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第23話 主計補佐から主計代理へ

 フィロンの幕舎には、酒と汗、それに古い油の匂いが淀んでいた。

 渡河を終えたばかりの宿営地はどこも泥と疲労に塗れていたが、ここは全く別の意味で荒れ果てている。卓の上には濡れた蝋板が危うい高さまで積み上がり、封泥の欠片が散乱し、床には紐束と空の水袋が転がっていた。誰かが途中まで齧った固い麦餅がひとつ、帳面の上に押し潰されている。ま、だれかってフィロンなんだろけど、この男らしからぬ…なんというか不調法な姿だった。


 非ことで言えば、働き詰めの上に倒れかけた部屋だ。陣幕だけど。


「……遅い」

 奥で顔を上げたフィロンは、青白いというより乾いた蝋のような顔色をしていた。髪が額に張りつき、外套の襟元まで汗で濃く染まっている。普段なら卓の上の乱れひとつ許さない男が、この惨状を放置している。その事実だけで、事態の深刻さが嫌でも伝わってきた。


「申し訳ありません。最後尾の荷車が片輪を取られかけて――」

「いい。報告を」

 口調こそいつも通りだったが、明らかに息が浅い。

 レオンは喉の奥が冷えるのを感じながら、端的に現状を告げた。


「渡河はほぼ完了しました。ですが荷駄の隊列がかなり崩れています。駄獣の損耗が十二、うち休ませる必要があるものが五。水袋の紛失三十四。濡れた麦袋が二十七。負傷兵用の布は半分以下です。車軸が傷んだ荷車が二台、輪の歪みが四」

「兵の様子は」

「重装歩兵側が先配りを要求しています。対して軽装歩兵は、荷駄護衛の分を削るなと。つまり、いつも通りです」

「商人はどうだ」

「酒と油を隠し始めています。川を越えたので、売り惜しみと足元を見た値付けが始まると見ていいでしょう」


 フィロンは一度だけ目を閉じた。ひどく疲れている。だが、その一瞬のあとにはもういつもの抜け目ない顔に戻っていた。

「簡潔に言う」

 嫌な前置きだ。たいてい碌なことにならない。

「私はこれから将軍幕へ向かう。プロクセノス殿と、王弟側の連絡役――ミトリダテスとも話がある。今夜の荷駄再配置と、明朝の行軍順がそこで決まる」

「はい」

「その間、お前がし切れ」


 レオンは一拍遅れて、その言葉の意味を飲み込んだ。

「……何を、ですか」

「兵站監、つまり主計の裁可だ。今夜の配給、水、飼葉、補修材、負傷兵の布、荷車の優先順。配る順番も、削る順番も、すべてお前が決めろ」


 冗談じゃない。

 喉まで出かかった抗議の言葉は、フィロンの眼光に射すくめられて音にならなかった。とうてい冗談で済ませる顔ではない。

「お待ちください。僕はあくまで補佐です。最終の決裁は――」


 フィロンはじろりとこちらを一瞥して、

「これを渡しておく」といった。


 フィロンは卓の上の印袋を掴んだ。紐の先で青銅の印が揺れる。

「理由は二つある。ひとつ、私はもうここで細かい数を裁くことができなくなった。ギリシア人部隊の全体が回らっておらん。全体の兵站監理業務を監督する。もうひとつ、いま現場で判断を止めるのは、危険性が高い。どちらにも対応する必要がある。だが、幸いおまえがいる」

「それでも――」

「白兵で槍を持てと言っているわけではない」


 ええぇ…それは暴論…


「とりえず今夜からしばらくの間、私の権限でお前の裁可をすべて通す。帳尻が合わなければ私が責任を取ろう」


 嫌な大人だ。本当に。

 責任を取るなんていわれたら、断れないじゃないか。


 フィロンは印袋をこちらへ差し出した。

「受け取れ」

「権限だけ渡されても困ります。その場は収まっても、後で帳尻が合わなくなれば私の裁量では帳尻をつけることができません」


「そうだ」

 即答だった。


「だから控えを残せ。テオドルスに二重で書かせろ。原本はここ、写しはお前が持て。私が責任を取るにしても経緯がわからんと話にならん。だが、判断はお前のものを尊重しよう。問題が起きたら徹底的に詰めるがな」


