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補章 王の弟がまだ弟でいられた最後の日

 父王の寝所は、薬草を煮詰めた匂いと、死にかけた権力の匂いがした。


 キュロスはその匂いが嫌いだった。

 病人の匂いではない。人が、まだ息をしているうちから、その死後に誰が何を掴むかを考え始めるときの匂いだ。


 兄のアルタクセルクセスは、すでにそこにいた。

 臣下たちは、兄に向かっては慎み深く頭を垂れ、キュロスに向かっては、まだ値踏みをやめていない目を向けてきた。


 父王はふたりを呼んだ。

 それだけで十分だった。

 病床の王の一呼びで、帝国じゅうが次の王を意識する。


 キュロスは形式どおりに膝を折り、形式どおりに言葉を述べた。

 けれど腹の底では、形式など信じていなかった。兄弟が同じ寝所に呼ばれるとき、それは愛情のためではない。継承のためだ。継承の場には、必ず敗者がいる。


 父王が死んだあと、宮廷は驚くほど静かだった。

 泣くべき者は泣き、命令を待つ者は待ち、計算の早い者から順に新しい王へ膝を折った。


 その静けさが、一日も続かなかったのは当然だった。


 ティッサフェルネスが来たのは、兄が王冠の重みに慣れ始めた頃だった。

 かつてはキュロスの傍らにもいた男である。そのくせ、いまでは古い親しみを思い出させるような目をひとつも向けてこない。


「王弟は危ううございます」


 そう言ったのを、キュロスは遠くから聞いたわけではない。

 通された控えの間で、扉越しに、はっきり聞いた。


 声を荒げてもいなかった。

 だからこそ質が悪い。怒号は警戒を呼ぶが、低い声は相手を考えさせる。


「地方の兵を握り、カストロス平野の軍を知り、異国の重装兵まで伴って都へ来たお方です。ご病気の父王に呼ばれたから来た、とは申せましょう。ですが、それだけで済ませてよろしいので」


