第20話 将軍の言い分、兵の本音
止まった軍は、うるさいようでいて、あまり音の種類は豊富ではない。
タルソスの宿営地がまさにそうだった。怒鳴り声や喧嘩、酒瓶の割れる音は絶えない。だが、前へ出る列の軋みがない。荷車の車輪は朝から同じ場所で泥を乾かし、駄獣は荷を背負わぬまま飼葉だけを食んでいる。
言わば、下町の喧騒と変わらない音の種類だ。
レオンは荷駄幕の前で環でつないだ蝋板を開き、指先で数字を追った。今日じゅうに動かなければ、大麦はあと数日で尽きる。もう、この町でこれ以上調達するのも難しいだろう。干し肉もどこまで薄く切れるか。タルソスを流れるキュドノス川の水は豊かだが、人が粉を食い、獣が飼葉を食う以上、水だけでは二万の口は埋まらない。
昨日、クレアルコスが自分の兵を無理に動かそうとして、石を浴びたという話は、すでに荷駄列の端まで届いていた。自分の兵から将軍へ石が飛ぶ。書物なら秩序崩壊の前触れと名付けられる事態だが、現実はもっと雑で、ただ兵たちが少しずつ声を潜めるだけだった。
「レオン」
振り向くと、フィロンが立っていた。相変わらず、暑さの中でも顔色ひとつ変えない。
「将軍たちが兵を集める。行って見てこい」
「僕が、ですか」
「お前に演説の良し悪しを聞きたいわけではない」
フィロンはそれだけ言って、レオンの蝋板をとりあげた。
「どの言葉で兵がざわついたかを見ろ。兵が動く理由を見極めて持ち帰れ」
結論、理由、責任。いつもの順番だ。情の入る隙がない。
レオンは短く息を吐き、蝋板を受け取った。面倒な仕事だが、だからこそ他の誰もやらないし、そういう役目ばかりが回ってくる。最悪だ、と言いかけてやめた。その手の言葉は便利すぎて、思考を怠けさせる。
「行こう、テオドルス。控えを持ってきてもらってもいいかな」
「は、はい」
ダフネは何も言わず、槍を持ち直して後ろについた。
集会は、半ば荒らされた市場の前で開かれた。タルソスは大きな街で、石の建物も王宮の壁も立派だったが、軍が二十日も腹を空かせたまま居座れば、そんなものはすぐに剥げる。戸口は壊され、倉は空になり、残ったのは帰る家を失った犬みたいな兵ばかりだった。
重装歩兵は前に厚く固まり、軽装歩兵はその外側に散るように立っている。重い盾を持つ者は場所を食い、身軽な者は止まれば仕事がなくなる。兵科の違う者同士が腹を空かせて密集すれば、仲が悪くならない方が不思議だ。
「主計殿」
カレスが腕を組んだまま、顎だけで挨拶した。鎧の胸板を誇るような立ち方だ。
「今日は紙に何て書く。俺らが臆病だとでもか」
「書きませんよ。まだ何も決まっていませんから」
「決まってるさ。俺たちは山賊追いの値で雇われた。王殺しの対価としちゃ釣り合わねえ」
口調からも彼らの要求は明確だ。
「分かってるのか?しくじったら全員殺されるか奴隷にされるか、碌な未来はねぇぞ」
その横から、ミュロンが鼻を鳴らす。
「値の話で済むうちはましだ。帰り道の話をしろ。後ろの峠を閉められりゃ、金貨なんざ干し肉にもならねえ」
現場を預かる側の危機感もまた、嫌になるほど筋が通っている。
レオンは蝋板に、重装は給金、軽装は帰路、と刻んだ。自分で書いておいて、人の命が勘定の項目に変換されることに微かな寒気を覚えた。
ざわめきが少し引いた。将軍たちが出てきたのだ。
前に立ったクレアルコスには、昨日の騒ぎの跡がまだ残っていた。肩口の外套は裂け、こめかみに浅い傷が見える。石を投げられ、みっともなくても前に立たねばならないのが将軍という生き物なのだろう。
彼が話し始めると、群れは不思議なほど静まり返った。
追放された自分を拾い、金を与えてくれたキュロスへの恩義。その金は自身の贅沢ではなく、兵のために使ったこと。だから自分は兵を捨てないし、進まないのなら運命を共にする。
傷だらけの男が語るまっすぐな言葉に、レオンは少し気恥ずかしさを覚えた。
だが、そんな純情な人間は少数派だった。人はもっと即物的で実際的だった。
塔で読んだ軍記なら、ここで男たちは恩義や名誉を糧にして立ち上がるはずだ。実際、重装歩兵の列の端で視線を伏せる者もおり、その声は確かに胸を打つものがあったし、心に響いたものもいたようだ。
だが、それだけだった。
静寂を破ったのは、喝采ではなく別の兵の怒鳴り声だ。
「なら将軍を選び直せ! 帰るんだよ!」
「船を出させろ!」「案内をつけさせろ!」「峠を先に押さえろ!」
飛び交うのは、船、案内、峠といった現実的で夢のない単語ばかりだ。
コイツら頭悪いなと思ったが、ぼくもその一員だ。そう、だって、アタマではそれは状況を悪化させるだけだ、と分かっていても、ぐっと心を惹かれるのだ、ご立美な演説よりよほど。
前に出た年嵩の百人隊長が、怒鳴り返すでもなく通る声で言った。
