第25話 大きな戦の匂い
敵が近い、という報せは、昼を過ぎるころには確定事項となった。
なんというか、ほんの少しだけにおいが変ったのだ。
風向きが変わったわけではない。
それでも宿営地の空気は、もう朝とは別物だった。火床の煙、馬の汗、濡れた皮袋の獣臭に混じって、金属をこすった匂いが増える。槍の穂先を布で拭く音。盾の革紐を締め直す音。弦を試す短い音。
人間が「明日は歩くだけでは済まないかもしれない」と思い始めると、音まで変わるのだとレオンは知った。
しかも、それは前線だけの変化ではなかった。従者まで声を潜める。荷駄番まで、冗談を言う間の取り方がかわり、或いは無口になる。火の番は、煮え具合より先に火が絶えないかどうかを見ている。こういう時、人は自分の持ち場での行いが少し変わってくる。
「顔、また悪い」
ダフネが言った。
「今日は良くなる理由がないなぁ」
「昨日も似たようなこと言ってた」
「昨日は“敵が来るかもしれない”だった。今日は“来たら困る準備をしないといけない”だからねぇ」
笑い話にはならなかった。
実際、必要なのは、どれだけ死ぬか、怪我人はどのくらいか、その結果、水や食料はどの程度要らなくなるかが大事だった。
何より、川を渡ってから、補給らしい補給は無く、煮炊きをするのにも気を使う有様なのだ。
減る分には歓迎なのだが、それはつまり、もう食べる必要がなくなる存在になるということで、喜ぶべきことではない。
あと、荷駄側にだって、損耗が出るに違いない。
略奪されたり焼かれたり……
ほんとにゾッとしない話だ。とレオンは思った。
昼を過ぎ、伝令は、午前よりさらに多くなっていた。ギリシア語の怒鳴りが飛び、その少しあとでペルシア語が流れ、時々そこへ帝国アラム語が挟まる。全部は拾えない。だが、命令の数が増える時は、だいたい余裕がない時だ。
「主計代理殿!」
テオドロスが、今度は走る余裕もなく早足で来た。
「兵站監殿から。鍋の数を減らせと」
「減らす?」
「火床は小さく、煙は低く。あと、昼の配給は乾いたまま食える分を先に回せ、と」
レオンは顔を上げた。
「……なるほど……」
普通の行軍なら、鍋は多いほうがいい。腹を温めたほうが歩ける。だが戦の気配が近づくと、話は別になるんだろう。
煙は目立つ。火床は、少し掘り下げて作るため、行進の際の乱れの種になる。さらに、いつ動けと言われるかわからない時に、煮えかけの豆を抱えた列は邪魔だ…だいたい最近の兵たちは満足に食べていない。豆にこだわって取り残されるものも出るかもしれない。
「乾いた兵糧、どのくらい残ってる」
「袋三つ半。薄焼きの保存餅も少し」
「先にそれを回しましょう。鍋は二つだけ、火は細く」
「夕方の分が足りません」
「足りなくなるのを承知で、やってください」
自分で言っていて、嫌な言い方だと思った。だが、いま必要なのは皆を満腹にすることではない。とりあえず動ければいい。腹八分ならぬ腹三分か四分というところか。
ミュロンがちょうど来て、その最後だけ聞いたらしい。
「主計代理殿、兵は空気じゃ腹が膨れねえんで、偉い学者先生は知らないかもしれませんが」
今日はイヤミな気分らしい。
物腰低胆振をしている。
「知ってます。だから乾いた餅を先に回します」
「鍋を減らすのは?」
「煙です」
「敵がそこまで近いか?んなこたぁないと思うがな」
レオンは少しだけ間を置いた。
「近いから減らすというより、近くても困らない形へ変えるんです」
ミュロンは鼻を鳴らした。
「帳簿役らしい答えだな」
「褒め言葉として」
「今日は半分だけ褒めてる」
「というか兵站監の指示なんですけどね」
最後にバラすと、彼は感心して損した、という雰囲気でこう言った。
「次は自発的に思いつけるようになると良いな、兵站監代理殿よ」
それでも彼は、すぐに他の半隊長たちへ怒鳴り始めた。乾いた兵糧を先。鍋は後。火床は広げるな。水は列ごと。結局、数字と理屈が通るには、ああいう物理的に強い「喉」が要る。
午後、敵の姿そのものはまだ見えなかった。見えないのに、見えていないことがかえって悪かった。遠くの地平には薄い砂埃の筋が何度か立ち、それが人の列なのか、風なのか、駄獣の移動なのか、そのたびに皆が顔を上げる。はっきり見えないからこそ、人は勝手に悪いほうへ考える。
フィロンが来たのは、その時だった。今日の兵站監は、昨日までよりさらに言葉なが短い。眠っていない顔をしているのに、動きだけは速い。
「水を荷駄列を組み替えろ、バウコスに引き回させろ」
「どの前提で」
「歩くかもしれん。止まるかもしれん。負傷者が出るかもしれん」
レオンは思わず顔をしかめた。
「全部じゃないですか」
「全部だ。だからお前に印を持たせてる。お前の責任でやれ」
その言い方は本当にずるい。期待していない顔をしながら、いちばん面倒な勘定だけを投げてくる。
「洗い水も見ろ。飲み水と混ぜるな。布も分けろ。血が出たあとの火床はいつもの鍋と別だ」
そこで初めて、レオンははっきりした形でその言葉を飲み込んだ。
負傷兵。
もちろん頭ではわかっていた。敵が近いなら、死人か傷ついた人間が出る。だが主計代理の手元へ「洗い水を分けろ」と降りてきた瞬間、それは急に現実になった。
戦の怖さは、まだ矢が飛んでいないうちから補給の意味を変える。水の分け方が変わり、鍋の意味が変わり、布の置き場が変わる。戦は、刃より先にそういうところから始まる。
「どれだけを」
とレオンは聞いた。
「それを考えるのが主計代理だ」
フィロンはそれだけ言って、別の列へ向かった。
腹が立つ。だが、その通りでもある。
レオンは板を見下ろした。飲み水。火床用。負傷者の洗い。それから、動けなくなった者に回す薄い粥の分。全部を一緒くたにしていた今までとは違う。これからは、「歩く人間のための水」と「歩けなくなった人間のための水」を分けて考えなければならない。
「……最悪だ」
思わず言うと、ダフネが横で短く返した。
「やっとそこ?」
「やっと、じゃない。そこまで考えたくなかっただけだ」
「でも考えるんでしょ」
「考えないと困る」
その時、レオンはようやく本当の意味で“大きな戦の匂い”を嗅いだ気がした。遠くの砂埃ではない。自分の手元に並ぶ桶と布と鍋の意味が変わってしまう、その変わり方そのものの匂いだった。




