第112話 見せ物も武器のうち
将軍達は、都市側との交渉は…うまくやってくれた。
シノペ本国の近郊まで、全員を渡らせる算段をつけたのだ。
正直なところ、軍が瓦解の危機にあったので、レオンとしては朝令暮改と言われようと、両手を上げて歓迎だった。
ただ、一事を除いては。
我が軍の困窮を悟らせず、なおも危険な集団であると見せつけるための饗応の席を整えよ――。
一体なんという条件を結んできてくれたのか……つまりパフラゴニアを武力を使わず黙らせろということなのだろう。
都市側からするとパフラゴニアと揉めたくはないが、舐められたくはないと、あげく、他シノペ本国(本都というべきだろうか)までの船は大盤振る舞いするから、自腹で何とかしろと。
まあ、そういうところなのだろう。
クセノポンたちから下されたその命令を頭の中で反芻しながら、レオンは仮設幕の中で配給帳を血眼でめくっていた。
あまりにも理不尽な無理難題に、尖筆を握る指先が怒りでかすかに震える。
だが、かかっているものの大きさも分かっている。
正直、軍の統制は限界に近付いている、まさに、渡に船なのだ。
それが余計に、レオン自身をやる場のない怒りと焦燥に駆り立てる。
家政という観点からすれば、これは明らかな資源の浪費であり、ただの消耗でしかなかった。
ただでさえシノペ本国近郊ハルメネへの移動を考えると、麦袋の底がちらちら見え始めている状況だというのに、そして、そろそろ兵達に分配するわけ前の捻出に頭を捻らないといけないのに……なぜ見栄のために貴重な財産を削らねばならないのか。
配給の運用が継続不能になる兆しは、すでに帳面の上に数字として現れているのだ。
「ここでケチりゃあ、よそ者はこちらの足元を見てくる、主計殿」
暗い幕の隅から声をかけてきたのは、物資調達役の隻眼のシラクサだった。彼はふしくれだった指先で顎をさすりながら、乾いた笑みを浮かべる。
「パフラゴニアの連中だって、この軍が飢えていると察した瞬間に『今なら安く叩ける』と相場を踏んでくる。
シノペの連中も、パフラゴニアと潰しあってくれるなら、約束なんか反故にするだろうさ。
精強なふりをするための肉と酒は、ここでは武器と同じ価値があるのさ」
「理屈は分かっています。
頭ではそれが最良の手であると理解できてるんです。
ですが、無いものは無いのです」
レオンは丁寧な口調のまま、行間に苛立ちを混ぜて言い返した。
それでも、シラクサの言う通り、ここで弱みを見せれば次の寄港地で門を閉ざされかねない。
陸路の移動なんて話になった時、正直、次のギリシア人の都市までにこの集団が存在しているかどうかわからない。
レオンは溜息を噛み殺し、荷駄頭のバウコスを仮設の家畜囲いへと急がせた。
「どの牛を殺るんだ」
「……一番見栄えが良く、ですが長距離の歩行には耐えられそうにないものを……すこし足を引きずっている牝牛がいたはずです」
バウコスと短い言葉を交わし、戦利品として確保していた家畜の中から、ギリギリの妥協点を探って饗応用として選定させる。
やがて夜が訪れると、港の広場には巨大な火床が組まれた。
パフラゴニア人との緊張を孕んだ休戦交渉の場は、そのまま夜の宴席へと姿を変える。迎え入れられたパフラゴニアの使節たちは、刺繍の施された豪奢な外套を羽織り、香料の匂いを漂わせながら、ギリシア側の出方を値踏みするような鋭い目で炎を見つめていた。
レオンは給仕の従者に混じり、大火床の陰に身を潜めていた。
少しばかり湿った薪は、放っておけば煙ばかりを上げて使節たちにこちらの不手際を露呈させてしまう。火床係の若手兵カリアスが、焦った手つきで、なんとかしようと、枝や棒切れを差し込む。
レオンは気配を殺し、その火の奥に向けて、手のひらから指先ほどの微小な火を送った。
脳裏に描くのは、理論の塔で叩き込まれた実技魔法の術式だ。出力は蝋燭から松明未満。戦況を覆すような火力は微塵もないが、湿った火種を素早く燃え立たせるための補助としては、この微弱な火魔法で十分だった。
湿った薪の内側に、ようやく赤い筋が走る。
大火床がごうと燃え上がったのは、魔法の力というより、カリアスの薪の積み方と風向きがかろうじて噛み合ったからだった。それでも、使節たちの顔の筋肉が驚きにわずかに強張るのを見届けるには十分だった。
