第19話 進みたくない傭兵たち
タルソスの朝は、町を横切る冷たい川の匂いから始まる。
水だけなら豊かだった。だが町そのものは、もう半分死んでいた。キリキア人は丘の砦へ逃げ、残っているのは焼け残った倉、剥がされた扉板、王宮から運び出された調度の残骸、それに薄い葡萄酒を倍の値で売る宿屋の親父どもくらいだ。
本来なら、こういう町は通過点でしかない。
荷駄を締め直し、皮袋を満たし、日が高くなる前に出発する。
しかしながら、兵とは暴力そのものだ。
日ごろは市民であったりするのだが、そうはいっても傭兵稼業をしていたり戦士をなりわいとする者たちだ、闘争本能や欲望に一度火がつくと乱暴狼藉は広がっていく。
レオンは、その現実を身にしみて理解した。
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事の始まりはこうだった。
先行する一部の部隊が山岳地帯を行軍中、キリキア人の一団に襲われ100名が戦死した。
その一報が伝わるやいなや、王弟の率いる軍全体に緊張が走った。
その時、帳簿の確認をしていたレオンがふと町の方を見ると、黒煙が上がっていた。
領主の宮殿の方だ。
あれよあれよという間に、街のあちこちから煙が上がりだした。
あれから、日が経つほど宿営地の空気は悪くなっていた。
町は広い。川もある。実入りのよさそうな家も、領主の宮殿もある。だから休まるはずだった。少なくとも、行軍の最中よりは。
なのに、休めば休むほど、人も獣も荒れていく。
重装歩兵たちは盾を立てかけたまま、腰を下ろしている。靴紐を結び直す手つきに急ぐ様子はない。油壺を開け、槍の石突きを磨き、あまつさえ朝から酒にまで手を伸ばす者もいる。出立する気配は皆無だ。
嫌な予感がする。レオンは無意識に眉間を揉んだ。
「主計殿」
テオドルスが控え板を抱えて駆けてきた。まだ若い顔に、寝不足と怯えが色濃く浮かんでいる。
「水袋の控えが合いません。朝だけで二十袋、勝手に持ち出されています。空袋で返ってきていないものもあります」
「どこの列です」
「重装歩兵側が多いです。あと、河畔へ降りる道に荷車が詰まって――」
その横から、隻眼のシラクサが吐き捨てた。
「市場も終わりだ、坊ちゃん。残ってる宿屋の連中、今朝また値を上げやがった。動く軍には売るが、居座る軍には出し渋る。あいつらも鼻が利く」
レオンは溜息をついた。角笛が鳴らず、水袋が消え、物価が上がる。昨日の推測が、兵たちの腹に落ちたのだろう。ピシディア人討伐の遠征ではない。大王を相手にする話だと気づいた兵が、素直に歩くわけがない。
そして、略奪に参加した傭兵の中には、懐が重くなったかわりに、規律が軽くなってしまったものもいるだろう。
総じていえば、士気の落ちた集団だった。
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あれからすでに一週間がたった。
「残量は」
「粉袋が三十七、丸麦が二十二、塩肉は――」
「いや、いま要るのは総量じゃない」
レオンは河畔へ続く道を見た。もう人が溜まり始めている。水を汲みに行く者、酒を買いに行く者、暇だから見に来る者。暇な兵ほど列を乱し、他人の邪魔をする。進む軍より、止まった軍のほうがよほど始末が悪い。
「主計殿」
そう呼んだ声には、うわべだけの礼儀が張り付いていた。重装歩兵の顔役、カレスだ。胸甲を着けたまま、兜は脇に抱え、どう見ても今日は戦う気も歩く気もない顔をしている。後ろには同じような男が五、六人。
「今日は動かんらしいな。なら、先に干し肉と大麦を回せ。こっちは朝から待ってる」
「規定の順で出しています」
「規定の順で出してたら、昼になる」
「昼になる前に出るはずだったんです」
言い返してから、レオンは少しだけ後悔した。こういう時の正論は、火に油を注ぐだけだ。案の定、カレスの口元が歪んだ。
「そうかよ。じゃあ聞くが、主計殿。いつから俺たちは、山賊退治じゃなく大王討ちのために雇われた?」
後ろの男たちが低く笑う。
レオンは答える立場にない。だが黙ったのを肯定と受け取ったのだろう。カレスは一歩近づいた。
「こっちは命を売ってる。だが、売った覚えのない命まで持っていかれる筋合いはねえ。『五分五分』か『一か八か』は、えらい違いだぞ。今日は歩かん。明日もだ。だから出せ」
カレスの隊は略奪に参加しなかったのだろうか?それとも単に上りが大してなかっただけなのだろうか?