「船を出させる? 誰にだ。キュロスにか。向こうがその気なら海の上で沈められて終わりだ。案内をつけさせる? どこへ連れて行かれると思っている」
群れがわずかに黙る。
「逃げるなら、相手の好意に首を差し出すな。聞くべきは一つだ。俺たちを何に使うつもりか、だ」
そのあとをプロクセノスが引き取った。声を張り上げるわけではないが、言葉は、よく通った。
「これまでの討伐と同程度の遠征なら従う兵もいるでしょう。だが、より大きな危険を負わせるなら、それに見合う説明が要る。できないなら、安全に帰れる土地まで退く許しが要る。どちらもないなら、ただ従えとは言えません」
その一息だけで、群れの空気が変わった。
恩義や将軍の面子ではなく、危険に見合う説明と安全に帰れる土地。兵がはっきりと頷いたのはその二つだった。
テオドルスが不安そうに見上げてくる。
「主計殿、いまのは……」
「書いておいて。『説明』と『帰路』。それが兵の動く条件だ」
口にして、喉の奥がひどく乾いた。
彼らは祖国の城壁を守る市民軍ではなく、金と約束で結びついたよそ者の大所帯だ。綺麗事だけでは、人も獣も荷車も一歩も進まない。レオン自身もその一人なのに、物語のように、どこかでもっと立派な理由で軍が動くと思っていた自分に気づかされる。
「立派な話だった」
気づけば、そんなことを口にしていた。
「立派ね」
ダフネが横で相槌を打つ。
「……でも」
「でも、兵が聞いたのは最後だけ」
彼女は将軍たちの方を見ず、群れの足元を見ていた。捨てられた紐や蹴飛ばされた皮袋、今にも走り出しそうな者と、まだ動く気のない者の顔。
「ほんとは説明なんかいらない。みんな勘でわかってる。かなり分の悪い賭けに付き合わされてる。
だから、どうやったら賭けから降りて帰れるか?だよ」
そのダフネにしては珍しく長い一言には反論の余地がない。
集会は、使者を立ててキュロスを問いただすことでまとまりかけた。前へ進むか引き返すかではなく、条件を突きつけて返事を待つ。英雄譚としては最低だが、傭兵が生き残るための算段としてはおそらく正しい…んだと思う。
「テオドルス、幕へ戻ろう。受け渡し用の木板を二束」
「二束、ですか」
「一つは受け取り用。もう一つは明朝出立用」
「まだ決まってませんよね?」
「だから、今やるんだよ。決まってからでは遅いですからね」
そういうことだけは、嫌というほど覚えていた。
荷駄幕へ戻ると、案の定、半隊長や従者たちが勝手なことを言い始めていた。帰る準備をする者、どうせ進むと高を括る者、今夜のうちに酒を替え紐に換えようとする者。
「駄目です」
レオンは声を張らずに制した。
「今夜は売り払いも荷崩しも禁止。夕餉の分だけ出します。明朝、どちらに転んでも動ける形を保ってください」
「でも主計殿、帰るなら重い荷は――」
「帰るにしても進むにしても、紐は要ります。粉袋を解かないで。水袋は持ち主の場所へ戻す。バウコス、脚のいい駄獣だけ前列に寄せて。八頭。お願いしても?」
「八頭ぉ? 中途半端だな」
「伝令荷、負傷兵用の水、受け取り箱、帳面。先に動かす分です」
「……けっ」
バウコスは悪態をつきながらも、すでに動き始めていた。
ぼくが進軍すると見てることが伝わったらしい。まぁ、ぼくも内心で毒づきたくはある。
ミュロンも、文句の代わりに半隊の若い連中へ顎をしゃくる。
「聞いたな。勝手に荷をほどいたやつは、明日てめえで担げ」
「おい、でも酒が――」
「置いてかれて死にてぇなら飲め。明日も生きて飲みてえなら動け」
荷駄幕の前の騒ぎは、どうにか収まった。大した手柄ではなく、ただ辻褄が守られただけだが、今のレオンにはそれで十分だった。何故かわからないけどそれが少し腹立たしくもあった。
夕日がタルソスの石壁を赤く染めるころ、使者が選ばれたという報せが届いた。クレアルコスを立て、将軍たちがキュロスに問いを持っていく。
宿営地に歓声はない。兵たちはただ、自分の皮袋を確かめ、槍の穂先を見て、隣の男の顔を窺っている。名誉のために泣く者はいない。怒り、怯え、あるいは計算を巡らせている。
レオンもまた、その一人だった。
帳面の上で人はいつでも整然として見えるが、今日、はっきりとわかったことがある。軍を繋いでいるのは大義だけではない。帰れる見込みと、払われる金と、明日も死なずに済むかもしれないという、ささやかな希望だ。そして、そのみみっちい理由こそが、何よりも強い。
夜に入る前、テオドルスが幕の外から小さく叫んだ。
「主計殿!」
「何です」
「王弟の陣から、箱を積んだ荷車が出たって――」
レオンは手を止めた。
蝋板の上で、まだ何も書かれていない受け取り欄が、薄い灯りを鈍く返した。




