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第18話 これ、王都に向かってないか

 キリキアとシリアの門を抜けた朝、レオンは港町ミュリアンドスの市場で、干し肉の値段より先に革袋の値段を見に行った。


 あぁ、やっぱりかぁ…


 すでに嫌な予感は、徐々に確信に近づいていた。

 普通とは逆の値動きだった。兵はまず呑み食いをする。革袋や車輪の革巻きなんて、腹が満ちてから気にするものだ。いや、兵は気にしないか…

 ま、鎧の手入れ用の油とか従者が使う補修用の細々したものとかは、後回しになる…普通は。

 なのに今朝の市場では、水を入れる皮袋と予備の革紐、それに車輪へ塗る脂が、やけに早く消えていた。


 おまけに高い。昨日のうちに買っておいた品が、二割は上がっていた。


 まったく、商人という存在は、鼻が利きすぎる。


 レオンは吊るされた革袋をひとつ外し、指先で縫い目をなぞった。つい癖で、ほんのわずかだけ感知の補助を流す。魔法というほど大げさなものではない。湿り気の偏りと、革の奥に残った傷みを、少しだけ指が拾いやすくなるだけだ。


 縫い目の近くに、いやな柔らかと硬さの両方があった。新品の振りをしているくせに、内側は一度濡れて乾いた革だ。

 長持ちはしないし…指先が少し痺れる、あぁこれは傷みかけてるな。


 これだから便利止まりなんだよな、と昔の塔の評価が頭をかすめたが、いまはとにかく、便利だった。

 芸は身を助く(技術は不運における港である(リメーン・アテユキアース・テクネー))とはよく言ったモノだ。


 仕方ない、粗悪品だけど補修前提なら、まだ持つだろう。水を入れる前に、いたんでる部分を修理させて…


「主計殿」


 隻眼のシラクサが、樽の陰からにゅっと顔を出した。片目しかないくせに、値札の変化だけはふたつの目で見ているといわれてる男だ。

 なにやら後ろにもう一つの目があるらしい。

 もはや妖怪のたぐいだ。


「いま買うなら塩魚は後回しだ。革袋と干し肉を先にしろ。あと、豆。豆は軽い、多く積めるぞ、日持ちもするし、食べても腹持ちもよい」

「理由を聞いても?」

「聞くまでもないだろ」


 それでも聞くのがこちらの仕事だ、訳もわからず隊のお金は使えない。


 レオンが黙って見つめると、シラクサは肩をすくめた。


「港の町で、川向こうまで運ぶ荷の値が上がってる。海沿いをうろつくだけの軍は、こんな買い方はしないだろ」

「川向こう?」

「東だよ。もっと内陸だ。でかい川がある方だ」


 ユーフラテス川、とレオンの頭の中で地図が勝手に答えた。やめてくれ。そういう賢さはいま、たいして嬉しくない。


 シラクサはさらに声を落とした。

「地元の商人が、あんたらを見て逃げ腰だ。山賊退治か近場の討伐なら、あいつらは値を吊り上げて笑ってる。だが今日は違う。売ったらすぐ船を出したがってる」

「山賊か何かですか、ぼくらは」

「いんや、傭兵なんて似たようなもんだ、真っ当な商人からして見ればな。

 でも今回は王弟も同行してるし、普段よりマシくらいには思ってる」


「ええと、だったら、何でまた逃げ腰に?

  別段、ここが戦場になるわけじゃないでしょう?」

「遠征する連中にはな、敵方に通じてる奴らもいる。雇い主の払いが悪いと、敵方に寝返ったり、足りない分をそこら辺で調達する連中もいる。

 ま、もののついでと…な」

「あぁ、略奪とか?そんなのに巻き込まれたくない、と」

「それもある。ただ、今回は少し違う。こういう軍は、踏み倒すより、もうちょっと積極的なとこどまりだ。

 簡単に言えば、そもそも遠くに行く兵の買い物は特殊なんだよ主計殿。

 普通は購わねぇものを、大量にほしがる。

 気づいた商人は見越して、ふっかける。いつも以上に紛い物も掴ませる。

 こつちもそれを知ってる。

 そういうことだ」


「ええと…つまり?」

 話が飛んでる、わかりにくい。

 てゆうか、何がそう言うことかわからん。

 フィロンの気持ちが少しわかった。

 わかりたくないけど…

 普段、現場実務やってる人に長く喋らせちゃいけないってことかぁ…

 全く要領を得ない。


「懲らしめる口実なんざいくらでもあるってわけだ、主計殿。

 逃げ遅れた奴から、懲罰を口実になって毟ったぶんを毟られる」


 あぁ、そういう…と一瞬理解しかけて、呆れる。


 なんだかなぁ…

 略奪の一歩手前ってだけじゃないか。

 あー、だから少し違う…なんだ。


「でな、大規模な軍相手の場合は普通、そうならないように百人隊長とか主計のエライ人間あたりに金をわたす。町の顔役がな」


 ん?だつたら、問題なくないかな?


