第111話 丘の上のパフラゴニア人
丘の上の稜線に、それは並んでいた。
遮るもののない乾いた大地に、十数騎のパフラゴニア騎兵が整然と馬首を並べている。彼らは手綱を荒く引くこともなく、ただ微動だにせず港を見下ろしていた。海風を浴びた馬の鞍の革が鈍く光り、突き立てられた槍先が、雲の隙間から差し込む陽光を反射してきらりと明滅する。
襲ってくるわけではない。ただ、見ているのだ。
それが、仮設の実務屋の天幕の隙間から丘を見上げるレオンの胃の腑を、じわじわと冷やしていく。
中央の学問の塔やタナグラの地方塔では、異民族の戦術だの、騎兵が持つ突破力の脅威だのを、羊皮紙の上の知識として大層に教わったものだった。しかし、現実の敵が最初に仕掛けてきた戦いは、突撃ではなく「観察」だった。
あんなところまで近づけてると言うことは、いつでも僕らの首は狩れるのか…レオンは嫌だなぁと思った。
少し度胸がつきすぎて来たせいか、さほどの危機感はない。
彼らが何を値踏みするように観察しているかといえば、こちらの醜態だった。乗船名簿の順列をめぐって取っ組み合いの喧嘩を始め、配給幕の前で顔を真っ赤にして怒鳴り合っているギリシア兵たちの姿だ。
僕たちの内紛は、あいつらに完全に筒抜けだ。
まるで、皮が弾けて腐りかけた果実に群がる蟻が、どこから顎を突き立てるべきか品定めをしているかのようだった。戦場で槍を交えるよりも、このような形で見下ろされることのほうが、はるかに言葉にできない恥辱と危うさを覚えさせる。
「レオン。インク、風、机、あ…」
短く、低い声がすぐ横から響いた。簡潔すぎてレオン以外には意味がわからないが…
ダフネだった。彼女はレオンの内心の動揺を咎めるようなことはせず、ただ海風でバタバタと暴れる羊皮紙と、机の上で傾きかけていたインク瓶を、無言のまま日に焼けた手で押さえてくれた。
長いムダ口この護衛は決して口にしない。いや、最近はそうでもないか…
ただ、その指先が羊皮紙の端をしっかりと固定しているだけで、不思議と帳面をめくる指の荒ぶりが少しだけ収まる。
「……ありがとう、助かります」
レオンは短く応じ、視線を丘から手元の港の図面へと戻した。
あいつらがただ見ているだけだとしたら、それは「いつでも奪える綻び」がこちらにあると知っているからだ。
レオンの目は、小競り合いを続ける重装歩兵たちではなく、港の「物の配置」に向かった。
兵たちの喧嘩の熱に隠れて、実務上の重大な異常、あるいは欠陥が放置されている。港外の給水場近くに、数日分のみずがめと皮袋、船に積み込む予定の麦袋が、何の防壁もなしに露出したまま放置されていた。
山を越え、泥道を抜けてきた勢いのまま、雑に下ろされた荷車の残骸のような積み方だ。あの位置は、丘の上の騎兵からすれば、一駆けで掠め取れる絶好の的に等しい。
その、嫌な予感が形になるのは一瞬だった。
丘の上の騎兵のうち、四、五騎が不意に手綱を緩め、乾いた斜面を滑るように駆け下りてくるのが見えた。
標的は、給水場で荷車を転がしていた数人の荷駄引きたちだ。異国の農民上がりの彼らは、ひづめの音に気づいた時にはすでに退路を塞がれかけ、悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。慌てて手を離した荷車が坂を転がり、貴重なのめる真水が砂に吸い込まれていく。
「ペルタスタイ! 左の死角から回り込め!」
誰かが鋭く叫んだ。
外縁のまばらな警備線に配置されていた軽装歩兵の一隊が、獲物を見つけた猟犬のような速さで飛び出した。彼らは重い青銅の鎧をまとわない代わりに、生皮の靴で砂を蹴り、驚くべき機動でパフラゴニアの馬の進路を遮る。
短い投槍が空を切って数本走り、地面に突き刺さって激しく震えた。
大きな戦闘にはならなかった。パフラゴニアの騎兵はギリシア兵の反応の速さを察すると、深追いせずに手綱を引き絞ったが、そのうちの一騎が砂に足を取られて落馬した。そこへ軽装歩兵たちが群がり、瞬く間に男を取り押さえる。
「捕虜だ! 一匹つかまえたぞ!」
「殺すな。縛り上げろ。
武器だけ取って、向こうから見える場所に座らせろ。交渉だ、戦にするな」
兵たちの勝ち誇る声が上がったが、レオンはそれを聞いて溜息をついた。
勝利でも何でもない。敵の騎兵の引き際の早さは、まるで「こちらの出足の速さを測るだけ測った」と言っているように見えた。
後に残されたのは、怯える荷駄引きたちと、扱いを誤れば交渉の火種になる捕虜だけだった。
「喧嘩はそこまでです!」
レオンは実務幕を飛び出し、まだ乗船順で言い争っていた兵たちの間に、割って入るように配給帳を叩きつけた。唐突に現れた帳簿役に、重装歩兵側の顔役であるカレスが不機嫌そうに視線を落とす。
「なんだ、主計。
今回は簡単には引けないんだ…ちょっと黙ってろ。
今はお前のような文官の出る幕ではない」
「そんなことはどうでもよろしい!
