第16話 王弟は金を出し、兵は黙る
カイストロス平原は、止まるにはひどい場所だった。
広い。広すぎる。浅い水の筋が何本か、白い土のあいだを細く走っているだけで、あとは隠れるものがない。荷車の列がどこで詰まったかも、怒鳴り声がどこで膨らんだかも、少し離れればすぐ見える。止まるだけで、人も獣も体力だけでなく機嫌も削れていく土地だった。
その日も、兵たちは王弟の陣幕の前に集まっていた。
王弟の宮門の中に、金が運び込まれたのを知ってるからか、集まってはいるもののどこか昨日までとは違っていた。
ほんの少しだけ、物見高いというか、見物という空気感があった。
そして、王弟の幕前だけでなく、各隊の主計幕の前でも人だかりができていたりもする。
嫌な現実だ。
「主計殿、あっちまた始まってしまいました」
テオドルスが、控え板を抱えたまま半ば泣きそうな顔で言った。
レオンは羊皮紙から目を上げた。王弟の幕前には、重装歩兵が先に膨らみをもって群がり、その外で軽装歩兵たちが舌打ちしながら様子をうかがっている。前へ出たがる者、誰かが前へ出れば後ろから罵る者、金の匂いがした時の群れ方だった。
「まだ受け取ってもいないのに……もう騒ぎを起こす顔をしていますね」
「騒ぎを起こす顔ですか?」
「そうですね……つまり獲物に飛びかかる前の顔、気を抜くと余計に金貨を掴んでどっか行くかもしれない……そんな顔です」
テオドルスはうへえ、という顔をした。だが、言い過ぎでもなかった。先頭の連中は、誰が一番先に袋へ手を伸ばせるか、もうそのことしか頭にない目をしていた。
幕の脇ではフィロンが書記官を二人呼びつけ、支払いの準備を短く命じていた。ぼくらもその横に立つ。
そのさらに横でバウコスが荷駄獣を引き、荷車を三台、街道に斜めに止めさせている。道を狭め、人の流れを切るつもりだ。ああいう現場の判断は早い。腹が減っている連中をまっすぐ走らせたら、列はひと押しでめちゃくちゃにつぶれる。
「坊ちゃん」
ミュロンが来た。いつもより声が低い。本当に危ない時は怒鳴らない。嫌な癖だった。
「このまま一か所で配りゃ、重装歩兵がわれ先に殺到して前を塞ぐ。軽装歩兵と荷駄の連中は後ろで押し合ってもみくちゃになるぞ」
「え?」
ミュロンの顔を見て先を促す。
「そうすると後ろ半分は列がぐちゃぐちゃになる。たぶん誰に渡したかも分からなくなるし、二度もらうやつや、もらえねぇ奴が出て来る。
ここでもらえなかった奴は、恨みを持つぞ。遠征の最中に盗人騒ぎが起きても、主計連中がひとりふたり殺されて隊の金を奪われてもおれは驚かねぇな」
そこまで言われてようやく得心がいった。
言い方は荒っぽいが、言っていることは正確だった。
重装歩兵側の顔役、カレスが少し向こうで腕を組んでいる。いかにも、自分たちが先にもらって当然だという顔だ。実際、正面を受けるのは彼らだ。だが、列の外で荷駄を守り、水を運び、道を拾っている軽装歩兵が崩れれば、軍は歩けない。
帳面の上でも、実際の列でも、片方だけ先に黙らせるわけにはいかなかった。こういう面倒な場面でだけ、主計は急に必要になる。
「荷車、もう二台動かせますか」
レオンはバウコスへ声を張った。
「動かすだけならな。だが驢馬も気が立ってる。邪魔な兵隊どもを蹴るぞ」
「蹴らせないようにしてください。荷車を使って道を三つに割りたい、流れを整流化したいんです」
バウコスは嫌そうな顔をしたが、レオンの指先が描いた線を見ると、すぐ意味を飲み込んだらしい。浅い水の筋と荷車で仕切れば、人の流れを三本に裂ける。受け取り口が一つなら押し合いになる。三つに分け、所属ごとに呼び込めば、怒鳴り声は少しましになる。
フィロンがこちらを見た。
「目論見は」
「重装歩兵を先に通せば軽装歩兵が怒り出します。軽装歩兵を先に通せば重装歩兵が暴れます。三列にして、所属ごとに呼びます。重装歩兵二列、軽装歩兵と荷駄が一列。受け取り口は三つ、確認板は一つ。控えはここで着けます」
「確度は?」
どのくらい上手くいきそうっかってことかな。
一瞬おいて返す。
「これ以外思いつきません」
フィロンは一度だけ頷いた。
「やれ」
「次からはもっと上手くやれ、書記どもを走らせるでもいい。
あと死人は出すな。兵も、お前たちもだ」
それだけだった。
死人はだれも出てないはずだけどなぁと思ったが、何も言わなかった。
ミュロンから死人が出ても驚かないと言われてたからだ。
たぶん、傭兵稼業の常識なんだろうな、金払いでもめると死人が出るっていうのは。
テオドルスに控え板を持たせ、書記官には所属札を読ませる。ミュロンには軽装歩兵側の列を、カレスをはじめ重装歩兵の顔役には重装歩兵側の列を、それぞれ自分で押さえさせた。自分で押さえさせるのが一番早い。文句を言う暇を減らせる。
ダフネはいつの間にか、レオンの右後ろに立っていた。何も言わない。言わない代わりに、混み合う方へ半歩ずれて立つ。押し込まれた時に、レオンが横から飛ばされない位置だ。過保護だ、と思いかけて、違うなと飲み込む。護衛だからだ。そういう役目だ。そういうことにしておく。
やがて、王弟側の一団が現れた。
