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ぼろぼろの負け戦をなんとかしてまあまあの負け戦にする方法――研究塔に残れなかった学者のなりそこないのサバイバル  作者: 方丈
BOOK Ⅵ:帳簿役、フィロンの偉大さに気づく(あるいは、内向きの政治のほうがメンドクサイことに気づく)
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第118話 帳面は、一冊では済まなくなる

 夜が明けきらぬうちから、宿営地には天幕の杭が乱暴に引き抜かれる音が響いていた。


 時を少し前に戻す。

 これはレオンたちが真っ二つに裂かれた名簿の前で、暗澹たる気持ちになる少し前のこと。


 アルカディア人とアカイア人の兵たちが、武具を鳴らし、性急に荷をまとめ始めている。ヘラクレアとの交渉決裂と、昨夜の軍議での衝突を経て、彼らはついに全軍からの離脱という物理的な行動に出たのだ。四千五百という数が動けば、それは単なる分派などではない。一つの軍が、内側から引き裂かれることに等しい。


「待ってください。その麦袋は第参部隊の予備配給分です。勝手に荷車へ積まないでください」


 レオンは、黒い蝋を塗った木板と尖筆を抱え、怒号の飛び交う荷車の列に割って入った。丁寧な言葉遣いを崩さないよう努めたが、焦りの混じる声は砂埃と兵のざわめきに掻き消されそうになる。


「うるせえ! 俺たちアルカディアの兵が一番前線で戦ってきたんだ! 帰りの食い扶持を多めに持っていくのは当然の権利だろうが!」


 大柄な重装歩兵ホプリタイが、使い込まれた籐盾でレオンを力任せに押しのけようとした。


 その瞬間、ダフネがスッと滑り込んできた。彼女は短剣を抜かなかった。ただ、大男の盾と、レオンが抱える木板の間に絶妙な角度で立ち塞がったのだ。レオンを庇うというより、「名簿を奪わせない」という意志の表れだった。その無言の立ち位置と冷たい視線だけで、重装歩兵の足が一瞬止まる。


「……無理に止めようとはしません」


 レオンはダフネの背越しに、冷えた声を絞り出した。


「ですが、全軍の資産として計上されている以上、誰がどれだけ持っていったかの記録は必要です。そちらの主計官か書記官にこの木板へ受領の印章スフラギスを押すよう伝えてください。そうしなければ、あなた方は正当な分け前を得た兵ではなく、ただの略奪者として帳面に残ることになります」


 理屈と数字で逃げ道を塞ぐための、文官としての静かな抵抗だった。重装歩兵は忌々しそうに舌打ちをしたが、仲間の荷駄頭護衛の半隊長を呼んで乱暴に印を押しつけ、麦袋を自分たちの荷車へ放り投げた。

 主計官も書記官も来なかった。


「主計殿……駄目です。手が、追いつきません」


 すぐ後ろで、テオドルスが計算盤アバコスの弾き玉を震える指で弾きながら、泣きそうな声を上げた。


「アルカディア出身の分隊が、アテナイ系の隊の荷車ごと持っていこうとしています。それに……」


 若き従者は、広場の方を指差した。

 そこには、行き場を失った数十人の負傷兵たちが、生皮のカルバティナイを引きずりながら、不安げな目でこちらを見ていた。


「あの怪我人たちはアルカディア出身ですが、彼らを運んでいた担ぎ手と傷治師はアカイアの者ではありません。彼らは、どちらの帳面に数えればいいんですか……?」


 レオンは息を呑んだ。

 軍が割れるということは、高尚な名誉や思想の対立などではない。一つの配給帳が二つに裂け、誰がどの麦袋を食い、誰が血の滲んだ包帯を巻き直すのかという、泥臭い責任の所在が宙に浮くことなのだ。家政オイコノミアの瓦解。その嫌な理解が、レオンの胃の腑を重くする。


「書け、主計殿」


 背後から、低く掠れた声が降ってきた。ミュロンだった。半隊長は、混乱する荷車の流れを鋭い目で見据えながら、レオンの背を叩いた。


「理屈はいいから、誰が何を持っていったか、とにかく書き残せ。

 多分、フイロンの旦那ならまゆひつと動かさねえぞ。『記録しろ』とか命令するだけだろうさ。


 置いてかれた負傷者の数もだ。

 あとで必ず揉める。

 揉める前に、事実を帳面の上で固めちまえ。声のでかい奴に勝たせるな」


「……はい、そうですね、ミュロン。おっしゃる通りです。

 テオドルス、名簿を二つに分けます。新しい木板を出してください」


 だいたい、なぜ僕がこんな馬鹿げた略奪まがいの引っ越しの帳尻を合わせなければならないのか。


 内心で毒づきながらも、レオンは尖筆を握り直した。荷車の向き、持ち去られる皮袋の数、引き抜かれる傷治師の布の束を、ただひたすらに記録し続ける。感情を交えず、物理的な現物の移動だけを追う。それが、この理不尽な分裂の中で、彼にできる唯一の秩序の維持だった。


 やがて、朝日が完全に昇り切る頃、アルカディアとアカイアの部隊が宿営地を出発していった。彼らは先を急ぐように、土を蹴立てて海岸沿いの道を進んでいく。


 レオンの手元には、最低限の受領記録と、二つに裂けた新しい配給帳が残った。分派が持ち去った物資の記録を残せたのは、良かった。


 しかし、広場に残された数十名の負傷兵や、どちらについて行くべきか迷って座り込む非戦闘員たちの扱いは、結局誰の責任にもならないまま、曖昧に置き去りにされていた。


 彼らの背中を見送る兵たちの間には、言葉のない不安が広がっている。

 一万の軍勢は、今や完全にふたつに割れ、その内実も、千々に分かれている。


 そして、この海岸沿いの道が、少数の集団にとってどれほど危険なものになるか、まだわからない。


 ギリシア人たちはまだ誰も本当の代償を払っていなかった。

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