第115話 推されることは、罠にもなる
夜のハルメネの港は、波音よりも兵たちのざわめきの方がうるさかった。
火床の周りでは、昼間から続く「一人の総指揮官を立てるべきだ」という熱が、冷えるどころか一層強く燻っている。
「各将軍の指揮下にある人数の確認、終わりました」
テオドルスが、煤けた蠟板を差し出した。
受け取ったレオンは、揺れる火の光に蠟板をかざした。各隊の規模、重装歩兵と軽装歩兵の比率、それに付随する荷駄の数が乱雑な文字で刻まれている。
これをまとめ上げるのは骨だ。各将軍の思惑が絡めば、たかが麦一袋の配分先を決めるだけでも半日かかる。
――もし、指揮系統が一つになれば。
レオンは尖筆の柄で蠟板の縁を叩いた。間違いなく、配給も名簿の整理も格段に早くなる。各将軍への根回しという無駄な手順が省けるからだ。計算の上では、実務の効率は劇的に上がる。
「一人に決まれば、レオンの仕事は楽になる?」
火床の向こう側から、ダフネが短く尋ねてきた。彼女は剣の刃こぼれを砥石で軽く均している。
刃こぼれはならしすぎてはいけないそうだ、彼女曰く。
理由は聞かなかった。なんだか物騒な理由に違いないから。
「帳面の計算と承認は早くなります……ただ、誰を上に戴くかで、後で払うツケが変わる…かもですね」
「ツケ?」
「この軍が次に向かう先は、ラケダイモン(スパルタ)の勢力圏です。彼らを差し置いて別の者を頭に据えれば、次の港で水も麦も買えなくなるかもしれない」
実務の都合と、政治的な得失。それが噛み合っていないから、レオンは帳面を見つめながらも嫌な汗をかいていた。
「厄介」
「ええ、受けても揉める。断っても揉める。この式は解けません」
ひとつうなずいたダフネは砥石を置き、興味なさそうに布で剣を拭った。
ただ事実を切り取る言葉。だが、その素っ気なさにレオンは少しだけ息を吐く。
……全くその通りだ。僕が一人で蠟板を睨んだところで、事態が好転するわけではない。
翌朝、軍は広い港の広場に円座を作った。全軍集会である。
議題は一つ。「誰を総司令官とするか」。
本来であれば、ここでラケダイモンの将軍であるケイリソポスが、短い言葉で場を締めくくるべきだった。
「俺がやる」か「現状のままで行く」か、彼の一言があれば、不満はあっても軍は従っただろう。
だが、円座の特等席に座るケイリソポスは、分厚い外套に身を包んだまま口を開かなかった。
いや、開けなかったのだ。
彼が何かを言いかけた瞬間、ひどく乾いた咳が喉を突き破った。彼は布を口元に当て、背中を丸めた。以前のような、前衛を震え上がらせる声の張りはどこにもない。
その姿を見た兵たちの間に、動揺と焦りがさざ波のように広がった。
重しが、機能していない。
レオンは、懸念が的中していたことに憂慮した。
静まり返る軍議の場で、誰かの声が上がった。
「クセノポン殿に、全軍を率いていただきたい!」
その一声は、枯れ野に火を放ったように瞬く間に広がった。
「そうだ! ザパタス川で将軍たちが殺された夜、俺たちを絶望から立たせたのは彼だ!」
「彼なら、誰も不公平な扱いをしない!」
推挙の声が波のようにうねる中、当のクセノポンは円座の中央に立ち上がった。
彼は兵たちの歓呼を静かに受け止め、やがてよく通る声で話し始めた。
「諸君の信頼は、私にとってこの上ない名誉だ。一人の人間に指揮権を預ければ、夜を日に継ぐような不意の事態にも素早く対応できる。理屈は正しい」
そこまで言って、彼は言葉を切った。
「だが、私はその任を受けることはできない」
兵たちがどよめいた。
クセノポンは周囲を見渡し、諭すように言葉を続ける。
「考えてもみてほしい。ここには、ギリシア世界で最も力を持つラケダイモンの出身であるケイリソポス殿がおられる。彼を差し置いて、アテナイ人である私が全軍の将軍となれば、どうなるか……ラケダイモン側から見れば、それは明らかな不服従と映るだろう。結果、諸君らは次の都市の門を閉ざされ、帰るための船すら得られなくなる危険がある」