先頭に立つのはミトリダテスだった。いつもの、よく磨いたような笑顔だ。怒号の前に立つ顔ではない。宴席に出る顔だ。だから余計に腹が立つ。
「王弟殿下は、諸君を待たせたことを非常に残念に思っていらっしゃる」
よく通る声だった。言葉の端に、ひとつも棘がない。
「本日、未払い分に加え、先の行軍に備えるための支払いがなされる。先払いは王弟殿下の君らに対する信頼のあかしだ」
あっさりしていた。長広舌はない。恩着せがましさもない。あるのは段取りだけだ。
その後ろで、封をした革袋が荷車から降ろされる。重さで分かる。銀ではない。金だ。
群れの音が変わった。
怒鳴り声は、うめき声のような声に変わる。あるいはつばを飲み込むような音だ。集団の空気も怒りから、とりはぐれないよう用心あるいは見極める空気になる。人は金の前で静かになるのではない。ただ、目が、耳が、自分のものになるはずの金貨袋の方へ向く。
最初に呼ばれた隊が前へ出る。書記官が名を読み、控えに印を打ち、袋が渡る。受け取った男はその場で口を開き、中をのぞき、指で弾き、重さを確かめる。次の男はそれを見て、自分の番まで怒鳴るより列を守った方が得だと悟る。
悟ってしまえば、早い。
「……黙りましたね」
テオドルスが呟いた。
「そうですね」
レオンは列から目を離さずに答えた。
「自分の金袋の音としか聞こえなくなっただけかな」
実際には、ざわめきは残っていた。袋の重さに文句をつける声、差し引きがないか問いただす声、受け取った端から酒と油の相談を始める声。だが、さっきまでの、軍そのものが止まりそうな音ではなくなっていた。
レオンは、その変化を見て喉が渇いた。
理屈ではない。説得でもない。大義でも名誉でもない。王弟は金を出し、兵は黙る。
もっと正確に言えば、兵は思い出すのだ。自分たちがまだ契約の内側にいることを。置き去りにされていないことを。明日も食い、歩き、たぶん死ぬとしても、その死には値札が付いていることを。
それが救いになってしまう。
カレスが受け取った袋を軽く放り、部下へ何か叫んだ。さっきまで王弟の幕を壊しそうな顔をしていた男が、今は口元をゆるめている。軽装歩兵の列でも、替え紐だ、油だ、靴だと、もう次の買い物の相談が始まっていた。市場の匂いを嗅ぎつけた商人どもが、どこからともなく戻ってくる。隻眼のシラクサなど、さっきまで姿も見えなかったくせに、もう薄い葡萄酒の樽を転がしていた。
現金な連中だ、と笑って済ませるには、あまりに揃いすぎていた。
「見たろ、坊ちゃん」
いつの間にか、ミュロンが隣に立っていた。
「兵ってのは、食い物の匂いと、金の匂いで黙り込む。そして、思い出すんだよ」
「何をです」
「誰の財布で飯を食ってるかだよ」
それだけ言うと、ミュロンはすぐ列の方へ戻った。余計なことは言わない。言わないくせに、こういう時だけ芯を置いていく。
レオンは王弟の陣幕を見た。
キュロス本人の姿は、布の陰に半ば隠れていた。遠い。遠いのに、ここにいる誰より近い気がした。あの人は前へ出て怒鳴らない。剣も抜かない。ただ袋を開かせる。そうすれば、数千人の喉の向きが変わる。
恐ろしい、と思った。
同時に、目が離せなかった。
塔で聞いたどんな弁論より早い。どんな理屈より深く、人を繋ぐ。いや、繋ぐというより、締めるに近いのかもしれない。金貨の紐で喉をゆるく巻くのだ。苦しくない程度に。逃げられない程度に。
ダフネが無言で水袋を差し出した。
受け取ると、革はぬるかった。だが中身は残っていた。レオンが一口だけ飲むのを見て、彼女は短く言った。
「飲んで。顔が悪い」
「いつも悪いですよ」
「今日は別の悪さ。幽霊にあったような顔してる」
それで終わりだった。
慰めない。説明しない。ただ、見えていると言うだけだ。そういうところだけ、妙に助かる。
支払いは日が傾く頃まで続いた。列は最後まで崩れなかった。小競り合いはあった。袋の重さに文句をつける者もいた。だが、最初のあの濁った怒りには戻らない。レオンの判断が一度だけ効いた、と言っていいのだろう。少なくとも今日この場は、控えも列も死なずに済んだ。
ただし、勝った感じはまるでしなかった。
夕方、支払いの控えをまとめているところへ、ミトリダテスがまた現れた。
「諸君、兵の慰撫ご苦労だった。実に見事な手際だった。」
その丁寧さが薄気味悪い。
「王弟殿下より。明日、南東へ進む。先で全軍を整えることになる。兜、盾、脛当て、傷んだ紐は今夜のうちに改めよ。見せる軍は、乱れていてはならない」
見せる軍。
その言い方に、レオンは顔を上げた。
ミトリダテスは笑っていた。何ひとつ漏らしていない顔で。
外では、さっそく油を買った兵たちが盾の縁を磨き始めていた。青銅が夕日に光り返す。ついさっきまで未払いに吠えていた連中が、今は自分たちを綺麗に見せる支度をしている。
金で黙らせ、そのまま並ばせる。
なるほど、よくできている。できすぎていて、少し吐き気がした。
レオンは控え板を閉じた。
平原の向こう、南東へ伸びる白い街道が、夕日の中で細く光っていた。次はテュンブリオン。その先で、もっと大きな何かを見せられるのだと、道の色がもう告げていた。
たぶん、史実だと
重装歩兵 金貨一枚/月=1ダレイスコ/月
軽装歩兵はもう少し安いのかな?




