第114話 戻った男が、答えを持っているとは限らない
ハルメネの港は、ひたすらに広い。
海風は湿り気を帯び、魚の干物と潮の匂いが混ざり合って鼻を突く。山と雪に閉ざされた行軍に比べれば、間違いなく豊かな土地だった。
だが、その広さと豊かさが……全く嫌な事に今のレオンにとっては厄介のタネだった。
遊ぶところ、遊べるところが多い。
そして、金はない。
しかも…曲がりなりにもギリシア世界…文明の中心地なのだ。
つまり、山賊まがいの行為はもう出来ないのだ。
「主計殿、第三隊の麦が足りねえ。昨日配った分じゃ、今日の昼までもたねえぞ」
「それは昨日、隊の代表が酒屋でつまみ代わりに放出したからです。帳面には全量引き渡し済みとあります」
「紙に何て書いてあろうが、兵の腹は鳴るんだよ!」
怒鳴り込んでくるどこかの隊長を、レオンは感情を交えずに見返した。
手元の蠟板には、昨日配給した麦の量が正確に刻まれている。港の活気に当てられ、手元の麦を酒や干し肉に換えてしまったのは彼ら自身だ。ここで追加を出せば、ただでさえ心許ない全軍の在庫がさらに削れる。自制の欠如を主計に押しつけられても困る。
「追加は出せません。
出すなら、明日のあなたの隊の配給から前借りになります。それでいいなら書き直しますが」
淡々と告げると、隊長は忌々しげに舌打ちをして去っていった。
去り際の足音の乱暴さに、レオンは内心で小さくため息をついた。
だいたい、なぜ僕がこんな小競り合いの矢面に立っているのか。兵站監とはいえ、ただの学者のなりそこないだ。だが、ここにはフィロンはいない。僕が線を引かなければ、声の大きい者から順番に在庫を食いつぶし、しまいには弱い者が餓死する。
「嫌な役回りだね」
背後から、ダフネがぽつりと言った。彼女はレオンの横ではなく、蠟板と麦袋の間に立つようにして周囲に目を配っている。
「正直誰かに変わってほしいです……そうだ、ダフネ一遍やってみますか?」
「勘弁して。五分で槍を持ち出したくなる」
短いやり取りだ。
だが、ペルシアでともに逃げ回り山脈を超えるうちに、徐々に会話が長くなってきた。
そのとき、ミュロンが足早に近づいてきた。彼の表情は、いつもの嫌味なくらいの余裕を消し、何やら思案顔だった。
「おい、主計殿」
こういう時の、呼びかけは、いつもの坊ちゃんという響きではなく、レオンという、一人の職業人として相手を認める響きがある。
まあ、大体嫌なニュースとセットだ。
「今度はどこの隊が麦を使い込みましたか、半隊長」
「いや、飯の話じゃねえ」
ミュロンは港の奥、陸へと続く街道の方へ顎をしゃくった。
「ケイリソポス殿が戻った」
「ああ。先ほど港の方で見ましたよ」
そのやりとりを聞いた周囲の空気が一変した。
近くで不満げにたむろしていた兵たちが、弾かれたように顔を上げる。
「戻ったのか!」
「ラケダイモンが船を出してくれるんだな!?」
「銀貨の支援は? 報奨金は出るのか!」
ざわめきは波のように港中に広がり、散っていた兵たちが続々と桟橋の近くに集まり始めた。彼らの目は期待に血走り、まるで救世主を出迎えるかのようだ。
レオンは手元の蠟板を閉じた。
戻ってきただけで統率の重しにはなる。それは確かだ。ラケダイモンの威光を背負うケイリソポスの存在は、それだけで規律になる。
だが、レオンは知っている。彼が戻ったからといって、魔法のように船の数が増えるわけでも、空の麦袋が膨らむわけでもない。
やがて、人垣が割れ、数人の従者を連れたケイリソポスが姿を現した。
砂埃にまみれた外套。手には使い込まれた使者の杖。歩みは一定だが、レオンの目は彼の僅かな違和感を捉えた。
――足取りが、以前より重い。
前衛を駆け抜け、誰よりも早く突破口を開いていた男の歩幅ではない。顔色は土気色に沈み、外套の襟元から覗く首筋には脂汗が光っている。
レオンは目を細めた。呼吸だ。息継ぎが浅く、一定ではない。
(あれ、もしかて病を得て帰ってきてないか?)