その時、レオンの横に影が差した。ダフネだった。短槍を肩に引っかけたまま、半歩だけ前へ出る。
「下がって」
短い一言だった。誰に向けたとも取れる声だったが、カレスの後ろの若い兵が一人、気圧されたように足を引いた。カレスはダフネをちらりと見たが、目の前の相手が自分を刺すかどうかを推し量るように沈黙した。
そこへ、別の荒い声が割り込んだ。
「メノンの連中が略奪やったせいで、ただでさえ軍の中が荒れてんだ、こんなことでつっかかってんじゃねぇ。そんでもって道をふさぐな」
ミュロンだった。荷駄側から来たせいで、脛まで埃だらけだ。後ろにはバウコスもいる。牛の手綱を片手で引きながら、ひどく嫌そうな顔をしていた。
「川へ降りる道が通れねぇせいで獣に水を飲ませられねえ。座るなら端で座れ、花形ども」
カレスが鼻で笑う。
「軽装歩兵は忙しそうで結構だな」
「てめえらが暇だからな」
ミュロンは即座に返した。「止まるなら見張りが増える。水汲みも増える。盗みも増える。荷駄の番も増える。てめえらが盾に座ってる間、走るのはこっちだ」
「それが仕事だろうが」
「違えよ。歩かせるのも仕事のうちだ」
重装歩兵の座り込みは、軽装歩兵や荷駄側にとっては仕事が倍になる合図でしかない。
バウコスが牛の鼻面を押さえながら言った。
「主計殿、理屈ならあとでやれ。今は車を下ろす。日が上がり切る前に飲ませねえと、午後から言うことを聞かなくなる」
「分かっています」
「分かってねえ連中が道を塞いでんだろうが」
その時、外れの方から怒鳴り声が弾けた。続いて、何か硬いものが木に当たる音。乾いた、嫌な音だ。石だった。
誰かが叫ぶ。
「荷車を出すな!」
「勝手に進める気か!」
さらに石が飛び、牛の悲鳴に近い鳴き声と車輪の軋みが土煙に混じる。敵襲ではない。味方が味方の荷駄を止める音だ。軍が自分たちの車列に噛みつき始めている。
「テオドルス!」
声が少し裏返ったが、気にしている余裕はない。
「はい!」
「控え板を割って、半隊ごとに印を作りましよう。水汲みは印のある者だけ通す。空荷車は外へ出すな、皮袋持ちだけ下ろせ。バウコス、獣は三群に分けて、飲ませる順を替えてください。荷を付けたままだと降りられない」
「最初からそう言え、坊ちゃん」
バウコスは悪態をつきながらも、すぐに動いた。
「ミュロン、川道を空けたい。座り込んでる連中をどかせますか」
「こういうときゃどかすんじゃねえ。踏ませねえよう線をひいて、入らねぇように言い聞かせんだ」
ミュロンはそう言うと、すぐ三人の軽装歩兵を指差した。「お前ら、槍横にしてここからここまで。座ってる馬鹿は跨がせろ、皮袋だけでも通せ」
レオンが振り向くと、ダフネはもう動いていた。空になった水甕を抱えていた若い兵の肩を掴み、列の外へ押し出している。文句を言おうとした相手に一度だけ睨みをくれ、それで終わりだった。
テオドルスは震える手で素早く割った板切れに炭で印を書き込んでいく。額には汗が浮いていた。ここで列が崩れれば、水が足りていても行き渡らない。物資の不足より先に、動線の詰まりが破綻を招く。
レオンは道の入口に立ち、半隊ごとに印を渡した。文句や怒声は出たが、牛が泡を噴き始めると、さすがに獣より先に酒を汲ませろとは誰も言わない。一刻ほどで、川道の詰まりは少しだけ解けた。最悪の押し合いは避けられ、獣にも水が回り始める。
だが、解けたのは目の前の動線だけだ。軍そのものは、まだ止まったままである。
「状況を言え」
いつの間に来たのか、フィロンが立っていた。いつもどおり、感情を削ぎ落とした顔だ。後ろには書記官が二人。石が飛んでいる方を一瞥しただけで、眉一つ動かさない。
「河畔への道が座り込みで詰まりました。いまは半隊ごとの印で水汲みを分けています。獣は先に回しました。ですが、勝手持ち出しが増えています。このまま停留が長引けば、粉袋より先に飼葉が尽きます」
「どれくらいだ」
「いまの出し方なら、二日ともたない可能性があります」
フィロンは一拍だけ黙った。
「減らせ」
「いま減らせば、さらにもめます」
「もめる前提で減らせ。もめない補給などない」
腹が立つほど正しい正論だ。レオンは唇を噛んだ。「兵を進ませない限り、減らしても先延ばしにしかなりません」
「進ませる権限は私にもない」
フィロンは即答した。「私にあるのは、崩壊を遅らせる権限だけだ。貴様はそのための数字を出せ」
役目だけ押しつけられて権限はないのはいつものことだ。ただ、今回は少しばかり死にやすい状況というだけである。
その時、また外れで大きなどよめきが起きた。今度は石の音だけではない。男たちの怒声が、波みたいに広がってくる。
伝令官が駆け込んできた。
「ラケダイモン人の将軍のところで騒ぎです! 列を出そうとしたら、兵が石を――」
屈強な将軍ですら、すでに兵を力で動かせない状況まできているのだ。
フィロンが短く命じる。
「主計は持ち場を離れるな。だが目と耳は開けておけ。物陰に引き摺り込まれても助けが間に合わんから気をつけろ」
うへえ、前々から思ってたけど、やっぱり山賊とか盗賊とそんなに変わらないじゃないか…
実際には天と地ほど違いはあったが、レオンにはわからなかった。今はまだ。
伝令官が去る。少し遅れて、別の方向から角笛が鳴った。行軍の角笛ではない。足を止めた連中を一箇所へ集めるための音だ。説得が始まる。
レオンは足元を見た。さっき誰かが投げた石が、割れた控え板の横に転がっている。板には炭でつけた印がまだ乾ききっていない。
角笛が、もう一度、高く鳴った。