「それは、僕の判断に責任を持つと言っているのか、持たないと言っているのか、どちらですか」

「両方だ」


 ひどい理屈だが、この状況では不思議と正しく聞こえてしまうのが恨めしい。

 フィロンは立ち上がった。ほんの少しだけよろけたが、すぐに姿勢を立て直す。

「兵への酒は切らせるな。あれらは暴れ出すぞ。だが絶対に増やすな、際限なく飲んで規律をなくす。いつも通り、水袋を運ぶ獣から先に食わせろ。あれらは消化に時間がかかる。先に食わせないと明日の朝動きが鈍くなるぞ。荷車の補修材は惜しむな。新しい巻布は出し渋れ。裂いて使える布から使わせるんだ。あと――バウコスが黙ったら、そちらの意見を先に通せ。現場の長が黙る時は、上手く説明できないが、何か危険なことが起きかかっているか、すでに起きたかだ」

「……はい」

「ミュロンの文句は聞け。ほかの隊長、半隊長連中とカレスらの文句は半分でいい」

「半分、ですか」

「全部聞けば増配になる。後になって真っ先に文句言ってくる者らも、真っ先に増配を要求したものたちだ。ないものはないのだ。たとえそこに山積みになっていても」


 ぽん、と。

 印袋がレオンの胸に投げられた。

 慌てて受け止める。冷たいはずの青銅が、やけに重い。これを持った瞬間に、逃げ道が一つ完全に塞がった気がした。


「兵站監殿」

「何だ」

「僕が間違えたら」

「間違えないようにしろ」

 それだけ言って、フィロンは幕の裏口へ向かった。出る直前に、振り返りもせずに付け足す。

「貴様は遅い上に勘が鈍い。だが頭は良いし、仕事は雑ではない。差し引きそれで十分だ。

 それと、今の予算のうち半分は使って良い。お前の決裁の範囲だ」


 布が揺れ、外の怒鳴り声が一気に流れ込んできた。

 本当に行ってしまった。

 レオンはしばらく印袋を見下ろした。渡河の疲れとは違う。胃の底に鉛の小片でも流し込まれたような重苦しさが広がっていく。


「坊ちゃん」

 振り返ると、入口の天幕を上げてダフネが立っていた。

「ひどい顔」

「たぶん、そうでしょうね」

「吐く前の顔だ」

 ずしりと重い革の水袋が飛んできた。慌てて受け止める。

「飲め。ちょっとでいい、口をつけるだけ」

「あなたは本当に......」

「カッコつけてもしょうがない、こういうのなんていうの、ロゴスって奴じゃないの?」

 道理とか理屈ってことかな?まぁ、そうかもしれないなと思った。


 ダフネの目が、レオンの手の中の印袋へ落ちた。

「へえ」

「へえ、では済まない話でしょう」

「済まない。でも決まった」

 短い。こういう時はその短さがありがたかった。

「ミュロン、バウコス、テオドルスを呼んでください。あと、入口の兵は一列に。いっぺんに中へ入れないで」

「分かった」

 ダフネはそれだけ言って消えた。慰めも励ましもない。だが、水だけは置いていく。あれはずるいと思う。言葉よりずっと効くのだから。


 最初に飛び込んできたのはテオドルスだった。蝋板を抱えて息を切らしている。

「しゅ、主計殿!いえ、主計代理殿、おめでとうございます?」

 何で疑問形なんだろうって思ったけど、そりゃまぁ疑問形だよなぁ。

 やっぱりだれが見ても、貧乏くじだよな......

