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第17話 見世物のような遠征団

テュンブリオンを出る朝、レオンは帳面より先に兵の顔つきが変わっているのを見た。

 四か月分の給金は、目先の呑み食いよりも見栄へ回るらしい。昨夜まで配給幕の前で怒鳴っていた連中が、朝になると青銅の兜を磨く油を求め、切れかけた革紐を替え、紫に染めた上衣(ダウシェ)を得意げに肩へ掛けていた。

 市場の値も下がったとはいえ、やっぱりきっちり元の値段よりは上がっている。兵の懐が潤ったのを見越して、商人たちがここぞとばかりに値段を釣り上げていた。

 前は断るための値上げ、今度は売りつけるための値上げだ。


「主計殿、油がまた高くなってます」

 テオドルスが控え板を抱えて顔をしかめた。

「朝より上がりましたか?」

「はい。昨日の倍とは言いませんけど、ほとんどそんなものです」

「倍で済むなら良心的ですね。兵が急に身なりを気にし始めたら、そりゃまぁ、商人が待ってましたと値を釣り上げるに決まってるでしょう」

 横から隻眼のシラクサが鼻を鳴らす。

「急に、ですか」とテオドルス。


「急じゃねえ。急に見えるだけだ、坊ちゃんがた」

 その言い方が引っかかった。


 レオンは受け取り印のついた木札をめくった。油、布、革紐、盾の持ち手の補修、脛当ての留め革、青銅磨き。金が入ったから売れたと言えばそれまでだが、売れ辻褄が合いすぎるというか…何かが妙に揃いすぎている。

 昨夜のうちに王弟側の連絡将校ミトリダテスから、整列時に荷車を退ける場所や給水桶の位置、予備の革紐の持たせ方まで細かな指示が来ていた。金を払う前から、並べる準備は始まっていたのだ。


「考え込むな」

 いつの間にか、ダフネが荷車の影からこちらを見ていた。

「顔が暗い」

「商人に笑われる値段で油を買わされれば、誰でも暗くなります」

「違う、本当は別の心配事がある顔だ」

 言い返しかけてやめた。

 そう、心配事は別にある。

 やはり変なのだ。


軍はテュリアイオンへ向かった。町外れに着いたところで、レオンは思わず足を止めた。

 町の外に広がる草地は、嫌になるほど平らだった。荷車を停めるにも、兵を列に並べるにも、馬を走らせるにも都合がよすぎる。ぬかるみも視界を遮る木立もなく、軍の端から端まで見渡せた。

 見せるための地面だ。


「いい場所だ」

 バウコスが荷車の轅を撫でながら言った。

「車輪は沈まねえ。獣も足を取られねえ。ついでに、見世物にも向いてる」

「あなたもそう見えますか」

「俺は字は読めねえが、地面の都合くらいは分かる、硬くて乾いてる地面は、畑にはむかねぇが、軍にとってはいい土地だ」


 そこへフィロンが無駄のない足取りで近づいてきた。


「レオン」

「はい」

「荷車は西側へ寄せろ。前面を空ける。給水桶は二列目の後ろへ分散。脛当ての留め革は持ち歩かせず、各百人隊長にまとめて預けろ」


あぁ、やはりそうか…


「閲兵ですか」

「そうだ」

「誰に見せるための」

「聞いてどうする?」


 淡々と言い放つが、否定はしなかった。


昼前には、キリキア王妃エピュアクサが軍を見たがっているという噂が全体へ回った。

 それだけで重装歩兵たちの背筋が目に見えて伸び、青銅を磨く手つきや肩を怒らせる角度まで変わっていく。主計としては扱いやすくて助かるが、現金なものだ。

 カレスが自分の隊の前で笑っていた。

「見ろよ、帳簿役。これが本物の軍勢ってやつだ。昨夜まで文句垂れてた面ァ、今日はどこにも見えねえだろうが」

「給金が入れば、たいてい皆そうなります」

「違うな。金だけじゃねえ。見られるとなりゃ、兵はちゃんと兵の顔になる」

 たしかにそうかもしれないが、見られる相手が王妃ひとりだけだとは、とても思えなかった。


午後、合図の角笛が鳴った。

 まず現地兵が通る。騎兵と歩兵の列、色とりどりの衣、馬具の金具が砂埃の中に浮かぶ。数は多いが、広い草地へ流してしまうとどこか散って見え、足音もばらけていた。

 次に、ギリシア人傭兵が四列の陣形を作った。

 それだけで景色が変わった。前へ出た盾が陽を跳ね返し、青銅の兜が一斉に光る。紫の上衣が列の芯を通し、脛当ての金具が足並みのたびに硬く鳴った。


レオンは荷車の脇からその光景を見つめていた。自分は観客なのだと、妙にはっきりと自覚する。

 将軍たちは列の前後を騎乗で走り、百人隊長が怒鳴って半隊長が列の歪みを潰していく。プロクセノス隊もきれいに揃い、軽装歩兵は外側へ回って隙間を埋めた。荷駄はさらに後ろへ押しやられ、従軍商人たちは荷包みの陰から首だけ出している。

