第119話 三つに割れた軍
朝の光が宿営地を照らし出しても、そこにあるのはただ不自然に空いた広大な空白だけだった。
アルカディアとアカイアの軍勢、約四千五百人が海岸沿いの道へと姿を消した。彼らが去った後の地面には、乱暴に踏み荒らされた無数の足跡と、中途半端に掻き消された火床の灰だけが残っている。
残された軍もまた、一つではなかった。
ラケダイモン(スパルタ)人の将軍ケイリソポスの死後、その部隊を引き継いだ士官ネオンは、自分たちの隊列を少し離れた場所に置き、別々の旗印の下で野営を始めていた。全軍の瓦解を防ごうと奔走するクセノポンの部隊とは、もはや配給列も、見張りの連絡系統も交わっていない。
「三つの胃袋、三つの名簿、そして三つの危険……なかなかに詩的な響きだ…」
レオンは、蝋を塗った木板に尖筆で線を引っぱりながら、誰にともなく半ば無意識に呟いた。
「主計殿。残存兵力の数字は出ているか」
落ち着いた、しかし疲労の滲む声が横から掛かった。クセノポンだった。彼は、自身の破れた外套の裾を気にする様子もなく、レオンの手元を覗き込んできた。
「はい、すぐに出せます。
ただ、もう『一つ』ではなくなってしまったのが残念ですが……」
レオンは計算盤の弾き玉を端へ寄せ、書き直したばかりの名簿の束を示した。
「現在のところ、クセノポン殿の指揮下にある兵は約三千。ネオン殿の部隊が約二千。アルカディア勢の離脱により、消費量そのものは半減しました。しかし、彼らが荷車と駄獣の多くを力ずくで持っていったため、歩兵一人あたりの運搬負荷は跳ね上がっています。幸い、なぜか糧食の類はこっちに多く残ってるのですが……」
なんでなんですかねぇとレオンは主計官ぽいぼやきをつぶやく。
クセノポンは、くすりとわらった。
だいたい、なぜ僕が分裂した三つの軍の帳尻合わせまでやらされているのか、よくわかってないのですよとぼやくレオンに。
「まあまあ、兵站監殿」と言い、さらにレオンの顔を顰めさせる。
そんなこんなで、溜め息をつきながらも、レオンの口調は丁寧な実務報告の域を外れなかった。
「そうか。実務が崩れていないなら、まだ動けるな」
クセノポンは短く応じ、自陣へと戻っていった。彼は言葉と構想で軍の屋台骨を支えようとしている。だが、言葉だけで腹は膨れないし、裂けた帳簿が元に戻るわけでもない。
昼前になって、恐れていた噂が風に乗って届いた。
「先行したアルカディアの連中、ビテュニア人の村落に手当たり次第に踏み込んで、略奪を働いているらしいぞ」
偵察に出ていた軽装歩兵の報告が、配給幕の前に広がった。早く帰りたい、そして戦利品を独り占めしたいという彼らの焦りが、最悪の形で行動に現れたのだ。
(馬鹿な。手あたり次第に土地の者を怒らせれば、補給どころか一歩も前に進めなくなる。
事前に勢力を調査して、どこと一緒にやるかの選定をしないと……)
略奪で一時的に穀物を得たとしても、逃げ場のない異郷で周辺住民すべてを敵に回せば、必ず手痛い逆襲が来る。
「テオドルス、聞いての通りです」
レオンは立ち上がり、若い記録係に指示を飛ばした。
「すぐに予備の水袋と、清潔な布を集めてください。それから、折れた槍の柄を利用した担架棒の確保も。急いで」
レオンが言い終わるよりも早く、ダフネが動いていた。彼女は無言のまま、配給用の籠の陰から予備の包帯布を引っ張り出し、腕に巻き付けやすい長さに裂き始めている。余計な問い返しは一切ない。彼女もまた、この後に何が起きるか、現場の匂いで察知しているのだ。
「おい、主計殿」
案の定、不満気な声が飛んできた。ミュロンだった。彼の後ろには、重装歩兵の顔役であるカレスも立っている。
「勝手に出て行った連中のために、なんでこっちが布と水を減らさなきゃならねえんだ。自業自得だろ。俺たちの備蓄を回す義理はねえ」
カレスも深く頷く。
「俺たちの隊列を守るのが先だ。奴らが略奪で得た麦をこちらに分けるわけでもないのにな」
彼らの怒りはもっともだ。しかし、このまま放置すれば、軍全体が致命的な打撃を受ける。
「彼らを憐れんで助けるのではありません。カレス殿、ミュロン殿」
レオンは、集めかけた水樽から手を離さず、二人の古参兵を真っ直ぐに見据えた。
「無秩序な略奪に散った彼らが、ビテュニアの騎兵に逆襲されたらどうなりますか。必ず潰走し、この宿営地へ雪崩れ込んできます。その時、血を流し、恐慌状態に陥った四千の人間を受け止める準備がなければ、私たちの隊列ごと跡形もなく踏み潰されます」
レオンはあえて冷徹な数字と帰結を並べた。
「これは彼らのための慈悲ではなく、私たちの足場を守るための止血帯です。どうか、担ぎ手の手配をしてください」
理屈で逃げ道を塞がれ、ミュロンは忌々しそうに舌打ちをした。
「……腹は立つが、理屈は通ってるな。
おい、聞いたかお前ら。
怪我人を受け止めるぞ。
担ぎ手は俺が選ぶ。足の遅い奴は置いていくからな」
ミュロンが荒っぽい現場語に翻訳して号令を掛けると、不満を漏らしていた兵たちも渋々ながら動き始めた。残された備蓄から水と布を捻出し、防衛と収容の準備を整える。
軍を完全に瓦解させないための、小さな一手だった。
しかし、連絡系統が絶たれた現在、アルカディア勢がどこで略奪を行い、どこまで敵の怒りを買っているのか、正確な位置情報は掴めていない。準備を整えたところで、敵の規模すら分からないのだ。
その見えない恐怖が、足元から這い上がってくる。
やがて、遠くの丘陵地帯から、一人の伝令が転がるようにして宿営地へと駆け込んできた。その生皮の靴は泥にまみれ、息も絶え絶えだった。
「アルカディア勢が……っ、丘の上で、トラキアとビテュニアの連合騎兵に完全に包囲された! 全滅の危機だ!」
予想通り、いや、予想以上に最悪の報せだった。レオンは、ダフネが黙って差し出した水袋を強く握りしめた。
(遅ればせながら)
黒海沿岸のギリシア人都市について少し補足です。
作中での位置づけは、海は「ギリシア」、陸は「ペルシア・異民族」であり、黒海沿岸のギリシア都市は、母都市から分村してできた植民都市です。
都市の内側は、 完全なギリシア文化圏。ギリシア語が通じ、広場があり、独自の議会と海上商人たちがいます。
城壁の外側すぐにはコルキス人、パフラゴニア人、ビテュニア人といった土着の好戦的な部族(ギリシア人から見た偏見ですが)が住んでおり、さらにその後ろにはペルシアの太守の巨大な軍事力が控えています。
これらの都市は、強力な海軍力と交易ネットワークによって独立を保っていますが、陸側へ少しでも攻め込めば、あっという間に異民族やペルシア軍にすり潰されてしまうという緊張関係の中で生きています。
そこに1万人の陸軍力(しかも飢えている)が入り込むことの影響は、実は経済的な話だけでなく政治的な影響も大きいのです。