ケイリソポスは、集まった隊長たち、そして無数の兵たちの中心に立ち止まった。
皆が固唾をのんで、彼の口から飛び出すであろう「朗報」を待っている。
「ケイリソポス殿、ご苦労様でした。アナクシビオス提督の返答はいかに」
クセノポンが進み出て、代表して問うた。
ケイリソポスは、周囲の熱気を持て余すように、短く、切り捨てるように言った。
「船はない。金もない」
一瞬、時が止まったかのような静寂が落ちた。
ケイリソポスはそれ以上、飾ろうとはしなかった。
「アナクシビオス殿から船の約束は取り付けられなかった。だが、軍を褒めておられたと、それだけは伝えてくれとのことだ」
それだけ。
期待の反転は、怒号よりも先に、重苦しい沈黙となって場を支配した。
兵たちの顔から色が抜け、やがてあちこちから、あからさまな舌打ちや落胆の吐息が漏れ始めた。
「褒め言葉で、故郷に帰れるのかよ……」
「結局、何も変わってねえじゃないか」
ケイリソポスは言い訳をしなかった。兵たちの失望の視線を真っ向から受け止め、ただ黙って立っている。
だが、レオンは見ていた。
ケイリソポスが、外套の内側に手を入れ、布で素早く汗を拭うのを。そして、込み上げてくる咳を、喉の奥で必死に噛み殺しているのを。
やはり――病だ。
ただの疲労ではない。前衛を預かる重しそのものが、内側から致命的に弱っている。
軍議は早々に解散となり、ケイリソポスは自らの天幕へと退いた。
残された兵たちの間には、行き場のない不満だけが重く沈殿している。
古参の兵の一人が言った。
「戻ってきただけで飯が増えるわけじゃねえってことか……ちっ、こりゃ一山あるな」
ミュロンが、唾を吐き捨てるように言った。
「全くだ。だが、奴らは期待しちまっていた。ラケダイモンが何とかしてくれるとな、一山ですみゃいいがよ……」
「ああ、なるほど、そうですね。私の中でうまく言語化できていませんでしたが…一山…まさにそうですよね。
その期待が外れた以上、不満は別の場所へ向かいます」
レオンは蠟板を再び開いた。期待で膨らんだ革袋が破裂したのだ。その破裂音は、必ず組織のどこかに亀裂を入れる。
「厄介なことになったね」
ダフネが、ケイリソポスの天幕へと運ばれていく薬草を浸した杯を目で追いながら、短く言った。
「気づいていましたか」
「顔色が悪すぎる……長くないかもしれない」
彼女の容赦ない言葉に、レオンは返す言葉を持たなかった。
ケイリソポスという男は、怖い。だが、彼の短い判断と前線での決断力は、軍が軍であるための重要な支柱だった。もしその支柱が折れれば、声の大きい者たちが堰を切ったように主張を始めるだろう。
その予感は、早くも夕刻の火床の周りで現実の形を取り始めていた。
薄い粥を啜る兵たちの間から、今までとは違う質の声が上がり始めていたのだ。
「将軍が何人もいるから話がまとまらないんだ」
「そうだ。あっちこっちで意見が割れるから、交渉も足元を見られる」
「このままじゃ埒が明かない。俺たちを一つにまとめる、一人の総指揮官を立てるべきだ」
夜の闇の中、焚き火の爆ぜる音に混じって、指導権を求める声がくすぶり始めていた。
レオンは火床の端で、蠟板の数値を睨みつけた。
一人に決めれば名簿も配給も早くなる。計算の上では、指揮系統の単一化は正しい。
だが、誰を立てるというのか。
ラケダイモンの重しが揺らぐ中、誰を上に戴いても、必ず選ばれなかった側の派閥が不満を抱く。港の門が閉ざされるか、あるいは軍が内側から割れるか。
いずれにせよ、僕の帳面はまた書き直しになる。
レオンは尖筆を握り締め、暗い海の方へ目を向けた。
船は来ない。重しは崩れかけている。
そして、帰還への希望は、静かにこの傭兵の集まりを内側から引き裂こうとしていた。




