第21話 金で前へ、恐怖で後ろへ
蝋板の内側に刻まれた受け取り欄は、夜半までにびっしり埋まった。
半隊長の名は書記が順に刻み、その横に半隊長が印を押す。
重装歩兵の顔役たちは、見せつけるように銀の指輪印を蝋板に押し込み、現場の顔役である半隊長たちは、無骨な鉄の印か、あるいは親指の腹をそのまま乱暴に押し付けた。
最後に、封泥をして、封印蝋板にしないと…これはフィロン、カレス、ミュロンで三者封印か、契約ごとはいつも面倒だ。
ま、でも、次はうまくやれって言われた件は、これで答えになってるかな…受取の列を上手く捌くんじゃなくて、そもそも、列を作らなくて済むようにしたんだから。
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王弟の陣から来た荷車は二台。どちらも車軸がきしみ、箱の角には新しい封泥が打たれていた。荷車の前後には、王弟側の護衛に加えて、クレアルコス配下の兵までついている。金は人を安心させるが、同じだけ人を狂わせる。そこは皆、よく知っていた。
「主計殿、これ、いくらぐらいあるんでしょうか」
テオドルスが囁いた。声が細い。怯えている時の声だ。
「さて...まず先に秤です、数字を確定させましょう、足りなかったらすぐ連絡しないといけません」
レオンは箱の蓋に触れた。湿気はない。封泥も割られた跡はなかった。中身が金でも、人の手を渡れば目減りする。そこに悪意がなくても減る。こぼれ、混じり、消え、そして誰も責任を取りたがらない。人よりましだが、金貨は数字ほど素直ではない。
隣でフィロンが言った。
「結論から言う。今夜の分配で、明朝に列を動かす。理由は二つ。第一に、これ以上止まれば兵糧も飼葉ももたん。第二に、王弟は月給を一ダレイコス半へ増すと返答した。今夜はその差額と前渡しだ。以上だ」
相変わらず身も蓋もない。だが、こういう時に飾りを削ぐのは、この男の取り柄でもあった。
箱の封が切られ、布に包まれた金貨袋が現れると、周りの空気が一段だけ前に傾いた。歓声はない。代わりに、喉の奥で鳴るような低いざわめきが広がる。重装歩兵の列から誰かが舌を鳴らし、軽装歩兵の側では、笑うでもなく口元を歪める者がいた。
ダフネはレオンの半歩後ろに立っている。いつもの位置だが、いつもより肩が固い。まずい時ほど口数が減る。つまり、いまはかなりまずい。対応をしくじればおおさわぎなってしまう状況ということだ。
「坊ちゃん」
ミュロンが近づいてきた。怒鳴らない。嫌な兆しだ。
「このまま一人ずつ渡しゃ、夜が明ける前に殴り合いだ」
「わかっています」
「わかってる顔じゃねえ」
言いながらも、ミュロンの目はもう周囲を見ていた。誰が列を崩しそうか、どの半隊が先に押し寄せるか、どの顔が二度並ぶか。現場の男は帳面を読まないが、兵の腹の中は読む。
重装歩兵側の顔役であるカレスが、さっそく割り込んできた。
「主計殿、先にうちへ回せ。前に立つのはこっちだ。荷駄護衛の連中と同じ順は聞けん」
「聞けよ」
ミュロンが低く言った。
「聞けるか。盾を持つ奴が先だ」
「補給が無くなったら、てめえのご自慢の盾も鎧もただの重荷にしかならんぞ?
