第116話 同胞なら倉を開ける、という理屈
黒海から吹きつける湿った風が、木々の葉を揺らしていた。
ギリシア人の植民都市、ヘラクレアへの行軍路を進む傭兵団の足取りは、ここ数日に比べて明らかに軽かった。兵たちの間には、どこか弛緩した、それでいて身勝手な期待が広がっている。
同じギリシア人の都市だ。飢えた同胞を見捨てるはずがない。俺たちがペルシアの奥地から王の軍勢を退け、ここまで戦い抜いてきたのだから、大いに歓迎して倉を開けるのが筋だ――。
前線で命を張ってきた重装歩兵たちからすれば、それは当然の権利のように思えるのだろう。
だが、彼らの胃袋を満たすべき物資を預かる身としては、帳面をめくるたびに胃の腑が痛む。
旧プロクセノス隊の補給状況は破綻寸前だった。荷車に積まれた麦袋はどれも底を突きかけており、配給の制限をこれ以上厳しくすれば、兵たちの不満は配給幕を押し潰しかねない。
破綻を早めた原因は、一つではない。
長い行軍。病人と負傷兵。港で膨れた物価。分裂しかけた指揮系統。
そして、デクシッポスが持ち逃げした船と銀貨。
あれはただの盗みではなかった。船一艘分とその人足、そして資材と銀貨……ラケダイモンで船を押さえるための金が消え、相手都市(トラペズス人)に対する信用も傷ついた。
トラペズスは黒海沿岸にあるギリシア人の町だった。だから市場を開き、贈り物を出し、船も貸した。
だが、その善意の一部をデクシッポスが持ち逃げした。隊の資材と軍資金の一部をもって。
そのせいでトラペズス人は、支援を手控えるようになり、軍はその賠償で疲弊し、困窮した。
トラペズス人と仲の良い都市は、すでに我々に対して、よい印象は持っていないだろう。
「……数を合わせるだけでも、頭が割れそうだ」
ぼくとしては…、と内心で呟きかけて、レオンは頭を振った。感傷を帳面に持ち込んでも、穀物の粒は増えない。地方の学問の塔で叩き込まれた、事実にのみ拠るという実務の型が、辛うじてレオンの指先を動かしていた。
だが、その軍全体の脆い均衡を支えていた、最も重い楔が抜ける時が来た。
「主計殿、クセノポン殿がお呼びだ。ケイリソポス将軍の天幕へ」
伝令官のトルミデスが、いつもより格段に低い声で告げた。その表情の硬さだけで、レオンはすべてを悟った。
天幕の中は、驚くほど静かだった。
横たわるラケダイモン(スパルタ)系の将軍ケイリソポスの顔からは、すでに生気が失われている。数日前から続いていた高熱と激しい咳が、ついにこの古参の肉体を内側から焼き尽くしたのだ。彼の枕元には、ラケダイモン側の権威の象徴であった、細い使者の杖が主を失ったまま置かれていた。
クセノポンをはじめ、ティマシオンやクサンティクレスといった将軍たちが、言葉もなく寝台を囲んでいる。
(短く場を締める…そして決断に意味を付与していた軍事的な重しが消えた)
レオンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。ケイリソポスは、多くを語らない男だった。だが、彼が「行くぞ」と言えば前衛は動き、彼が「止まれ」と言えばどんなに不満を抱えた兵でも足を止めた。ラケダイモンという巨大な背景と、彼自身の即断の力が、この寄り合い世帯の傭兵団を辛うじて一つの形に繋ぎ止めていたのだ。
その大黒柱は、敵では無く、病に敗れた。
何の劇的な戦果もなく、ただの病で呆気なく崩れ去ってしまった。
「テオドルス、名簿の修正を。
ケイリソポス殿の連絡系統を引き継ぐ隊長たちの名を書き出して下さい。
絶対に調整が必要になります。
離脱するものも出るでしょう……どこが空席になったか、すぐに把握しなければ」
レオンは、実家から付けられた若い記録係のテオドルスに素早く指示を出した。悲しんでいる暇など、実務の場には存在しない。指揮系統の断絶による混乱を防ぐため、各隊への伝令路を帳面の上で組み直す。これが、今のレオンにできる最低限の秩序の死守だった。
しかし、ケイリソポスの死がもたらした真空は、レオンの帳面が追いつかない速さで、宿営地の空気を変質させていった。
亡骸を天幕から搬出した直後、臨時の軍議が開かれた。集まった百人隊長たちの顔には、指導者を失った不安よりも、目前に迫ったヘラクレアへの「要求」に対する焦りが浮かんでいる。
「ケイリソポス殿が身罷られたのは痛手だが、感傷に浸っている余裕はない」
重装歩兵側の顔役である百人隊長カレスが、大きな盾に手を置きながら声を上げた。
「目の前にはヘラクレアがある。
俺たちはペルシアの王を震え上がらせ、ここまで戦い抜いてきた一万の軍勢だ。
同胞の都市ならば、その武功を称え、俺たちの腹を満たすだけの供出をして当然だろう」