 金を渡し、機嫌を直させ、身なりを整えさせて列に立たせ、そして見せる。どこまでが偶然で、どこからが仕組まれた段取りなのか、境界線は完全に溶け込んでいた。


「下がって」

 ダフネがレオンの肘を引いた。

「ここだと前へ押される」

「まだ始まってもいません」

「いいから、下がって」

 彼女は言い終える前に、レオンを荷車の輪の内側へ半歩ずらした。慰めも説明もなく、ただ立ち位置だけを変える。そういう手際の良さだけは、妙に信用できた。


 王弟キュロスが戦車で前へ出た。横には王妃の車が見える。距離は遠いが、場の中心がそこにあることは明らかだった。

 通訳を介して、将軍たちへ命令が伝わる。武器を示し、前へ出ろ、と。


 角笛が鳴った。

 盾が前へ傾き、槍が揃って落ちる。

 どん、と地面が鳴った。ひとつではない。何千もの足が、同じ拍で草地を叩く音だ。次に青銅が触れ合う硬い音が響き、喉の奥から押し出したような叫びが列の前から後ろへ走った。


美しい前進は二歩、三歩で速まり、いつの間にか駆け足に変わった。

 重い盾を構えたままの突撃は、見ているだけで息が詰まる。土が跳ね、脛当てが鳴り、紫の列が波打つ。草地の向こうで見ていた現地兵たちがたまらず後ずさった。

 王妃の車が目に見えて揺れ、引き手が慌てて向きを変える。市場の連中が悲鳴を上げて荷を放り出し、逃げ惑った。


 兵たちはそれを見て、大声で笑った。

 ついさっきまで給金袋の重さで機嫌を直していた連中が、自分たちの足音と他人の悲鳴に酔いしれている。単純で、だからこそ強い。


 力に酔う人間が、そこにいた。ざっくり言って最悪な集団だった。


 レオンは喉の渇きを覚えた。恐怖と同時に、背筋が粟立つほど圧倒されてしまう。

 これだけの人数が一つの合図で前へ出て、叫び一つで周囲を逃げ散らす。強い軍というものを、理屈より先に身体が理解させられていた。危うく、見物席で手を叩く側に呑まれるところだった。


列が戻ってくると、兵たちは上機嫌に肩を叩き合っていた。逃げた商人を笑い、重装歩兵が軽装歩兵にまで気前よく酒を振る舞おうとしている。四か月分の金よりも、自分たちは強いという実感がよく効いていた。

 戻ってきたミュロンが喉を鳴らす。

「ほらな」

「何がです」

「払って、並ばせて、吠えさせりゃ、また歩く、動物と変わらん」

 それだけ言い残して自分の隊へ戻っていく。いつも口うるさい男が嫌味すら言わないことのほうが、レオンには重く感じられた。


レオンは帳板の端に、今日の消耗を書きつけた。

 油。革紐。給水。整列用の間隔札。補修布。書きつけてから、ふと手を止める。

 消えた物はそれだけではない。昨日までの不満も綺麗に消え去っている。金で腹を黙らせ、見せ場で心を掴む。支払いと閲兵は別の出来事ではなく、最初から仕組まれた一つの段取りだったのだ。給金とともに、熱狂という酔いまで渡されたのである。


「監補殿」

 テオドルスが小走りでやって来た。

「明日の行程札です。将軍幕から」

 受け取った木札には、行き先としてイコニオンと記されている。さらにその先の予定も薄く書き込まれていた。東だ。

 レオンは草地の向こう、王弟の戦車が去っていった方角へ目を向けた。

 王妃ひとりを驚かせるために、これほど念入りな段取りを組むはずがない。ならばこの巨大な軍勢は、本当は誰に見せるためのものなのか。そして、どこまで進むつもりなのか。帳面を持つ手が、微かに汗ばんでいた。

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