第22話 川を越えたら、もう言い訳はできない
ユーフラテス川を最初に見た時、レオンは、ああ、と思った。
言葉にならないほうの、ああ、だった。
地図の上では何度も見た線だ。
中央学都アテナイアに届かなかったくせに、地理と水系の講義だけは妙に頭へ残っている。地方塔でも、河川は交易と軍事の両方を決めると教わった。地図の上の太い線は、たいてい現実でも重要な線引きとなる。
川を越える。
言葉にするだけなら簡単だった。だが、二万人規模の軍と、それにぶら下がる荷駄が、これだけの大河を徒歩で越えるとなると、話はまるで別だった。
ユーフラテス川の岸は、人と獣と荷車で詰まっていた。踏み荒らされた土は泥に変わり、車輪は半ばまで沈み、駄獣は鼻を鳴らし、御者は喉を潰す声で怒鳴っている。検量役は袋口の縄を縛り直し、車輪大工は泥の中で楔を打ち込み、書記官は濡らすまいと羊皮紙を胸に抱えて走っていた。
広い、という言葉では足りない。
向こう岸は見える。だが近くは見えない。夕方の光を鈍く返す水の帯が、地平へ横たわっている。川面は海ほど荒れていないのに、海と同じ顔をしていた。人の都合など知らない顔だ。
「舟は」
「ない」
ダフネが短く答えた。
「王側が焼いた。こっちを渡らせないため」
それで済む話ではないだろう、とレオンは思った。済むわけがない。済まないまま、皆この岸に押し込まれている。
しかも、さらに悪いことに、上では話が進んでいた。
将軍たちが兵へ、ついに行き先を明かしたのだ。ここから先はバビロン方面、つまり王へ向かう遠征だと。兵たちは当然、怒鳴った。今さら言うな。ここまで来てから言うな。死地の手前で金貨をぶら下げるな。
その代わり、着けば追加の手当が出るとも告げられた。
もっともだった。兵の怒りも、上のやり口も、どちらも気分が悪いほどもっともだった。
だが、気分の悪さで軍が止まるなら、とっくに止まっている。
ざわめきが一段高くなった。前の方で、どこかの隊が先に動いたらしい。
「入ったぞ!」
「もう川に入ってる!」
「正気か、あいつら!」
レオンも思わず顔を上げた。
数十人の兵が盾を高く掲げ、水へ踏み込んでいく。膝、腿、腰。そこで一度よろめいたが、そのまま進む。胸のあたりで水位は止まり、やがて向こう岸へ這い上がった。
歓声が上がった。
歓声というより、熱に浮かされた声だった。
「胸までだ!」
「歩けるぞ!」
「渡れる!」
土地の者らしい男たちが、岸で首を振っていた。いつもなら舟を使う場所だ、こんな渡り方は見たことがない、と騒いでいる。その言葉は兵の耳に入った途端、別の形へ変わった。
川が退いた。
神々が道を開いた。
王弟に運がある。
そういう話が好きだな、とレオンは思った。好きにならなければ、胸まである水へ自分から入ろうなどとは思えないのだろう。
だが歩兵と荷駄は違う。
人間は転んでも起き上がれる。荷車はそうはいかない。車輪が泥へ沈めば終わる。というか積んだ麦が濡れれば、もっと終わる。
最悪だ。
歩兵だけなら、強引に渡り切れるだろう。胸まで水に浸かろうが、転びそうになろうが、自分の足で踏ん張って前へ出ればいい。
だが、荷駄は違う。
人が渡れる筋と、荷車を通せる筋は別だ。胸まで水があるところへ車輪を入れたら終わる。泥へ沈むか、流れに横を向けるか、そのどちらかになる。積んだ麦や塩漬け肉が水を吸えば、この先の行軍は三日ともたない。
その時、川の中腹から怒声が飛んだ。
「おい、荷車が傾いてるぞ! さっさと退かせ! 俺たちをいつまで水の中に立たせる気だ!」
カレスだった。重装歩兵の百人隊長である彼は、青銅兜の縁から水を垂らし、水を含んだ革鎧の重さに顔をしかめていた。
「文句を言う暇があるなら車輪を押せ! 麦の袋が水に浸かってもいいのか!」
ミュロンが怒鳴り返す。彼の率いる軽装歩兵たちは、腰まで水に浸かりながら、今にも横転しそうな荷車へ肩を当てていた。
