を帯びているようでいて、温度が全く違った。
「だがな、今お前が消えると、多分全員死ぬ。ここを切り抜けてもな」
ミュロンは低い声で、事実だけを突きつけてきた。
「そして逃げたお前も野垂れ時ぬ」
息が止まりそうになった。
彼は「逃げるな」とは言わなかった。ただ、「今逃げると完全に詰むぞ」と言ったのだ。
この粗野な古参兵は、僕のことを機能としてではなく、欠けると全体が崩れる『要』として見ている。僕が逃げれば、この荷駄列は完全に瓦解し、彼らも死ぬ。
――嫌な責任だ。
立派な覚悟なんてものじゃない。英雄になりたいわけでもない。ただ、自分が逃げたせいで彼らが死ぬという現実を、突きつけられてしまっただけだ。
恐怖の中で、逆に声が冷えていくのがわかった。
「バウコス」
僕は淡々と口を開いた。
「水の荷車三台は中央に寄せます。ただし、一台だけは外縁寄りに残してください」
「おい、盾にするんじゃなかったのか」
僕は無視して続ける。
「全消灯はしません。『半灯』で列の軸になるところだけは視認できるようにしましょう。真っ暗闇では兵が迷子になってしまう。火番の兵がいましたよね、フィノクセスだったかな、いや、フィリノスだ。彼に種火を多めに確保しておくように言ってください。何かあった時すぐに火を増やせるように」
「バウコス、車輪とかそろそろガタが来て危ない荷車を今すぐ選んでください。全部は守れません。最悪の場合、切り捨てます」
「……へっ、言うじゃねえか」
若造がよ、という空気感を出しながらバウコスが荷車へ向かう、少しづつ彼とのやり取りに慣れてきたような気がするな。
「テオドルス」
「は、はいっ!」
「空いてる駄獣六頭の用途を固定します。牽引用二、負傷者移送用二、最終逃がし用二です。誰がどの火列を受け持つか、口頭ではなく今のうちに紙に落としてください。僕が死んでも、誰かが読めるように」
重装歩兵の伝令には、僕が直接向き合った。
「水は減らしません。ただし、荷車の位置が動くので、取りに来る経路はこちらで指定します。カレス百人隊長にはそう伝えてください」
有無を言わさぬ口調に、伝令は忌々しげに舌打ちをして去っていった。
これで、僕にできることは全て終わった。
あとは会敵しないこと、もし会敵してしまったら、将軍が敵を追っ払ってくれることを祈るだけだ。
結果として、荷駄列はまだ隊列として機能している。誰も僕を褒めないし、賞賛の言葉もない。
そして僕は、残ってしまった。もう自分だけ逃げる立場ではなくなった。
この預かってしまった印が、僕の首に架かる次の鎖になったのだ。
夜明け前。
仮の静けさが漂う中、荷車に寄りかかっていたバウコスが、ふと地面に手を当てた。
彼の顔色が変わる。
「……主計殿」
バウコスが、ひび割れた声で言った。
「この揺れ、荷車じゃねえ。馬だ」
ダフネが即座に短槍を引き寄せる。
ミュロンは舌打ちをした。
バウコスは地面から手を離し、暗がりの向こうを睨みつけた。
「しかも、一隊じゃねえぞ」
戦の匂いが、風に乗って幕の中へ流れ込んできた。
どうやら、本当の地獄はこれから始まるらしい。