飯がなくて立ち往生してる兵隊なんぞ、しやれにもならねぇ」
空気が尖る。ここでどちらかに肩入れすれば、今夜は終わる。しかも最悪の形で。
レオンは蝋板を抱え直した。
「個人払いはしません」
カレスが目を剥いた。
「何だと?」
「半隊ごとです。半隊長が受け取り、全員の前で袋を開ける。足りないならその場で異議を出す。そして――」
レオンは二枚一組になった木枠の蝋板を掲げて見せた。
「受領した半隊長には内側に名を刻んでもらい、板を閉じて革紐をかけます。その結び目の封泥に、三つの印を打ちます」
「三つだと?」
「はい。支払いの責任者であるフィロン兵站監。そして立会人として、重装歩兵の代表であるカレス百人隊長、軽装歩兵と荷駄の代表であるミュロン半隊長の印です」
空気がピタリと止まった。
ぼくがわざわざ役職名で呼んだ意味が分かったのかな?
ちょっと気持ちよかったのは内緒だ。
さて、このまま続けよう。
「軍の全陣営が立ち会った記録です。後から『主計に誤魔化された』『あっちの兵科ばかり多くもらった』という泣き言は受けません」
カレスの顔が歪んだ。自分たちの顔を立てろと要求した手前、「立ち会えない」とは言えない。だが、これでは主計の配る金の保証人をやらされるのと同じだ。
「……小賢しい真似を。封の粘土なんぞ、後からどうとでもなるだろうが」
「なりませんよ、カレス殿のお家でも契約は同じやり方でしょう?それとも、こういう受け渡しは、いつも家の書記にパピルスで切らせるのですかね?」
当てこすりは成功したみたいで、カレスは黙り込んだ。
あれ……でも、おもったよりカレスって、いいとこの出なのか?うちと同じようなところと思ってたけど……
レオンはとりあえず、やって見せることにした。
手元の粘土を一つ摘み、革紐の結び目に押し当てて指先を添えた。
ほんの微かな熱と乾燥の魔法。本来なら薬草や火口の湿気を飛ばす程度の、取るに足らない力だ。だが、粘土は一瞬で白く変色し、石のように硬く固まった。
「この封泥を割らずに中身を改ざんできるなら、やってみてください。ごまかせるほど暇なら、あなた方は明日もここで止まっていてください」
疲労のせいか、つい棘が出た。よくない癖だが、たまに役に立つ。
カレスが忌々しげに固まった封泥を睨む横で、いつの間にか現れていたフィロンが口を開いた。
「その通りだ。三者の印で封じた蝋板のみを正当な支払い記録とする。異議がある者は、まず今夜の代案を出せ。出せないなら従え」
結論、理由、責任。いつもの並べ方だった。支払う側の長がルールを固定した以上、もはや誰も覆せない。
カレスは舌打ちしたが、引いた。完全に納得したわけではないが、金が目の前にある時の兵は、完全な勝ちよりも先に自分の取り分を確保したがる。
レオンはすぐに準備を命じた。テオドルスには大量の二枚板と革紐を用意させ、バウコスには荷車の板をひっくり返して仮の机を作らせた。ミュロンには二十人だけ借りて、列の左右に立たせた。
ダフネは何も言わず、最初に机へ突っ込んできそうな男の正面に立った。短槍の石突が地面をひとつ打つ。たったそれだけで、前にいた三人が半歩下がる。
優しいな、とレオンは思った。
いや違う。死なれると面倒だから押さえているだけだ。だが、こういう時に、言葉より先に体を出してくれる人間がいるのは、かなり救いだった。
机の上では、立会人たちの印が次々と硬い封泥に刻まれていった。
フィロンは事務的に。
カレスは、自身の家柄を示す細工の入った銀の指輪を、見せつけるかのように深く、念入りに押し付けた。
一方のミュロンは、すり減った青銅の指輪を乱暴に叩きつける。縁の欠けたその印影は、彼が生き抜いてきた戦場の数を示しているようだった。