「その呼び方は今さら直らないでしょうが、せめて静かにしてください。余計に胃が痛みます。控えを二重に取りますから、題を書いて。渡河後第一刻、配給・補修・水・飼葉差配」

「は、はいっ」


 なお、ぼくはもともと兵站監補であって、別名は主計補佐。主計殿は本来フィロンのはずなんだけど、兵からするとごちゃっとしてるみたいで、いつの間にか「ぼっちゃん」に続いて、よく言われるのが「主計殿よぉ」という、ねばりつく言われ方になった。

 だいたいテオドルスも「監補殿」って言ってたのに、いつの間にか、「主計殿」って言うようになってた。まあ、あだ名みたいなもんだな。多分、主計幕にいるなんだかこざかしい若造って意味「主計殿」だったんだろう。


 続いてバウコスが入ってくる。片手にひびの入った車軸、もう片手に泥まみれの革帯を提げていた。

「坊ちゃん、明日の大きめの意思踏むなり、段差を降りたら、ぶっ壊れそうなのが二台あるぞ」

「水袋を積んだ荷車ですか」

「一台はな。もう一台は麦袋の車だ。どっちを残す」

「……ひどく嫌な二択ですね」

「だから聞きに来たんだ」


 さらにミュロンが顔を出した。肩まで泥を浴びているが、その目つきだけは妙に冴え渡っている。

「最後尾で勝手に荷を積み替えてる馬鹿がいる。寝具と酒壺を前へ寄せてやがる。おまけに軽装の護衛も足りねえ」

「何人いります」

「頭数は八で足りる。が、こいつら突っ込むと余力がなくなる。あとはみんな疲れてる。山賊襲来とかで周辺の斥候とか、偵察だのという時まともに走れるのは六ってところだ」


 いい。実にいい。誰も彼も悪い知らせしか持ってこない。主計幕らしくて泣けてくる。

 レオンは蝋板を引き寄せた。

「先に決めます。修繕してダメだったら、水用の荷車を優先させましょう。替え獣はそっちへ回して、革帯と楔も優先。麦袋車は荷を落として軽くしてください。落とすのは供積みの寝藁優先で」

「寝床が減るぞ」

「車軸や車輪が壊れて車が死ぬよりはましです」

「そういう顔になってきたな」

「どういう顔です?」

「嫌な決断をする顔だ」

 とミュロンはそこで間を置いた

「平たくいやぁフィロンと同じ顔だ」

 褒められていないのは分かる。


 その時、幕の外で荒々しい怒鳴り声が上がった。

「どけ! 俺を先に通せ!」

 ずかずかと重い足音と共に、甲冑の擦れる音が近づいてくる。嫌な予感どおり、重装歩兵側の顔役であるカレスだった。後ろには半隊長を二人三人と引き連れ、泥と不満をたっぷりぶら下げて乗り込んでくる。

「フィロンはどこだ!」

 幕へ入るなり、それだった。

「不在です」

「なら話が早い。おい帳簿役、うちの隊へ倍出せ。川で一番踏ん張ったのは俺たちだ。豆粥と干し肉一切れで済むと思うなよ」


 卓がどんと叩かれ、蝋板が跳ねた。テオドルスが肩を縮める。

 レオンは一度だけ水袋に口をつけ、喉を湿らせた。

「要求内容を記録します。カレス隊百人、増配要求」

「記録じゃねえ。許可だ」

「却下します」


 一瞬、幕の中が静まった。

 カレスの顔が引きつる。

「……何だと?」

「規定量通りです。増配はありません」

「ふざけるな。明日、前衛を張るのは俺たちだぞ」

「荷車が止まれば、前衛も後衛もありません。先ほどの渡河で駄獣が相当数潰れました。ここで重装歩兵に倍の量を出せば、明後日には軽装歩兵の護衛分と荷駄引きの分が完全に死にます」

「なら軽装の分を削れ。あいつらは身軽だろうが」

「最後尾を守る兵がいなくなります。あなた方の明日の飯も、その最後尾から運ばれてくるんですよ」


 カレスが一歩、威圧するように踏み込んだ。巨体が近づき、汗と泥の強烈な匂いが鼻を突く。呼気には少し酒の匂いも交じってる。

「紙の将校様は、兵の腹より帳面が大事ってことか」

「順序が逆です」

 レオンは印袋を卓の上へ置いた。青銅が小さく鳴る。

「腹に入るところまで、確実に物を運ぶために帳面を使っています。今ここであなた方に気分よく食べさせても、水の荷車が止まれば遠からずは全員の喉が渇きます。2万人いるこの行軍で、呑める水なんてそうそう確保できないですけど、大丈夫ですか?」