さらに彼は、今朝行った犠牲の占いでも凶兆が出たことを付け加えた。神意もまた、自分が頭に立つことを拒んでいる、と。
……見事な演説だ、とレオンは内心で舌を巻いた。
自分の名誉を保ちつつ、政治的な危険性を解き明かし、最後は神意という誰も逆らえない理由で蓋をする。軍全体がギリシア世界から締め出される破綻を、彼は論理で回避した。
だが。
「立派なご挨拶だが、腹に響かねぇな…たぶん、場は収まらんぞ、これは」
少し離れた場所で、腕を組んだミュロンがぽつりとこぼした。
その言葉通り、兵たちの顔からは熱が引き、代わりに鈍い失望が張り付いていた。
「結局、誰の責任で俺たちを帰すのか、決まらねえってことかよ」
「ケツまくっただけじゃないのか?」
兵たちにとって、政治的リスクなど遠い話だ。彼らが欲しいのは「今夜の麦」と「明日乗る船」を確約してくれる親玉なのだ。
クセノポンの辞退は、いわゆる「政治的に正しい判断」だった。だが、兵の不安を消し去ることはできなかった。
やがて、円座のあちこちから、苛立ちを隠せない声が上がり始めた。
「このまま誰が頭かも決まらず、ちんたら進んでたら餓死するぞ」
「次はヘラクレアの都市だ。同胞のギリシア人の街なら、俺たちを助ける義務があるはずだ!」
「そうだ! 今まで散々血を流してきた俺たちに、相応の供出をさせるべきだ!」
リュコンやカリマコスといった隊長格の男たちが、声を荒らげる。彼らは根からの悪党というわけではない。
ただ、擦り切れそうな現状をどうにかしたいという焦りが、「客人の歓待」という文化規範と「同胞」という都合のいい大義名分となって噴出しているだけだ。
レオンは手元の蠟板をきつく握りしめた。
そもそも今の困窮の原因を作ったのはデクシッポスという百人隊長だった。
彼は、ラケダイモンから船を借りて来る役割に立候補し、トラペズス人から借り受けた五十櫂船を、船員ごと持ち逃げした。そのせいで、船そのものだけでなく、海路の船を押さえるために積んだ銀貨と信用まで削られていた。
あげく、金銭賠償もする羽目になった。
あの船とそこに積んだ資材や銀貨があれば、歩かずに済んだ者が何人いたか。運ばずに済んだ麦袋がいくつあったか。今現在、どれだけの人足を使えているか、駄獣や荷車を雇えているか…
レオンは、数えたくもない数を、もう何度も頭の中で数えていた。
だからと言って、次の都市が、憐れんでお金をくれるか、倉庫を開放してくれるか? というと首をひねらざるを得ない。
同じギリシア人だからといって、一万人を超える武装集団を喜んで養う都市などあるわけがない。向こうから見れば、僕たちは客ではなくただの災害だ。
これまでも土地を散々荒らしてきたのだが、そのほとんどは敵地でありペルシアの支配層が裏切りを働いた報いであった。まだ、辛うじて言い訳はたった。
だが、ここはギリシア人の世界である。
そんなことは出来ない。
そんなことは皆分かっているはずだった。
客人の歓待にも限度がある。
わかっているハズながらも、飢えと帰郷への焦りに駆られた兵たちにとっては、自分たちの要求こそが絶対の正義になり、都合の良い論理にとびつきつつある。
統率の軸や芯のようなものが決まらない軍が、欲と焦りに突き動かされて他者の倉を狙おうとしている。
最悪の予感がした。このまま力任せに友好都市の門を叩けば、一体何が起こるのか。
――港の波音が、やけに冷たく聞こえた。
これは、またかつかつの補給で歩くのか…
レオンの心の中は、暗褐色に塗り込められた。
【補足】
「客人の歓待」
古代ギリシアには「ゼニア(Xenia)」と呼ばれる、神聖な「客人の歓待」の文化規範が存在しました。 これは、見知らぬ訪問者や旅人に対して、主人が食事や休息、贈り物を提供するという道徳的・宗教的な義務です。