まあ、いろいろあった。
最初の半隊では、袋の口をほどく手が震えていた。数え終えるまで誰も喋らず、最後に一人が「合ってる」と言うと、ようやく息が漏れる。その次の半隊では、数え役が途中で一枚落とし、全員が一斉に地べたを見る羽目になった。三つ目では、受領済みの印を削って二度並ぼうとした若い兵が、ミュロンに首根っこを掴まれて引きずり出された。
「テメェの隊は一回で足りねえのか」
「ち、違う、俺は」
「帳簿役」
ミュロンがその男を差し出した。処分を決めろ、という顔だった。
こんな権限、欲しくもない。だが、ここで曖昧にすれば、二人目、三人目が出る。
「半隊ぐるみですか?だったらこの後払う先払い分の今夜の受け取りは最後です。次にやったら半隊ごとゼロにします」
「主計殿、それは――」
半隊長が口を挟みかけたが、レオンは遮った。
「あなたの隊の管理責任です。異議があるなら、あなたが立て替えて、補ってください」
半隊長は黙った。
カレスも何も言わなかった。
残念、何か言ってきたらカレスに払わせようと思ったのに…
とまあ、こんな感じ。
半隊長単位の受け渡しにして本当によかったよ..というか自分の部隊を把握していない半隊長もいるのか…いや、違うな、二重受け取りで、あとで山分けとかやるつもりか…なんで、ミュロンは気づくのかも謎だけど。
いやぁ、これ、個人に配賦してたらどのくらいかかってたんだろう…ぞっとするな。
給料は無事に払い終わったんだけど、なんだかひどく複雑で、嫌な気分になった。
あ~、ぼくは組織を正しく回したいだけなのにな。なんだか、人を前へ歩かせる仕組みの歯車に、自分の手で油を差している。しかも、その先がどこか、もうだいたいわかっている。
今回の騒動は、遠征の目的を問われていたはずなのに、キュロスからの返答は、理屈ではなかった。
「王討ちではない」と言い切ることもしなかった。ただ、「ユーフラテス川のほとりにアブロコマスという敵がいる、そこまでは進みたい」、と言っただけだ。そして、その先の話は「そこでまた協議する」と、美しく美麗なペルシア語で濁した。らしい。ペルシア語が堪能な人間によると。
要するに、「そこまでは来い」、である。
さらに、その言葉とあわせて金を置いた。月給一ダレイコスを一ダレイコス半へ。兵たちが聞きたかったのは、たぶん最初からそちらだった。
レオンは封印を終わった後、残った金貨や物資の確認を終えて、サインをした。そして、手首を振った。さすがにあちこちが悲鳴をあげていた。
「終わった?」
ダフネが言った。
「一応は」
「一応で済んだなら上出来」
「最悪の上出来ですね」
「そう」
彼女はそれだけ言って、水袋を差し出した。長い慰めはない。ありがたい。
荷車の周りでは、もう金袋を腰に結び直す音がしていた。紐を締め、靴紐を替え、油を買い、干し肉を抱える。さっきまで王弟を罵っていた男が、袋の重みを確かめて黙っている。怒りが消えたわけではない。
金貨は理屈より早く心にひびく。多分、人間の本能を刺激するのだろう。食べれないけど。
翌朝、軍は動いた。
空気を震わせる角笛の音とともに。
タルソスの石壁を背にした時、誰も勝ち誇った顔はしていなかった。だが、昨日まで地面に根を張ったように動かなかった足が、今日は動く。袋の重みが歩幅を揃え、後ろに積んだ不安が列を押す。
キュドノス川を離れ、街道へ出る。春の終わりの光は明るいのに、宿営地の機嫌は薄曇りのままだった。行軍列のあちこちで、新しく買った替え紐がまだ硬く、革靴が鳴った。酒袋の匂いもする。給金が入った直後の町は必ず値が上がる、と塔で習ったことがある。教わるまでもない。売る側だって、生きるために計算している。
