第113話 ハルメネの港は、広すぎる
波の音と、それまでの退屈な船路を完全に忘れさせるほどの、強烈な平時の活気。
船がシノペの入植都市ハルメネの港へと滑り込んだ瞬間、甲板のあちこちから、地鳴りのようなギリシア兵たちの歓声が沸き起こった。
視界を埋め尽くすのは、頑丈に組まれた石造りの桟橋と、ひしめき合う無数の帆船。港の倉庫群の合間からは、塩漬けの魚や干物の匂い、そして炭火で炙られた羊肉の脂の香りが、海風に乗って途切れなく運ばれてくる。露店の主人たちが大声を張り上げ、色鮮やかな果物や葡萄酒の樽を並べていた。
つい先日までの凍える雪山や、カルドゥコイの険しい山地で味わった地獄が、まるで遠い異国の幻であったかのような錯覚すら覚える。
だが、レオンは桟橋に足を下ろした瞬間、安堵するよりも先に、激しい眩暈に似た戸惑いを覚えていた。
理由は単純で、この港は広すぎるのだ。
これまでは、正方形の陣という窮屈極まりない枠の中に一万人を押し込めていた。だからこそ、誰がどこにいて、一日にどれだけの穀物を消費するのかを、配給帳の数字の中に縛り付けておくことができた。
しかし、この境界のない石畳の上に飢えた獣たちを解き放てば、主計官の細い手から、すべてを統制するための紐が滑り落ちてしまう。
平和なギリシアの町、最高だな。兵たちが僕の配給帳をゴミのように無視して酒場に消えていかなければ、だが。
「おい、あっちに本物の葡萄酒があるぞ!」
「焼き立ての魚もだ!」
レオンの嫌な予感は、船を下りた兵たちの足取りによって瞬く間に現実のものとなった。
これまでの死線での抑圧や不満が、最悪の形で爆発している。重装歩兵の現場指揮官である百人隊長カレスでさえ、戦闘状態ではないという油断からか、配下の兵たちの列を強く縛ろうとしない。兵たちは懐のダレイコス金貨や銀貨を鳴らし、吸い込まれるように市中の酒屋や露店へとばらばらに散っていく。
「カレス殿!
まだ隊ごとの宿営区画が決まっていません、勝手に兵を散らせないでください!」
レオンの叫びなど、肉の焼ける煙と雑多な喧騒にかき消される。
「主計殿、堅いことを言うな。ここは味方の都市だ、敵の騎兵も来やしない。兵どもに少しは息を抜かせろ」
カレスはそう言って鼻で笑うと、自身も美味い酒を求めて露店の雑踏へと消えてしまった。
いや、息を抜くのは勝手だが、散らばった一万の胃袋をどうやって再びひとつの帳面に数え直せというのか。
組織というものは、前線ではなく後方から、それもこうした「仮の静けさ」の隙間から破綻していくものなのだ。頭の中で教養ギリシア語の警句が明滅するが、目の前で踏み荒らされていく秩序を見ていれば、理屈を飾っている暇はなかった。
「主計殿、この町のパンの値札を見たかい」
鼻を鳴らしながら歩み寄ってきたのは、現地雇いの調達役である隻眼のシラクサだった。彼は髭だらけの顎をさすりながら、手にした売却用の秤を雑に荷車へ放り出す。
「聞き込んできたが、昨日より二割上がってやがるらしいす。
干し魚も樽単位じゃ売ってくれねえ。
完全に『よそ者価格』ですな」
「二割……。同胞としての歓迎の宴を催してくれるわけではなさそうですね」
「冗談言っちゃいけねえ。
一万もの武装した敗走兵が港に転がり込んできたんだ、町の大旦那どもからすりゃ、歓迎どころか災害がやってきたようなもんだろ。
市場の価格を吊り上げることで、こちらの財布を食いつぶし、飢えで勝手に自滅する前に追い出そうって腹さ」
シラクサの言葉には、商人の欲と利害を見極めてきた現場に精通したものならではの、乾いた冷徹さがあった。
つまり、ハルメネの広さと明るさは罠なのだ。
山や雪、異民族という明確な敵が消えた途端、一万の胃袋は自らその規律という輪郭を解体し、市場という別の敵に捕食され始めている。レオンは、シラクサが持ち込んできた「パンの値札」という現物と、自身の兵站的危機感を瞬時に一致させた。
金のある重装歩兵はともかく、取り分の薄い軽装歩兵や非戦闘員から、真っ先にこの市場の牙に食い殺される。
「テオドルス!
バウコス殿!