あそこに露出している水と麦袋を奪われると、皆飢えますよ?」
レオンは港の端を鋭く指差した。
「あんな外縁に防壁もなしに物資を置いておくなど、敵の騎兵に『どうぞ奪ってください』と言っているようなものです。今すぐ隊の兵を動かして、倉庫の陰なり、安全なとこに回収させてください」
カレスは鼻で笑い、肩をすくめた。
「荷物の片付けなど、身軽な軽装歩兵どもにやらせればよかろう。俺たちの仕事は戦列を維持することだ」
「その身軽な軽装歩兵たちは、今しがた敵の騎兵を追い払うために走り回ってます。逃げた敵兵の追跡にも出てます。
それに、もし次の襲撃であの水と麦袋がすべて焼き払われたら、明日の朝、カレス殿、あなたの隊の重装歩兵たちに配る粥が帳面の上から完全に消滅します。それでも構わないと言い切れるなら、そのままここで名簿の文句を言い続けてください」
「な……」
カレスが言葉に詰まる。
難解な家政や統率の議論を仕掛けても、現場の荒くれ者には響かない。だが、「明日の自分の粥が消える」という胃袋の危機だけは、彼らにも一瞬で理解できた。
「…カレス殿、あれ自分の隊に支給された糧食って気づいてなかったんですか?」
「…先に言えよ…」
「カレス、テメェも自分の隊くらい抑え込めよ、部下に舐められてんじゃねえのか?」
低い、濁った声が背後から重装歩兵たちを圧迫した。
軽装歩兵の半隊長であり、荷駄護衛頭でもあるミュロンだった。彼は人相の悪い顔をさらに歪め、カレスの胸元を睨みつけるように前に出た。
「おい、ホプリタイの旦那がた。お前らの自慢の青銅盾は、身内の席取りの時だけ前に出る代物なのかよ。外から身内のみっともねえツラを見せるんじゃねえ。主計殿の言う通りに足を動かせ。それとも、あいつらに『俺たちは今もめてます』って看板でも掲げるか?」
ミュロンの現場語は、釘のようにカレスたちの傲慢さを突き刺した。カレスは忌々(いまいま)しそうに舌打ちをすると、「……おい、行くぞ。荷を引け」と、配下の重装歩兵たちを動かし始めた。
「軽装兵は外縁の死角を埋めろ。肩並べて、港の内側の混乱を外から隠すんだ」
ミュロンが兵たちの肩を叩きながら矢継ぎ早に命令を飛ばし、物資の回収と警備線の再配置が始まった。
露出していた水や麦袋が倉庫の奥へと引き込まれ、港の混乱は外から見えにくく遮蔽された。これが、レオンがこの場でもぎ取った港の秩序の回復だつた。
なんにせよ穴はひとまず塞がれたはずだ。
しかし、実務の再配置というものは、どこかを締めれば必ず別の場所がきしむ。
「ちっ、また俺たちが外で泥を被るのかよ」
外縁の死角を埋めるために配置された軽装歩兵たちの間から、低く、湿った不満が漏れ聞こえてきた。
「重装歩兵の旦那がたは、船の席を値踏みしながら、中でぬくぬくと荷物待ちか。俺たちは敵の騎兵の矢面に立たされて、骨折り損もいいところだ」
レオンはその声を耳にして、苦い泥を飲み込んだような気分になる。
一時的に港の守りは硬くなった。しかし、名簿をめぐる不信に加えて、「兵科ごとの感情的対立」という新たな綻びが、配給帳の裏側にじわりと染み込んでいくのを感じていた。正しく手順を組み替えたところで、兵たちの心に溜まる不公平感までを消し去ることはできないのだ。
「レオン。使者、来たよ」
ダフネの短い言葉に、レオンはハッとして丘を見上げた。
向こうは、こちらが捕虜をどう扱うかを見てから、使者を出してきたのだ。
再配置が辛うじて完了したその境界線に向けて、丘の上から三騎のパフラゴニア兵が、ゆっくりと馬を進めてくるのが見えた。彼らは槍を高く掲げ、盾を背へ回した姿勢を取っている。こちらに戦意がないことを示すためだ。
先頭の馬に乗る男は、風に翻る少し立派な外套を羽織っていた。
いよいよ、敵地との直接の折衝が始まる。
レオンは、近づいてくる使者たちの姿を静かに見据えた。