「じゃ逃げなくてもいいでしょ?あれ?何で逃げるんです?」


「こういう時はよ、金払う側にも目論みはあらぁな。

 気にいらねぇやつとかをよ、それとなく伝えるんだよ。どこどこの商人にはよくない噂があるから気をつけた方がいいとか」


 めんどくさいな…それって逃げ出した連中も…顔役も、善人じゃなさそうじゃないか…

 出てくる俳優(ヒュポクリテース)が全員一癖ある感じか…喜劇(コーモイディア)だな…


 レオンは革袋をもうひとつ持ち上げた。こっちはましだ。湿り気が均一で、底の革もまだ死んでいない…でもまあ、粗悪品だけど。


「つまり、理由のいかんは問わず、必ず厄介ごとは…」

「起きるだろうな。ギリシア傭兵は多少上品何で、確実にやらかすわけじゃないが…遠くまで行く軍はな、厄介ごとが多くなる」


 くだらないと思ったが、現場がそういうもんなら仕方ない。一部隊の主計補佐の出来ることなど、粛々(しゅくしゅく)と必要なモノを買うだけだ。


「二十袋、押さえてください。質の悪いのは紐と革当てに回して、ましな方を水用に。あと干し肉も」

「払うのは坊ちゃんじゃなくて上だが?

 そんなに買っちまって大丈夫なのか?」

「帳面は僕が持っています。それに、値段が上がるうえに、粗悪品だの紛い物だのを混ぜられたモノつかまされる前に、買うのは、損にはなりませんよ」


 最近、役目だけが増えて、肩書きはそのまま。

 フィロンから便利な道具として使い倒されている気がしてならない。とはいえ預けられてる枠を超えた、いわゆる教養ギリシア語でいうところの「越権行為(パラバシス)」なので、後で報告だけはしておかないといけない。


 市場から戻ると、レオンは荷駄幕の陰で蝋板を広げた。朝の湿気で表面が少し鈍い。ついでに乾燥の補助をひと撫でだけかける。湿気を軽く払う程度の、ごく弱いものだ。蝋の面がわずかに締まり、(スタイラス)の走りが少しだけ良くなる。


 ほんの少しだが、いまはその少しがありがたい。


 そこへ歩いてきたダフネが、無言で水袋を投げてよこした。危うく取り損ねるところだった。


「顔が死んでる」

「生きていますよ。一応」

「一応ね」


 彼女はそれだけ言って、幕柱にもたれた。見張っているのか休んでいるのか分からない立ち方だが、どちらにせよ邪魔にはならない。そこがありがたい。


 レオンは蝋板に線を引いた。サルディスからここまで。フリュギア、イコニオン、リュカオニア、キリキア、タルソス、イッシ、そして門を抜けてシリア側へ。引いてみた線は、嫌になるほど長かった。


「で」

「人間の愚かさについて考察を…」

 先程のやりとりを思い出しながら言いかけると…

 ダフネが遮るように言った。

「つまり?」


 相変わらず言葉を惜しむ人だ。レオンは息を吐いた。

 まぁ、ぼくが悪いか…

 韜晦(エイローネイアー)に失敗したのを理解しつつ答えた。


「討伐遠征にしては、曲がるべきところで曲がっていません。ティッサフェルネス相手なら、もっと前で十分だった。ピシディア人相手なら、なおさらです。なのに海側の補助まで付けて、門を抜けて、さらに東へ進む」

「うん」

「王のいる方角です」


 言ってしまった。声に出すと、嫌な推測が事実として固まってしまう気がした。ダフネは少しだけ目を細めたが、驚いた顔はしなかった。


「いまさら」

「いまさらで済ませたくないんですが」

「でも、そうなんでしょ」

「……たぶん」

「たぶん、で顔色がそんなになるなら、ほぼ当たりでまちがいない」

「そんなのわからないじゃないですか……」

「じゃなきゃもっと酷いことになるかどっちかだね」


 ひどい慰め方だ。いや、最初から慰める気などないのだろう。


 レオンが蝋板の縁を握りしめていると、ダフネがしゃがみ込んだ。何をするのかと思ったら、黙ったままレオンの背負い袋の肩紐を引き、緩んでいた結びを締め直した。ぎゅっと、息が詰まるくらい容赦なく。