「俺たち重装歩兵の通り道だ! 荷駄は後回しにしろ!」
「馬鹿野郎、水流で道なんかあるか!」
怒号と水音、獣のいななきが混ざり合う。
レオンは帳面を握りしめたまま、その光景を見ていた。
見ている場合じゃない。
前で兵が渡っている筋は、兵のための筋だ。荷車をそこへ入れれば、沈む。沈めば列が止まる。列が止まれば、後ろから押される。押されれば獣が暴れる。暴れれば袋が落ちる。
崩れ方が、嫌になるほど見える。
レオンは履物を脱ぎ捨てた。
「おい、レオン」
ダフネが短く呼んだが、止まらなかった。
水へ足を入れた瞬間、冷たさが脛を噛んだ。膝、腿、腰へと這い上がる。見ていた時より流れが強い。胸まで来る本筋へ入れば、荷車が無事で済むはずがない。
「バウコス!」
荷車に張り付いて悪態をついていた老いた荷駄頭が振り向いた。
「坊ちゃん! ここは泥が深え! このままじゃ車輪が持ってかれるぞ!」
レオンは水の中へ両手を差し入れた。
できることは少ない。川を割ることも、流れを止めることも、水位を下げることもできない。そんな力はない。彼にできるのは、水の重さと流れの乱れから、川底の締まり具合を読むことだけだった。
泥。
石。
泥。
その先に、少し違う感触があった。
硬い。
目には見えないが、少し上流へ外れたところに、川底の浅い筋がある。細い尾根みたいに、岩盤が覗いている。本筋より水位も低い。人の列が通っている場所とは、わずかにずれていた。
こめかみがずきりと痛んだ。
「バウコス! 今の位置から上流へ三歩! そこです! 本筋を外れてください! 底が締まってる、荷車はそっちだ!」
「本当かよ、監補どの?!」
「いま僕が嘘をついても自分が困るだけですよ。だから信じて。」
バウコスが獣の手綱を強く引いた。ミュロンが即座に吠える。
「聞いたな! 荷車は上流側へ寄せろ! 歩兵の列と離せ! 下流側は綱を張れ、流されるな!」
軽装歩兵たちが水を蹴立てて動いた。荷車の鼻先が少しずつ上流へ向く。下流側では、獣の世話役が騾馬の鼻面を押さえ、御者が喉を潰す声で前へ出そうとしていた。
車輪が泥から抜ける。
ごつ、と水の底で硬いものを噛む音がした。
「よし、硬えぞ!」バウコスが吠える。「このまま押し切れ!」
だが、その荷駄用の浅い筋へ寄せる動きが、ちょうどカレスたち重装歩兵の渡る位置とぶつかった。
「おい! そっちへ寄るな!」カレスが槍の石突きで水面を叩く。「俺たちが先だと言ってるだろうが!」
レオンは冷たい水の中で一歩前へ出た。
逃げたい。ものすごく逃げたい。だが、ここで黙れば、あとで麦袋が黙らない。
「カレス百人隊長殿」
丁寧に呼ぶ。丁寧に呼ぶ時ほど、だいたい碌なことは言わない。
「兵の本筋は、あなた方が渡る筋です。こちらが見つけた筋は荷駄を通せる、別の浅い筋です。ここで麦を濡らせば、今夜から皆の食事が出せなくなります。濡れて腐りかけた麦と泥水をすする覚悟がおありなら、どうぞご自由に。なんでめしが出ないんだと聞かれたら百人隊長殿の指示だと答えさせますよ」
カレスが顔をしかめた。
レオンと、その後ろでぎしぎし進む荷車を見比べる。彼は馬鹿ではない。自分たちが何を食って進むのか、そのくらいはわかっている顔だった。
「……ちっ」
舌打ちが返ってきた。
「さっさと通せ。だが夜営地に着いたら、火は早く回せよ、帳簿役」
「順番は、効率性を考えて組みます。ご協力には感謝します」
承知しています、と言い切らなかったのは、レオンのささやかな意地だった。約束できないものは約束しない。その代わり、順番は切る。そこまではやる。
カレスが部下へ怒鳴り、重装歩兵たちがわずかに本筋へ戻る。
そこへ荷車が入る。
ミュロンが短く命じる。
バウコスが罵声で押す。
軽装歩兵が肩を貸す。
獣の世話役が騾馬の耳元で怒鳴り、御者が綱を引き、検量役が袋口の縄を締め直す。
「次!」
「その袋は高く積め、下を濡らすな!」