 カレスの目が印袋へ落ちた。フィロン本人はいないが、印はある。そこまでは理解したらしい。

「……本気か」

「本気です。酒の配給は切りません。ただし増やしません。飼葉は駄獣へ先配り。補修材は水の荷車優先。異議があるなら控えに残します」

「脅しか」

「記録です」


 カレスの手がこぶしを握った。


 同時に、ダフネが半歩前へ出た。何も言わない。ただ腰の短剣にいつでも手を添えることができるよう、少し腕を開き気味にして......少し腰を落として……

 いつだったか、抜き打ちが得意だとか言ってたけど、カレスもそれは知ってるみたいだ。

 目が半眼になっている。


 にわかに緊張が高まる。

 さらに入口の影から、ミュロンの低く通る声が飛んだ。

「やめとけ、カレス。主計殿を斬ったところで麦は増えねえ。配給帳が死んで、全員が路頭に迷うだけだぞ。それに今は、代理とはいえ本当の主計殿だ。冗談ではなく規律違反で処分されるぞ?」

 カレスが忌々しげに舌打ちする。

「軽装のくせに口を挟むな」

「はん、別段おれはお家柄が悪いだけで、貧乏ってわけでもねぇんだぜ。んなこたぁ、てめぇも百も承知だろうがよ」

 へぇ~、もしかしてミュロンの家とカレスの家は知り合いなのかな?

 そういえば、ミュロン、軽装歩兵にしては珍しく皮の袖なし鎧着てるな。

「荷駄が死ねば、お前さんのその立派な鎧も、腹の足しにはならねえからな」


 空気がぴんと張る。

 誰かが一人だけ賢くなってくれれば楽なのに、現実はだいたい全員そこそこ正しい。その上で、同時には救えない。

 レオンはテオドルスを見た。

「書いてください。カレス隊、増配要求、却下。理由――駄獣損耗、水桶車優先、軽装護衛維持」

「は、はい!」

「異議あり、も書いて」

「異議、もですか」

「ええ。後になって『そんな説明は聞いていない』と騒がれる方が厄介ですから」


 カレスはしばらくレオンを睨んでいたが、やがて木簡をひったくるように掴んだ。

「覚えておけよ、若造」

「ええ。たぶん今夜は、覚えることだらけです」


 皮肉が口をついて出た。

 良くない癖だ。

 いつもどおり、「あっ」とおもったけど、いつも通り、すぐどうでもよくなった。やることも考えることも多すぎる。早よでてけという思いで、塗り替わった。

 ダフネとミュロンがいると強気になるな、我ながら。


 カレスは鼻を鳴らし、部下を引き連れて出ていく。幕の外でまだ文句は続いていたが、とりあえず卓は守れた。

 小さな成果だ。本当に小さい。だが今は、それで十分だった。


 次に来たのは、手当て役だった。まだ若い男で、腕まくりした前腕に泥と乾いた血がこびりついている。渡河で転んだ膝、荷車の角にぶつけた脛、濡れた革具で擦れた肩。放っておくと夜のうちに熱を持つ類の怪我だ。

「巻布が足りません。川で転んだのが何人かいますし、荷の積み替えで結構深く手を切った者も――」

「新品は出せません」

 レオンは先んじて言った。

「濡れていない古布を裂いて使ってください。洗い用の水を使ってよいので。傷ごとに一枚ずつ新品を回す余裕はありません。なんだったら鍋で煮てください。明日の出立までには乾くでしょう」