その言葉に、アカイア系やアルカディア系の強硬派であるリュコンやカリマコスが敏感に同調した。
「そうだ。生ぬるい物乞いなど必要ない。
一万ダレイコス金貨の軍資金と、全軍が一ヶ月は食いつなげる穀物を要求すべきだ。
同じギリシア人なら、それくらいの蓄えはあるはずだ。もし拒むなら、力ずくでも奪えばいい。俺たちには、その力があるのだからな」
百人隊長たちの間に、賛同の地鳴りのような声が広がる。飢えとこれまで生き残ってきたという驕りという両親から、最悪の形の子どもが生まれそうになっていた。
レオンは頭の中で、中央の学問の塔で聞いた都市の構造と、現在の補給線を冷徹に交差させた。家政の延長でしかない勘定の 論理が、彼らの熱狂に対して激しい拒絶反応を示していた。
(一万人を超える武装した敗走軍が、金をよこせと脅しをかけながら近づいてくるなど、都市の側から見れば客人でも同胞でもない。ただの武装した災害だ)
脅せば倉が開くなど、腹が減った者の甘い幻想に過ぎない。そんな過大な要求を突きつければ、ヘラクレアの住民は恐怖し、歓迎の宴の代わりに強固な城門を閉ざすに決まっている。
レオンは一歩前へ出、将軍たちとカレスの視線の間に割り込んだ。
「カレス殿、リュコン殿。ヘラクレア側にも相応の都合と、何よりこちらの兵数に対する恐れがあります。
まずは使節を送り、対等な市場の開設を求めるのが順序です。こちらの算定では、彼らが現物で供出できる現実的な穀物の線は数千メディムノス。
支払い保証の木札を交わし、段階的に買い上げるべきです。あまりに過大な要求は、交渉の余地を自ら潰すことになります」
レオンは丁寧な口調を維持しながら、蠟板に刻んだ現実的な要求額と、段階的な調達手順を淡々と提示した。これが、軍を「無法な略奪集団」に落とさないための、実務者としての防壁だった。
しかし、リュコンが鼻で笑い、レオンを冷たい目で見下ろした。
「主計殿、相変わらず紙の上の計算ばかりだな。そんな弱腰の交渉で、一万の胃袋が満たせるか。大体、お前のような帳簿役が軍議に口を挟む筋合いではない。ケイリソポス殿が生きておられれば、ラケダイモンの威光を背景に、もっと強く出られたはずだ。
お前の小賢しい数字など、兵の腹の足しにもならん」
カリマコスも同意の声を上げ、軍議の空気は完全に強硬派の怒号に押し流された。
クセノポンが何か言いたげに口を開きかけたが、彼もまた正式な全軍の総指揮官ではない。
ラケダイモン系の重しが消えた今、アカイアやアルカディアの兵たちの暴発を力で抑え込むことは困難だった。ケイリソポスが存命であれば、「黙れ」の一言で潰したかもしれない強硬論が、堰を切ったように広がっていく。
レオンの提示した現実的な調達案は、何一つ決議されぬまま、軍議の隅へ追いやられた。
「……まぁ、そうなるよね」
宿営地の片隅に戻ったレオンは、尖筆を握る指の震えを隠すように、冷え切った自嘲の息を吐き出した。正論が常に通るなら、自分は今頃中央の学問の塔で、温かい葡萄酒を飲みながら書物をめくっていただろう。
「主計殿……」
短い声と共に、無言で水袋が差し出された。ダフネだった。
レオンは水袋を受け取り、喉を鳴らして冷たい水を飲み干した。少しだけ、思考の熱が引く。
「同胞だの何だの言ったってな、主計殿。倉ってのはゼニ金で開くもんだ」
隻眼のシラクサが、胡乱な笑みを浮かべながら近づいてきた。
「相手が腹を括って門を閉めちまったら、こちらの武威も帳面もへったくれもないぜ。
あのお偉いさんたちは、都市ってやつがどれだけ頑固になれるかを知らねえんだ」
「ですよねぇ…ええ、分かっています」
レオンは水袋をダフネに返しながら、重い吐息を漏らした。
「分かっているから、余計に嫌なんです。
あの過大な要求が使節によって運ばれたとき、ヘラクレアの城門がどう動くか。最悪の予測が、頭の中で綺麗に組み上がってしまう」
少し離れたところで、ミュロンが腕を組み、兵たちが使節の選定で騒いでいる様子を冷ややかに見つめていた。
「まともな奴、そして短く正しく決める奴が消えた。
これから声のでかい奴らが、勝手に縄を引っ張り合うぞ。主計殿、お前の帳面が裂けなきゃいいがな」
そしたらオレ達は全滅だな、と、ミュロンのそばにいた古参兵がボソリとつぶやく。
古参兵の呟きは、不吉な予言のように夜の空気に溶けていった。
遠く、夕闇の向こうには、ヘラクレアの堅牢な城壁の輪郭が薄ぼんやりと浮かび上がり始めている。軍議を制したリュコンとカリマコスたちは、一万ダレイコス金貨の要求を携えた使節の派遣を決定し、明朝の出発に向けて気勢を上げていた。
それが、どのような拒絶を招くかも知らぬまま、一万の胃袋は破綻への道を歩み始めていた。