これは、緊急事態です。
のんびり荷下ろしを見ている場合ではありません!」
レオンは従者兼書記官の若者と古参の荷駄頭を呼んだ。
「テオドルス、計算盤の横に図面を広げてください。バウコス殿、荷駄係の若い者を動かして、こことあっちの宿営地に指定されている広場に杭を打ち込みます」
「杭、ですか?」
若い従者のテオドルスが、蠟板を抱えたまま首を傾げる。
「そうです、そして木札と紐ですね。各隊の境界線を示し、ここが糧食の配給所だと明記するための木札付きの杭です。紐で動線も縛ります。
これ以上、兵たちの胃袋を散開させては、数を見積もる勘定そのものが成り立たなくなります。
兵達に規律を思い出させる必要があります!」
テオドルスは周囲の喧騒や、酔って通りかかる重装歩兵たちの暴力的な視線に怯えながらも、レオンの剣幕に押されて、必死に図面に ナニナニ隊、ナニナニ隊、給水所などと文字を書き連ね始めた。
古参の荷駄頭バウコスも、「まあ、あいつらが勝手にばらけちまってるうちに、場所を決めちまった方が駄獣もゆっくり休めるな」と、頑丈な天幕杭を石だらけの地面に強引に打ち込むよう指示していた。
乱雑な港内に杭が並び、仮の実務の拠点が定められた。
これが、レオンが辛うじて形にした秩序だった。
しかし、杭が打ち終わった頃には…素寒貧のもの達にはすでに手遅れだった。
主計所の配給の鐘を鳴らしても、集まってきたのは懐に銀貨を持たない下層の軽装歩兵や、疲れ果てた荷駄引き、非戦闘員たちだけだった。カレスたちの重装歩兵の区画は空ろで、彼らは市中の酒場や宿屋に流れ込んだまま、一向に戻る気配がない。
配給の列は細り、酒場へ消えた兵の名前だけが帳面に残った。
金を持つ者は町で食い、持たない者だけが粥の樽に並ぶ。
同じ軍の胃袋が、港の石畳の上で二つに割れ始めていた。
「……誰も、来ませんね」
テオドルスが寂しげに、薄くなった粥の樽を見つめる。
レオンは配給帳を抱きしめたまま、苦い無力感に唇を噛んだ。
管理された糧食の流れが寸断され、ハルメネの明るい港の中に、格差と不和の種が浸透していく。これは明らかにまずい兆候だ。
「レオン。手と口、動かして」
不意に、横から短い声がした。
護衛のダフネだった。彼女は長い行軍で薄汚れた外套を翻し、レオンのすぐ横に立っていた。その表情には、周囲の兵たちのような弛緩は一切ない。
ダフネは何も言わず、市中の露店で買ってきたらしい安物の、だが甘い匂いのする無花果をひとつ、レオンの口元へと雑に押し付けてきた。
「……ダフネ、これは?」
「ほんとは寝なよ、と言いたいけど無理そうだから。食べなよ。眼が…しん…目が濁ってる」
押し付けられた無花果を噛み締めると、口いっぱいに広がった甘さが、疲弊した頭に染み渡っていく。
「バカな連中だけじゃない。
みんな…海を見て山を忘れたね」
ダフネは港に響く笑い声や、酒の匂いの方を見つめながら、短く切るように言った。
「隊の縛りがほどけてる。でも、まだ、着いたわけじゃない。明日になれば、またみんな正気にかえる」
「ええ、本当に……忘れてくれた方が、帳面の上ではよほど楽なのですが、人間は計算盤の石コマのようにはいきませんね」
レオンが皮肉を交えて内心のぼやきを漏らした、その時だった。
港の入り口、桟橋の喧騒の向こうから、空気を引き裂くような触れ役の大声が響き渡った。
「ケイリソポス将軍が戻られたぞ――!」
それは、並外れた大声を持つトルミデスの、よく通る声だった。
本国シノペからさらなる大船団を連れて、今まさに桟橋に到着したという布告。
「戻った! これで本当に帰れるぞ!」
兵たちが一斉に歓声を上げ、レオンが打ち込んだばかりの配給の杭をなぎ倒す勢いで、一斉に桟橋へと駆け出していく。
救世主の帰還に沸く港の中で、しかしレオンは、戻ってきた男が「本当に我々を救う答え」を持っているのか、それとも新たな内紛の引き金になるのか、激しい胸騒ぎとともに閉じられた配給帳を強く握りしめた。
絶対にそんな上手い話なんかないに違いない…移動手段も金もどうにかできるなんて…
兵たちは歓喜している。
だが、レオンは懸念している。
そして、桟橋に立ったケイリソポスの肩は、彼らの歓声の大きさに比べて、ひどく重そうに見えた。