 キュロスは笑いそうになった。

 済ませてよくないのは、おまえのほうだ、と思ったからだ。


 ティッサフェルネスは続けた。

 キュロスが人を惹きつけること。

 贈り物を惜しまぬこと。

 地方での裁きが速く、兵の扱いにも無駄がないこと。

 それらをひとつひとつ、まるで褒めるように並べ、最後に毒へ変えた。


 兄はそれを黙って聞いた。


 それで十分だった。


 扉が開いたときには、もう遅かった。

 王の護衛が左右から出て、儀礼に見せかけた動きで間合いを詰める。剣は抜いていない。抜かずに人を殺せる場だからだ。


「王弟」


 兄の声は、思っていたより平らだった。


「しばし身の潔白を示してもらう」


 潔白。

 その言葉が出た時点で、結末は決まっている。

 潔白を示すのは被告の仕事で、裁くのは王の仕事だ。そして王は、疑ったという事実だけで半ば勝っている。


 キュロスは護衛たちの気配を背に感じながら、兄を見た。

 兄の顔には、憎しみより先に怯えがあった。王座に座ったばかりの男の怯えだ。座ったばかりだからこそ、すべての影が自分を狙っているように見える。


 その瞬間、キュロスは理解した。


 ティッサフェルネスが敵なのではない。

 あれは刃にすぎない。

 真に危ういのは、兄がその刃を必要としていることだった。


 拘束されたあいだ、彼は何度も考えた。

 弁明の言葉を磨くべきか。

 忠誠を誓い直すべきか。

 膝を折り、許しを乞えば生き延びられるのか。


 答えは、どれも同じところへ戻った。

 一度でも王に「殺してもよい弟」と思われた者は、次はもっと易く殺される。


 生かされるのは、赦されたからではない。

 まだ殺す時機ではないからだ。


 だから母が来たとき、キュロスは初めて息をついた。


 パリュサティスは泣いていなかった。

 泣く女なら、とうに宮廷で喰われている。


「おまえ、余計な顔をしたわね」


 開口一番、それだった。


「母上は、息子が死ぬところだったのに、ずいぶん冷たい」


「死ぬところだったからよ。生きているなら叱れる」


 彼女は近くに座り、しばらくキュロスの顔を見た。値踏みではない。確かめているのだ、この息子が折れていないかを。


「助かるわ。けれど覚えておきなさい」


 母は静かに言った。


「王座に座った男は、弟を兄弟としては見ない。可能性として見るの」


「兄上は、私をそこまで恐れるほど賢かったですか」


「賢い必要はないわ。周りが囁けば、それで十分」


 ティッサフェルネスの顔が脳裏に浮かんだ。

 細く、乾いて、いつでも誰かの耳元に入り込める顔だ。


「なら、あの男を消すべきですね」


 母は首を振った。


「今は違う。おまえは生きて州へ戻る。戻って、二度と都で無防備に立たないこと。それが先よ」


 その言葉どおり、キュロスは助命された。

 安全に属州へ帰された、と人は言うだろう。だが彼には、首に縄をかけたまま放された気分だった。


 帰路の道中、彼はよく眠れなかった。

 護衛の足音が止むたび目が覚めた。

 誰かが天幕の綱に触れただけで、手が剣の柄を探した。


 死を恐れているのではなかった。

 あの都にもう一度呼び戻され、今度は母の手も届かぬところで処分される未来が、ありありと見えていた。


 屈辱だった。


 自分は地方を任され、兵を任され、金を任されている。

 それでも王都へ行けば、ひとつの讒言で押さえつけられる。

 兄が王であるかぎり、自分はいつでも罪人になれる。


 その事実が、彼の胸に冷たく残った。


 州へ戻った夜、キュロスは側近たちをすぐには呼ばなかった。

 酒も女も遠ざけ、灯火を一つだけ残して、地図と帳簿を広げた。


 海沿いの諸都市。

 ティッサフェルネスの旧領。

 いまは自分へ傾いている町。

 まだ揺れている町。

 亡命者を抱えるミレトス。

 金で動く者、恨みで動く者、名誉で動く者。


 彼は一本ずつ蝋板に印をつけていった。


 兄の権力に怯え続けぬためには、どうすればよいか。

 その問いは、もう答えを変えていた。


 ――兄の権力の外に立つ。

 では足りない。


 王である兄がいるかぎり、その外など存在しない。

 ならば。


 キュロスは印を置いた指を止めた。


 ならば、王でなくなるのは、兄のほうだ。


 その考えが形を持ったとき、不思議と胸は静まった。

 激情ではない。長く続く熱でもない。

 研がれた刃を指先で確かめたときのような、細く冷たい確信だけが残った。


 翌朝、彼はいつもの顔で執務の席に着いた。


 最初の命令は、誰が聞いても不自然ではないものだった。

 各地の守備隊長へ、選りすぐりの兵を増やせ、と。

 理由は明快である。ティッサフェルネスが諸都市を脅かしている。都市を守るため、備えを厚くせよ、と。



 次に、ミレトスの亡命者たちを受け入れた。

 追われた者には、怒りがある。怒りは金より安く、しかもよく燃える。彼らを擁してミレトスへ圧をかければ、それだけでまた別の口実が立つ。海と陸から町を締め上げる準備を始めれば、外から見えるのは地方紛争のひとつにすぎない。



 王への書状も忘れなかった。

 弟として当然の不満を述べる。

 ティッサフェルネスに任せるより、自分に都市を預けるほうが秩序は保てる、と。

 母にも別便を送る。王都で誰に何を囁くべきか、彼女は彼よりよく知っている。


 それでも足りない。


 表に見える兵だけでは、兄を倒せない。

 必要なのは、最後にものを言う兵だ。密集して進み、崩れず、金に見合う働きをする異国の重装兵。


 キュロスはそこでようやく、本当に笑った。


 ティッサフェルネスが王の耳に毒を注いだのなら、その毒を逆に使えばいい。

「ティッサフェルネスに備えるため」と言えば、兵は集められる。

「ピシディア人討伐のため」と言えば、さらに集められる。

 地方の争い、亡命者救援、国境警備、反乱鎮圧。帝国には、軍を動かすための理由がいくらでもある。


 その日のうちに、数通の書状が封じられた。


 ひとつは、海峡向こうの男へ。金を渡せば兵を育てられる追放者に。

 ひとつは、故郷の争いで手を借りたがっている友へ。

 ひとつは、できるだけ多くの兵を率いて来いと命じる、ボイオティア人の将軍へ。

 名目はそれぞれ違う。だが目的はひとつだった。


 夕方、最後の使者が馬で走り去るのを見送りながら、キュロスは手すりに指を置いた。


 後戻りは、まだできる。

 書状を追回せばいい。

 集まった兵を都市守備へ回せば、すべては過剰な備えで済む。


 だが彼は追回しを命じなかった。


 王都で護衛に挟まれたあの日の、兄の目を思い出したからだ。

 あれは、赦す目ではなかった。

 機会があれば、必ずもう一度殺しに来る目だった。


「なら」


 キュロスは小さく呟いた。


「次は、こちらが先だ」


 日が落ちる。

 書記官たちは灯をともして控えに入り、命令文の控えを乾かし始める。

 武具庫では、点検を言い渡された槍の音が鳴る。

 厩では、伝令用の馬が替えられる。

 港では、亡命者を運ぶ小舟が夜のうちに岸を離れる。


 まだ誰も、王に向けて軍が立ったとは言えない。

 言えるわけがない。

 見えるのは、ただの備えだ。地方総督が政敵に対抗するための、もっともらしい備え。


 だがキュロスにはわかっていた。


 あの夜、最初の書状に封蝋が押された瞬間に、兄弟の争いはもう引き返せなくなったのだと。


 王の弟は、その日、弟でいることをやめた。

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