「綱を緩めるな! 下流へ逃がすな!」
「本筋へ寄せるな、そっちは兵だ!」
列が、少しずつ回り始めた。
一台目は危なかった。浅い筋へ乗り切る前に片輪を取られ、積んだ籠が一つ流れた。酒壺も割れた。
だが、肝心の麦袋は浅い筋へ上げ直せた。
二台目は岩盤を噛んだまま進んだ。
三台目では獣が止まったが、ダフネが前へ回って鼻先を押し、向きを戻した。
四台目では、綱を持つ軽装歩兵が膝を折りかけ、それでも離さなかった。
一つ、また一つ。
レオンは水の中で数を数え続けた。
歩兵の歓声も、獣の鼻息も、怒鳴り声も、途中から半分しか耳に入らなくなる。ただ、どの車に麦が積まれ、どの車に火口と鍋があり、どれが先に濡れると困るか、それだけを追った。頭の中で帳面をめくり続けているようなものだった。
数時間後、最後の荷車が対岸へ引き上げられた。
レオンも、ずぶ濡れのまま岸へ這い上がった。脚は鉛みたいに重く、指先は痺れ、頭の奥が鈍く痛む。微弱な感知でも、あれだけ広く張れば代償は来る。研究塔では役立たず扱いだった程度の力でも、使えばちゃんと疲れる。そこだけは、ずいぶん律儀だ。
草の上へ座り込みかけたところで、頭上から乾いた布の塊が落ちてきた。
「ほら」
ダフネだった。同じように濡れているくせに、こちらよりずっと平気そうな顔をしている。
「……ありがとう」
布で顔と髪を拭く。摩擦がひりつくように痛い。冷えた皮膚が、ようやく自分のものへ戻ってくる感じがした。
「おい、主計の坊ちゃんよ」
ミュロンが歩いてきた。隣にバウコスもいる。どちらも泥だらけだが、目だけは妙にすっきりしていた。
「お前さんの言う通りだったな」バウコスが笑う。「あそこだけ、川底が石畳みみてえに硬かった。おかげで肝心の麦は濡らさずに済んだ」
「押したのはあなた方です。僕は場所を言っただけで」
「違えねえ」
ミュロンが鼻を鳴らし、レオンの横にどかりと腰を下ろした。肩を叩くでもない。笑うでもない。ただ、川を見たまま言う。
「助かったぜ、主計殿」
皮肉ではなかった。
それがわかるくらいには、レオンももう、この男の声を聞き分けられるようになっていた。
現場からの評価だった。
重装歩兵と軽装歩兵の利害を噛み合わせ、荷を失わずに渡河をさばいた。
レオン・カルディアスという人間が、この巨大な傭兵団の中で、いないと困る側へ寄り始めている。
嬉しいかと問われれば、まるで嬉しくない。
立ち上がり、振り返る。
夕暮れの中、ユーフラテス川は巨大な壁みたいに横たわっていた。さっきまで自分がいた西岸が、もう別の土地に見える。川の中ではまだ数人が遅れた荷を拾っている。槍の目印が揺れ、その間を水が何食わぬ顔で流れていく。
こんなものを、越えてしまった。
昨日までなら、まだ言えた。
金が足りないから。
やり方が気に入らないから。
話が違うから。
いくらでも文句はあったし、そのどれも間違っていなかった。
だが、この川を越えたら、もう違う。
個人の腹の立ちようでは戻れない。
兵の機嫌では戻れない。
舟がない以上、さっきと同じ狂気をもう一度やらなければ、帰ると決めることすらできない。
帰るための道が、一つ消えた。
しかも最悪なことに、自分はその渡河を支えた側だ。役に立ってしまった。役に立つ側になってしまったことが、戻れなさを余計に重くする。
その時、対岸の方からテオドルスが駆けてきた。濡らさぬよう抱えていたはずの控え板まで、端が泥で汚れている。
「兵站監補殿! フィロン殿がお呼びです! すぐに!」
レオンは一瞬だけ目を閉じた。
嫌な予感しかしない。だが、理由はわかる。
渡河の混乱を見て、こちらで使える人間が必要になったのだ。
つまり、自分はまた、逃げるより先に数えろという側へ押し出される。
彼は濡れた布をダフネへ返し、蝋板を抱え直した。
川向こうでは、まだ荷車の軋みが続いていた。
その音が、戻る道の蓋みたいに聞こえた。