イッソスへ近づくころには、左手に海が見えた。
青かった。腹立たしいほど穏やかに。
兵の何人かは露骨に足を緩め、沖の船影を見た。王弟の軍船も、ラケダイモンの船もいる。だが、あれは帰るための船ではない。押し通すための船だ。船が見えたからといって、帰路が見えたわけではない。
「船があるのに、帰る話にならねえのは、ほんと性格が悪いよな、この遠征」
ミュロンが吐き捨てた。
「そうですね」
「坊ちゃん、お前、最近そういう時だけ返事が早えな」
「良くない理解が増えただけです」
「それを世間じゃ覚えがいいって言うんだよ」
覚えがよくて何になる。嫌なものほど早くわかるのは、あまり美徳ではない。
海辺の最後の町を離れると、道はまた軍のものになった。山門は狭く、列は自然に伸びる。前の荷車が止まれば後ろまで詰まり、駄獣が鼻を鳴らし、車輪大工が木槌を持って走る。ここで引き返す絵を、レオンは頭の中で一度だけ描いてみた。
無理だった。
狭い道、後ろから押す列、前に残る荷車、切り捨てられる荷、待ってくれない兵。そこへ、まだ講和もしていないキリキア側が戻ってくる。海から船で抜ける手も、全軍にはない。戻る道は道の形をしているだけで、軍の帰り道ではなかった。
前へ進む理由は、金だ。
後ろへ下がれない理由は、恐怖だ。
その二つが噛み合った時だけ、巨大な集団は動く。
気分の悪い理解だったが、理解しない方がもっと悪い。帳面の上でだけ生きていられる時期は、もう終わっている。
何日か進むうちに、兵たちはまた新しい顔つきを覚えた。袋の中身を気にしながら歩く顔。前払いの分をどこまで使うか考える顔。次の支払いが本当にあるか、王弟の機嫌、将軍の腹、街道の長さから測ろうとする顔。
そして、ごく少数だが、道の外へ消える顔もあった。
海辺の商船が停泊した夜に、いなくなった者がいる。金袋だけ持って、遠征ごと捨てたのだろう。賢いのか、臆病なのかはわからない。ただ、全員には真似できない。軍は一人で帰れるほど軽くない。
レオンたちは、そのなかでもっとも重たいものを預かっている。
荷車も、帳面も、負傷兵も、鍋も、砥石も、予備の革紐も、乾かし切れなかった麦袋も抱えたまま進む。三千人近い人と獣が一つの塊で動くのだ。自由市民だろうが傭兵だろうが、列の中にいる限り、急には一人になれない。
だから、歩く。
そうやって街道を食い潰しながら進み続け、ある日の午後、前列から伝令が駆けてきた。
「前が止まった! 水だ、大きいぞ!」
水なら、たいして珍しくもない。
そう思ってから、伝令の顔を見て、レオンはすぐに考えを改めた。あれは水場を見た顔ではない。壁に行き当たった顔だ。
列の脇を抜け、少し高い場所まで上がる。ダフネが無言でついてくる。ミュロンも来た。バウコスは下で獣を押さえている。
風が変わった。乾いた土の匂いの中へ、冷たい湿り気が混じる。
次の瞬間、視界が開けた。
レオンは立ち止まった。
広かった。
川、という言葉で済ませるには広すぎた。向こう岸は見える。だが、近いとは思えない。夕方の光を鈍く返しながら、水の帯が地平へ横たわっている。川面は海ほど荒れていないのに、海と同じように、人の都合など知らない顔をしていた。
「……ユーフラテス川だ」
誰かが呟いた。
その声が、列のあちこちへ小さく波打っていく。
兵たちは黙った。昨日までなら、冗談か悪態の一つも飛んだはずだった。だが今はない。金袋の重さを知る手で、皆、自分の槍や帯を確かめている。
前へ進むために受け取った金が、急に軽く見えた。
レオンは自分の蝋板を見下ろした。昨夜埋めた内容の下に、まだ何も書かれていない空きがある。
そこへ次に何を書くことになるのか、彼にはもう、だいたいわかっていた。




