第120話 見捨てれば、こちらも腐る
伝令がもたらした悲報は、瞬く間にカルペ港の手前に位置する宿営地へと吹き荒れた。 ふ
「アルカディアの連中が包囲されただと!?」
「トラキアとビテュニアの連合騎兵……。だいたい、あいつらが勝手に略奪へ動いたから自業自得ではないか!」
配給幕の前に集まった百人隊長たちの間から、容赦のない罵声と拒絶の言葉が噴き出す。
彼らの言い分は正しい。
昨日、全軍の共通財産であった荷車や麦袋を力ずくで奪い取り、勝手に戦列を離脱していったのはアルカディアとアカイアの兵たちなのだ。いまさら敵の逆襲に遭って全滅しかけているからと助けを求められても、残された側にしてみれば、不快感以外の何物でもなかった。
「放っておけばいい」
重装歩兵の顔役である百人隊長のひとりが、胸当てに手を置いたまま、冷たく言い放った。
「奴らは俺たちの言葉を無視して、勝手に取り分を貪ろうとしたのだ。飢えた一万の胃袋をさらに三つに割って、軍を危険に晒した連中だぞ。なぜ俺たちが、あの大馬鹿どもの尻拭いのために血を流さねばならない」
周囲の兵たちから、地鳴りのような賛同の声が上がる。
誰もが疲弊し、腹を空かせている。海が見えたというのに未だ帰郷の目処が立たない焦燥が、彼らの心を乾かせ、身内以外のすべてを切り捨てる論理へと傾かせていた。
(いや、心情的には僕だって、あんな勝手な連中など放っておきたいのは山々なのですけどねぇ…ただでさえ昨夜から、裂けた配給帳の辻褄合わせで頭が割れそうなのですから)
レオンは、コレだけは意地でもなくさなかった尖筆を握る指先でこめかみを強く押さえながら、内心で激しく同意した。
しかし、学問の塔で家の運営と資源配分を学んだロゴスは、この「もっともらしい見捨て論」が導き出す、最悪の帰結を冷徹に弾き出していた。
ここで感情に流されて彼らを見捨てれば、確実に組織そのものが継続不能になる。
レオンは一歩前へ踏み出し、事前に相談していたミュロンやカレスに目をやった。
その後、怒声の渦へと割り込んだ。
「彼らへの憤りはご尤もですが、ここで縮こまっていても、僕たちの安全が担保されるわけではありません」
丁寧な言葉遣いを保ったまま、しかし逃げ道を塞ぐように言葉を突き刺す。百人隊長の顔役たちが不快そうに眉を寄せたが、レオンは計算盤の上の現実を語るように、淡々と続けた。
「四千五百のアルカディア勢が…もし瓦解すれば、勝利に沸くトラキアとビテュニアの連合騎兵は、間違いなく次の獲物を探します。
数を減らして孤立した僕たちの部隊は、彼らにとって格好の標的となるでしょう。
敵の戦力を過小評価し、各個撃破される選択を自ら選ぶのは、戦術的に不利と言わざるを得ません」
状況を並べて締めつつ、レオンはさらに言葉を重ねた。
「それだけではありません。同胞の危機を認識しながら見捨てた無法な軍隊という悪名が立てば、諸都市の僕たちに対する信義は完全に失墜します。
ヘラクレアだけでなく、その先にあるすべてのポリスが城門を閉ざすでしょう。信用を損なえば、次の港で船を探す折衝すら成り立たなくなります。
これは慈悲の話ではなく、僕たちが生き残るための損得の計算なのです」
レオンの冷徹な指摘に、カレス・ミュロンなど事前に話を聞いていた顔役たちは、うなずきながらいう。
曰く、仕方がない……と、俺たちが無事に帰り着くためにはやむを得ない……と。
「仲間だから助ける」という美しい美辞麗句ではないことが功を奏した。
見捨てれば、結果として自分たちの取り分も帰路も破綻する。その現物の危機を突きつけられては、現場の百人隊長たちも反論ができなかったし、かれらも、感ずるものがあったようだ。
