第117話 門は、閉じるためにもある
ヘラクレアの城門へと向かう使節の背中を見送ったとき、レオンの胸を去来したのは、予言が当たることへの暗い確信だけだった。
リュコンをはじめとする強硬派の百人隊長たちは、まるで戦勝祝いの貢ぎ物を受け取りに行くかのような足取りで、意気揚々と去っていった。宿営地では、残された兵たちがすでに「一万ダレイコス」の分け前をどう使うかで盛り上がっている。
「主計殿、兵たちの間で、次の配給からヘラクレアの麦を前借りできないかという要望が出ています。どうせ明日には山ほど運び込まれるんだから、今ある底の浅い袋を空にしても構わないだろう、と」
テオドルスが、困惑と呆れの混ざった顔で帳面を抱えてきた。
「却下です」
レオンは尖筆を握る手を止めず、冷淡に言った。
「存在しない穀物を勘定に入れちゃだめです。ぼく……ぼくらの仕事は、今ここにある物理的な現実を数えることですよね。ヘラクレアの民会が金を出すと決めるまでは、一枚の硬貨も、一粒の麦もこの世には存在しないものと思い定めましょう」
学問の塔(タナグラ系)で叩き込まれた家政の鉄則は、「不確実な未来を資産に計上してはならない」というものだ。だが、飢えと疲弊に苛まれた一万の敗走軍にとって、その鉄則はあまりにも冷たく、退屈なものに映るのだろう。
その日の夕刻、レオンの不吉な予測は、最悪の形で現実となった。
使節たちが、怒りで顔を真っ赤に染めて宿営地に駆け戻ってきたのだ。その後ろからは、偵察に出ていた軽装歩兵たちも血相を変えて戻ってくる。
「城門が閉まった! あの不実なヘラクレアの奴らめ、俺たちの要求を聞くや否や、『民会で議論する』と時間を稼ぎおって!」
リュコンが天幕の前に盾を投げつけ、怒号を上げた。
「それだけではない! 奴ら、使節が城内で待たされている間に、周辺の農村から家畜や穀物、果ては動かせる財産をすべて城壁の内側に運び込みやがった! 今や城壁の上は、重装歩兵と弓兵で埋め尽くされている!」
宿営地が、一瞬にして冷や水を浴びせられたように静まり返り、次の瞬間には倍の音量の怒りと動揺に包まれた。
「裏切りだ!」
「同じギリシア人でありながら、ペルシアを退けた英雄を飢え死にさせる気か!」
兵たちの叫びを聞きながら、レオンはただ、こめかみを指頭で押さえた。裏切りでも何でもない。一万の武装集団に理不尽な巨額を要求されれば、都市が取るべき唯一の合理的生存戦略は「籠城」だ。交渉の余地を自ら叩き潰したのは、他ならぬリュコンたち自身だった。
だが、一度火がついた群衆の熱狂は、自分たちの非を認める方向には進まない。
その夜遅くに開かれた緊急の軍議は、もはや戦略を話し合う場ではなく、責任のなすりつけ合いと、抑えきれない不満の爆発の場と化していた。
「こうなったのも、クセノポンや他の将軍たちが生ぬるい態度を取っていたからだ!」
アルカディア人の百人隊長カリマコスが、大声で怒鳴った。
「アテナイ人や他の都市の連中に引きずられているから、俺たちアルカディアやアカイアの兵が割を食うのだ。よく考えろ、この軍の過半数を占めているのは誰だ? 俺たちアルカディアとアカイアの人間だろうが!」
その言葉に、天幕の内外から凄まじい賛同の声が上がった。
レオンは背筋が凍るのを感じた。恐れていた事態だ。ケイリソポスという「ラケダイモンの重し」が消えたことで、軍の中に潜在していた出身地ごとの亀裂が、一気に口を開けたのだ。
「俺たちは独立する!」
リュコンがさらに言葉を重ねる。
「これ以上、アテナイ人の小賢しい演説に付き合う必要はない。アルカディアとアカイアの兵だけで独自の軍を編成し、ヘラクレアの周辺を略奪するか、他の方法で自力で海を渡る! 戦利品も、穀物も、すべて俺たちだけで分けるのだ!」
「待て! そのような分裂は全軍の破滅を招く!」
クセノポンが制止の声を上げ、ティマシオンもそれに続こうとしたが、激昂した兵たちの怒号はそれを完全に掻き消した。一度「自分たちだけでやれば儲かる」という幻想に取り憑かれた人間には、兵站の維持という地味な現実など目に入らない。
軍議は決裂した。
全軍の一体性を象徴していた「一万の軍勢」は、この夜、事実上崩壊した。
アルカディア・アカイアの連合隊(約四千五百)、旧ケイリソポス隊を引き継ぐラケダイモン人のネオンの軍勢(約二千)、そしてクセノポンが率いる残りの部隊(約三千)――軍は三つに引き裂かれることが決定した。
「主計殿……これ、どうすればいいんですか」
夜更けの補給幕舎で、テオドルスが泣きそうな声で、真っ二つに破かれた名簿の束を見つめていた。
アルカディアとアカイアの兵たちが、自分たちの分の兵糧を今すぐ引き渡せと要求し、幕舎に押し入ってきたのだ。彼らは力ずくで荷車から麦袋を奪い取り、レオンが管理していた帳簿など意にも介さず、自分たちの籍を削って去っていった。
「どうもしないよ、テオドルス。ただ、残された数を書くんですよ」
レオンの指先は、冷徹なほどに動いていた。尖筆が蠟板を削る音が、静かな幕舎に響く。
「四千五百人が抜けたということは、明日からの消費量は半分近くに減る。だが、彼らが力ずくで持っていった穀物の量は、正規の配給量を遥かに超えている。差し引きで言えば……ぼくたちの手元に残された備蓄は、三陣分に分け合うことになってもなお、あと五日と持たない」
数字は嘘をつかない。軍が分裂したところで、この荒涼とした黒海沿岸に突如として食糧が湧き出るわけではないのだ。
「主計殿、あいつら、馬鹿だな」
幕舎の入り口に、ダフネが静かに立っていた。彼女の短剣は、いつでも抜けるように引き紐が緩められている。
「小分けになった肉は、狼に狙われやすい。
山の猟師なら誰でも知ってる。
一万いたからペルシア兵も手を出せなかったのに、三つに分かれたら、ただの餌食だ」
「……その通りだよ、ダフネ。
すくなくとも、過去の歴史では分裂した軍は、個別に打ち滅ぼされることが多い……」
レオンは蠟板を置き、深く息を吐き出した。
「だけど、人間は腹が減ると、自分が狼の餌になるかもしれないことより、隣の奴より先に肉を食うことしか考えられなくなる。家政の破綻とは、常にそういう人間の心の破綻から始まるんだ」
遠く、アルカディア人たちの宿営地からは、独自の遠征を控えて気勢を上げる、空虚な歓声が聞こえていた。
引き裂かれた帳簿の余白を見つめながら、レオンは、この三分された怪物が、次にどのような悲劇の数字を刻むことになるのかを思い、ただ胃の腑を締め付けられるような痛みに耐えていた。