「ですが…」

「分かっています。だから先に洗う水だけ確保します。巻布そのものは節約してください」

 理屈としては正しいはずだ。だが、正しい判断を下すたびに、泥水を飲まされているような気分の悪さがこみ上げてくる。


 手当て役が下がるのと入れ替わりに、隻眼のシラクサが顔を出した。

「いよいよ大っぴらに酒を隠し始めたぞ。油もだ。川を越えたからな、商人どもも腹を括った」

「灯火用だけ押さえます。香油はあきらめます」

「嫌われるぞ」

「今夜それで済むなら安いものです」

 シラクサは片目を細めた。

「だいぶ兵站監殿みたいなことを言うようになったじゃねえか、坊ちゃん」

「やめてください…頼みます、ほんとうにやめてください」

 ぼくはもっと愛想がいいはずだ。


 幕の奥では、テオドルスが必死の形相で蝋板に文字を刻みつけている。

 誰に、何を、どこまで、どんな理由で回したか。その控えが増えるたびに、自分の下した判断が『責任』という形をとって積み上がっていくのが分かった。


 バウコスが折れかけた楔を卓に放った。

「寝台板、もう一枚いる」

「誰のです」

「知るか。端の方でふんぞり返ってる奴のだ」

「持ち主の名は残してください。後で補償の控えを作ります」

「生きてりゃな」

「そうですね。生きていれば、です」

 バウコスは鼻を鳴らして出ていった。嫌味に聞こえたなら結構だ。こちらだって、好きで寝台板を楔に変えているわけではない。


 幕の外では、怒鳴り声が少し減っていた。代わりに、別の音が増えている。

 皮袋を引きずる音…やめてくれ、やぶれたらどうするんだ…麦袋を開く音…車輪に油を差す音…獣の鼻息…楔を打つ槌の音。

 回り始めている。綺麗ではない、穴だらけの運用だ。

 それでも、何が足りず、どこを先に通すかだけは見える形になった。

 それが余計に恐ろしかった。自分の差配で、少し回ってしまったからだ。


 そこへ、外で駆ける足音がした。軽い。伝令だ。

 布が跳ね上がる。

「主計代理殿!」

 その呼ばれ方にもまだ慣れないし、慣れたくもない。

「前へ出していた斥候が戻りました」

「何が見えました」

「先の乾いた平地に、蹄の抉れがあります。踏み固められた跡が続き、丈の低い草や苦い灌木がところどころ潰れていました。古い焚き火跡もいくつか」

「どれくらい先です」

「半刻ほど。あと――」

 伝令はごくりと喉を鳴らした。ひどく息が上がっている。

「遠くで灯りが動いているとのことです。大きな宿営ではありません。ただ、荷駄列の火ではなく、騎馬の見張り火か、先遣の類に見えるそうです」


 幕の中の空気が、すっと冷たく細くなった。

 テオドルスの筆が止まる。ダフネは入口の布へ手をかけたまま、何も言わない。

 ミュロンだけが、いつも通り現場の言葉に変えた。

「荷車、駄獣は、護衛着けて少し離す。あばれらたら目も当てられねぇ。水の荷車だけ真ん中に寄せるぞ」


 誰もフィロンを探さなかった。いま、この場で決める役目がどこにあるか、もう皆わかっている顔だった。

 レオンは印袋を握った。

 喉が渇く。胃もまだ重い。逃げたい気持ちは少しも消えていない。

 これだけ荷駄が乱れている状況で敵襲など、考えうる限り最悪の展開だ。それなのに、レオンの頭は恐怖よりも先に、水桶と護衛の数を勝手に弾き出し始めていた。


 水の荷車は三。動く替え獣は六。外に空車、内に水。火を消しすぎるな。暗闇で列が死ぬ。最後尾の護衛はあと二人――。


 レオンは顔を上げ、幕内に響くようにはっきりと声を出す。

「寄せます。火は半分だけ残して。最後尾の護衛を二人増やします。控えを書いて。今すぐ」

「は、はい!」


 テオドルスが震える声で応じる。ミュロンはもう外へ出ていた。ダフネも続く。

 レオンは最後に、テオドルスの差し出した封泥へ青銅の印を押し当てた。

 震えを堪えた手に力が入ったせいか、その痕はやけにくっきりと残っていた。

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