場の空気は、仕方がないかもしれないな……という中立よりからやや助けに行くくらいのところになった。
そして、事前に、話ができるものたちと認識合わせが出来ていたのも大きかった。
とはいえ、やはり、反発は大きく、決定的結論には…きめてにかけた。
話し合いは膠着したかに見えた。
「主計殿の言う通りだ」
沈黙が支配しかけた宿営地に、落ち着いた声が響いた。クセノポンだった。彼は一歩前に出ると、周囲の将校たちを見渡した。
「私たちは彼らを救い、同時に私たち自身を救わねばならない。諸君、私たちはまだ武器を携えたギリシア人の軍隊だ。無法者の賊に成り下がる前に、前進の角笛を鳴らそう」
クセノポンの方針がしめす。こういう時は雄弁家の彼の存在が光る。
軍議の潮流は一気に救援へと傾いた。
だが、方針が決まった瞬間に、その重圧はすべて実務の場へと撥ね返ってくる。
兵站という、現物を管理する現場には、感傷が入り込む余地はない…こともないが、あまりない。
「テオドルス、すぐに空荷車を数えて引き出してきてください。それから、負傷者を運ぶための担架代わりの槍の柄、それと予備の水袋を可能な限り集めるのです」
「は、はい! すぐにバウコス殿のところへ行ってきます!」 怯えを隠せないテオドルスが、羊皮紙の控えを抱えて荷駄獣の列へと走っていく。
レオンは息をつく間もなく、今度はミュロンの元へと直行した。
まず、小声で礼をいう。
そして、今度は普通の声で
「ミュロン殿、救援隊に随行させる担ぎ手の選定をお願いします。戦闘不能になった負傷者を迅速に回収できなければ、救援に赴いた意味がありません」
「分かってる、主計殿。
お前の数字はいつも最悪のタイミングで正しいことを言いやがるから腹が立つな。
おい、お前ら! 足の動く奴から担架の棒を握れ! のろまな奴はここに置いていくぞ!」
ミュロンが現場の言葉で怒鳴ると、軽装歩兵たちが素早く動き出した。
とはいえ、事前に準備していたし、兵士たちもわかったもので、素早く動いていく。
レオンは、カレスや他の根回し済みの顔役や、そうでない顔役にも礼を言って周り、その後、補給幕の奥から傷治師の布の束を引きずり出し、空荷車へと積み込んでいく。微弱な水魔法を使って、最低限の洗浄用水を革袋に満たす作業も並行したが、頭痛の予兆がこめかみを突き刺したため、すぐに魔法を止めて現物の革袋の確保へと切り替えた。
魔法は便利札ではない、ほんの少しの補助でしかないのだ。
その間、ダフネはレオンの斜め前に位置を取り、救援のため皆が右往左往する中ドサクサまぎれに物資を奪おうとする他の部隊の手癖の悪そうな兵たちを鋭い目線で牽制し続けていた。
彼女はその立ち位置だけで、レオンの実務の現場を守っていた。
「……これで、用意できる最低限の物は整いました」
レオンは汗を拭い、クセノポンに報告の木板を渡した。救援に必要な水、布、担ぎ手、そして空荷車を揃えるという、彼に課された実務責任は果たした。軍が完全な分裂から一歩戻り、再び一つの秩序の元で動き出したのは、まあ、僥倖だったのだろう。
だが、代償はあまりにも重い。
救援隊を出すために物資と人員を割いた結果、この宿営地を預かる残留部隊の配給はさらに薄くなり、残された火床を守る警備の網の目は限界まで引き伸ばされてしまった。本隊の防備を損耗させるという、小さな失敗の種はすでに撒かれている。
ブォォォー、と、宿営地の外縁から前進を告げる角笛の音が響いた。
「レオン。そこまで。あとは私たちが走る番」 ダフネが短く告げ、短槍の柄を握り直した。
レオンは、遠ざかっていく空荷車の車輪の軋みと、救援へと発つ兵たちの足音を、苦い義務感を抱えたまま、ただじっと見つめていた。