「痛い」

「戻った」

「何がです」

「顔」


 それだけ言って立ち上がる。現実に引き戻す手つきがいちいち雑だが、不思議と冷静になれた。


 その時、外から荒っぽい足音が近づいた。ミュロンだった。


「坊ちゃん、荷駄頭が喚いてる。重装歩兵どもが予備の皮袋を酒と替えたがってやがる」

「駄目です」

「即答か」

「即答です。むしろ買い増します」


 ミュロンが片眉を上げた。

「理由は」

「ここから先、水場の当てが薄くなるかもしれない。街道沿いでも、全隊ぶんの水がすぐ手に入るとは限りません。荷駄獣も飲みます。人間よりよほど飲む」

「ふん」

「それに、もし本当にユーフラテス川の方へ行くなら」


 そこで言葉が止まった。


 ミュロンはレオンの顔を見た。次に蝋板を見た。最後に、黙ったままダフネを見る。ダフネも何も言わない。嫌な沈黙だった。


 先に口を開いたのはミュロンだった。

「……荷袋は残す。酒は後だ。そう荷駄頭に言やいいんだな」

「はい」

「分かった」


 こういう時のこの男は、腹が立つほど察しがいい。ミュロンは踵を返しかけて、少しだけ足を止めた。


「坊ちゃん」

「何です」

「その蝋板、他の連中には見せるな」


 言い残して去っていく。嫌味がまったくないのが、かえって不吉だった。レオンはたまらず立ち上がった。行く先はひとつしかない。フィロンの天幕だ。


 中では兵站監が書板を前に、いつものように人を人とも思わない顔で座っていた。その態度がいつも通りなのが、逆にいらだたしい。


「何だ」

「確認したいことがあります」

「手短に言え」


 レオンは蝋板を差し出した。

「進路です。ここまでの行程、買い付け量、海路の補助、門の突破、現地商人の反応。どれも、地方反乱の討伐にしては過剰です。ここからさらに東へ押し込むなら、相手は地方太守ではない」


 フィロンは蝋板を見た。すぐには何も言わなかった。その沈黙が、いちばん答えに近かった。否定してくれれば、ただの勘違いだと自分を誤魔化せたのに。


 しばらくして、フィロンは蝋板を卓に置いた。

「その推測を、他所で口にするな」


 喉が乾いた。

「……では」

「控えを二通作れ。革袋、車輪脂、塩、干し肉を優先する。酒は絞れ。重装歩兵側が騒いでも後回しだ」

「それは」

「命令だ」


 やはり否定しない。レオンは思わず言った。

「相手が王なら、僕らは何なんです」


 フィロンの目が上がる。

「雇われだ」


 それだけだった。王弟の臣下でも、国の兵でもない。金で集められた、よく訓練された消耗品。分かっていたつもりだった。だが、分かった気でいるのと、言葉にされるのは別だ。


「もう一つだけ」

 レオンは自分でも嫌になるほど丁寧に言った。

「勝てるんですか」


 フィロンはそこで初めて、少しだけ疲れた顔をした。

「それを考えるのは私の役目ではない」


 最低だが、たぶん正しい。兵站監の仕事は勝敗を決めることではない。負けるにしても、明日まで軍の腹を保たせるのがこの男の仕事なのだ。


 天幕を出ると、夕方の光が港に斜めに差していた。船は何隻か、もう沖へ出ている。売るだけ売って逃げたのだろう。


 ダフネが外で待っていた。

「どうだった」

 レオンは笑うつもりで、たぶん変な顔をした。

「沈黙でした」

「じゃあ当たりだ」

「そうみたいです」


 ダフネは少しだけ黙って、それからレオンの手から蝋板を取り上げた。ひっくり返して、地図の面を自分の胸側に向ける。


「見せるなって顔してる」

「していましたか」

「してる」


 そう言って返してくる。慰めはないが、行動でこちらを庇ってくれる。ほんとうにこの人はそういうところだ。


 その時、港の外れから怒鳴り声が上がった。

 ひとつではない。ふたつ、みっつ、すぐに十を越えた。重装歩兵の声が混じっている。酒に浮かれた声ではなく、腹の底から絞り出すような、怒りと戸惑いの声だ。


「王の都だと?」

「聞いてねえぞ!」

「誰がそんな奥まで行くって言った!」


 そろそろ勘の鈍い人間に噂が回り出した。

 勘のいい人間は、あまりベラベラ喋らないし、騒がない、気づいたら、さっさと行動する。

 そして、騒ぐ人間は、だいたい粗暴だったり短絡的だったりする。

 ミュロンの低い怒鳴り声が飛ぶ。カレスの押し返すような大声も混じる。荷駄幕の方で誰かが樽を倒したらしく、鈍い音が響いた。


 この軍は、きっとここでしばらく足止めだ。レオンは蝋板を抱え直した。木の縁が妙に手に食い込む。


 王都に向かっている。そう確信した瞬間より、その先の方がずっと嫌だった。


 進むのも地獄だ。だが止まれば、まず配給がまともにできなくなる。秩序だった行動など望むべくもなくなり、個々人の溜め込みが始まり、重装歩兵は力で持っていく。そのうち盗みや略奪とかにも手を出すかもしれない、でも食わなければこっちは飢える。


 いくばくか金を払う徴発という手段もあるらしいが、武力を背景に好き放題にやるようになれば略奪と変わりはしない。

 どちらに転んでも、いや、どうころんでも割を食うのは兵站で、兵站監補の自分は、上から下から責められてたぶん一番ひどい目にあう。


 うーん、碌なことにならないぞ、これは。

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