直後、レオンの指先にじわりとした痺れが走った。
爆ぜる火の粉を凝視し続けたせいで、目の奥に鋭い疲労感が残り、頭痛がこめかみを締め付ける。これが、出力の低い僕が魔法を扱った際の、いつもの安っぽい代償だった。
レオンは頭痛を堪えながら、踊りの巧拙ではなく、供出された肉の減り方、使節の視線の動き、そして背後に控える護衛兵たちの警備の穴をひたすら数え続ける。
葡萄酒が回り、角笛の音が夜の港に響き渡ると、ギリシアの兵たちが次々と広場の中心へと躍り出た。
始まったのは、彼らの郷土に伝わる「武装舞踊」だった。
重装歩兵や軽装歩兵が、それぞれの手に木盾と短剣を握り、炎の周りで輪を作る。肉の脂の匂いに生唾を飲んでいた兵たちは、久しぶりに腹の底から笑い、声を張り上げていたが、その踊りの足取りは恐ろしく凶暴だった。
盾を激しく打ち鳴らし、肉体を限界まで跳躍させ、汗を吸った短剣を翻す。その一挙手一投足は、洗練された遊戯であると同時に、「いつでもお前たちの首を刎ねられる」という無言の脅迫そのものだった。砂埃を巻き上げるギリシア兵たちの武の気配に、パフラゴニアの使節たちは肉を囓る手を止め、明らかに気圧されていくのが分かった。
「自分の口に一口も入らないのに支払いだけさせられてる気分」
すぐ傍らに立つ護衛のダフネが、不機嫌そうに短く呟いた。
「……そうですね。僕も塔にいた頃なら、あれをただの浪費だと笑ったはずです」
レオンは目の疲労を和らげるように瞬きをしながら、静かに応じた。
「でも、現実はままならないものです。
どうしても、必要がある無駄遣いもあるんだなと......彼らの様子を見て理解しました」
ダフネはレオンの言葉に小さくため息をした。
しかし、彼女は何も言わなかった。
「その通り、見せ物も武器のうちだ、主計殿」
見張りの配置を修正し終えたミュロンが、生皮の靴で砂を踏みながら歩み寄ってきた。彼は人相の悪い顔を大火床の光に歪ませ、使節たちを顎で指し示す。
「あいつらのツラを見ろ。これだけ凶暴に踊り狂う体力が残ってる一万人を、わざわざまともに敵に回そうとは思わねえはずだ。安いもんだろ、歩けねえ牛の一頭くれえ」
「安くはありませんよ」
レオンは水袋の水を一口含み、配給帳の端を睨んだ。
「明日の朝、この消費を帳面の上で辻褄合わせしなければならない僕の身になってください。あの牛の分だけ、明日の粥か、或いは帰り着いたあとの取り分が目に見えて薄くなるのは確定しているのですから」
「はっ、違ぇねえ。
確かに、そいつは主計が頭を悩ます必要のある仕事だ」
ミュロンは乾いた声を上げて笑い、再び外縁の見張りへと戻っていった。
夜が更ける頃には、パフラゴニアの使節たちはギリシア軍の「精強さ」を脳裏に焼き付け、一時的な相互不侵の約束を取り付けて夜闇へと去っていった。
都市側から参加していた実務官たちも、この軍の練度を改めて確認でき、自分たちの船を用意するという選択が間違いでなかった点を再認識したようだ。
ひとまず、最悪の奇襲や戦闘は回避された。
見せ物は、『武器』として働いた。
しかし、使節たちを送り出した後の仮設幕に戻ったレオンの前に残されたのは、やはり残酷な数字の現実だった。接待のために穀物と家畜を消費した結果、明日からの日常の消費を削るか、ギリシア世界の中心まで戻った時の取り分を減らすか…現実世界の痛みが帳面の上に残されている。
(やっぱりこれは、だめだな……どこかでもう一仕事してもらわないと)
レオンが疲弊した頭で尖筆を握り直した、その時だった。
静まり返った港に、突如として見張りの角笛が鳴り響いた。
敵襲のそれとは異なる、遠くへ向けられた合図の音。
レオンとダフネが同時に幕の外へ視線を走らせると、海の向こう、夜霧を突いて無数の黒い船影が港へと滑り込んでくるのが見えた。シノペの本国が手配した、僕たちを次の地へと運ぶための船だった。
普通、夜間の航行はしない。
よほど急いでくれたようだ。
いよいよ、シノペ本国の近郊「ハルメネ」への大移動が始まる。
広がる船影を凝視しながら、レオンは次の地で待ち受けるであろうさらなる実務の重圧を予感し、冷たい海風の中で小さく身震いした。




