第121話 道案内
救援から戻った後の行軍は、勝利というより、敗残者を抱えた撤収に近かった。
レオンの視線の先にあるのは、泥を噛んで進まない荷車の車輪であり、兵たちの足元で今にも紐が切れそうな、ちびたサンダルだった。
あんな状況にも関わらず、いや、だからこそか…アルカディアとアカイアの若手強硬派は、戻ったものの融和せずに全体の四割以上の兵力を引き連れて勝手に先行。
さらに残った軍も、スパルタ人の代理将軍のネオンの隊と、クセノポンが率いる組とに、微妙な距離を置いて分かれていた。
偵察兵や軽装歩兵のバランスが最悪になった我が隊の進軍速度は、見る影もなく落ちている。
「主計殿、このままの速度だと、明後日には塩の在庫が底を突きます」
歩きながら蠟板を覗き込んできたテオドルスが、悲壮な顔で報告してくる。
(塩がなくなったら、ただでさえ不味い大麦の雑穀粥が、完全に泥の味になるな……)
レオンは内心でため息をつきながら、尖筆で数字を削った。
そんなギリギリの行軍の中でも、ダフネの「周辺警戒」だけは隙がない。彼女の視線は、鬱蒼としたトラキアの森に向けられており、いつでも動けるよう、腰の短剣の鞘にそっと手を添え続けている。彼女が放つ静かな緊張感だけが、この締まりのない行軍の唯一の防壁だった。
「おい、坊ちゃん。
耳寄りな話があるぞ」
ぬっと横から並んできたのは、ミュロンだった。その顔には、隠しきれない不機嫌さが張り付いている。
「兵たちの間で、妙な噂が流れてる。
昨日までの『大戦果』だった噂は、捕虜じゃなくて、自分たちの死体の数だってよ」
「……敵の大戦果、ですか…全然耳寄りじゃないですね…」
「ああ。おかげでうちの連中も目は冷めた。
が、かなりやる気がそがれてる」
レオンは歩みを止めずに、ミュロンを見上げた。
「耳よりって、それだけですか…遅かれ早かれ正気に帰りましたよ…塩抜きの粥を食べさせれば…
あとまぁ、何かを言ったところで何もかわりませんよ。
へこませときやいいんです。
今夜の分の薪をどう確保するかの方が、よほど重要です」
「いや、塩抜きの粥を食わせると余計に、飛び出すと思うがよ…
で、あれか、補給のほうもかつかつか…全方位的に余裕がないな」
ミュロンはそう言いながら、その表情から少しだけ焦燥感が引いたのを見逃さなかった。
古参の半隊長にとっても、ここ数日の中のごたごたは答えたのだろう。
よくわからない愚痴とも…軽口とも言える内容は、彼の精神安定に寄与したようだ。
その日の夕刻。野営地に着くやいなや、レオンは配給の調整に奔走した。
物資が足りない中での不公平は、即座に暴動につながる。レオンは僅かに残っていた乾燥イチジクを、行軍で体力を消耗した傷病兵に優先して配分する計算を組み上げた。
「これなら、不満を最小限に抑えて今夜を乗り切れます」というテオドルスの言葉通り、配給幕の前での小競り合いは起きなかった。
だが、事務処理だけで人間の心まで完全にコントロールできるわけではない。
兵たちの「士気低下」までは止められなかった。火床の周りで生返事を繰り返す兵たちの背中や、手入れもされずに地面に投げ出された槍が、軍の芯が冷え切っていることを物語っていた。これが、今のレオンには覆せない。
そして、夜半。
野営地の外縁から、引き裂くような見張りの怒号が響いた。
「何事だ!?」
ミュロンが即座に駆け出し、ダフネがレオンの前に立つ。
闇の向こうから現れたのは、我が隊の兵ではない。数日前、自分たちの荷を乱暴に奪い取って去っていった、アルカディア勢の敗残兵……前回救援できなかった残りの一部だった。
彼はレオンたちの火床に転がり込むと、凍りついたような痛々しい声で叫んだ。
「まだ残ってるなかまがいる……頼む、助けてくれ!!」
彼らのしでかした愚かな行為のツケが、最悪の形でレオンたちの元へと回ってきたのだった。
つまり、彼らは陣地まで…わざわざ敵を案内してきたわけだ…




