第110話 船が来ても、置いていかれる者がいる
波の音と、海風に乗って運ばれてくる魚と潮の匂い。
港には数隻の商船が寄港し、太い帆綱が軋みを上げ、日に焼けた帆が次々と畳まれていた。港の倉庫群の向こうには、これまでさんざん見せられてきた乾いた土や雪とは違う、どこまでも青い水面が広がっている。
過酷な雪山と、果てしない泥道を越え、軍はついに海路という帰還の希望を物理的な形で捉えようとしていた。
はじめは歓声があがった。だが、それはすぐに『誰が先に乗るのか』という疑念に押し流された。。
「おい、誰が最初に乗るんだ」
「アテナイ人の将軍が、裏で商人から銀貨を受け取ったらしいぞ」
「おれはスパルタが金を払ったって聞いた。
金を出した隊が先だという噂だ」
「ふざけるな、置いていかれるのは誰だ。歩けねえ奴はどうなる」
仮設の実務幕の中で、レオンは蠟板に尖筆を押し付けながら、外から絶え間なく聞こえてくるざわめきに耳を傾けていた。
聞こえてくるのは安堵の声ではない。疑心暗鬼と、先を越されることへの焦燥だ。
レオンは手元の計算盤の珠を弾き、冷たい現実を数字で確認する。
港に集まった船の数、船底の深さ、すなわち喫水線から割り出した積載可能重量。そして、一万人ほどの兵と非戦闘員の総数。計算盤の珠を端まで弾くまでもなく、全員が一度の船旅で乗り切れないことは自明の理だった。
帰れるかもしれない。
その希望が見えた瞬間に、軍は一つにまとまるどころか、「自分だけは損をしたくない」「置き去りにされたくない」という私欲と不信の塊へと変質していた。
ひどい話だ、とレオンは内心でぼやいた。死にかかっている時はあんなに必死に肩を貸し合っていたというのに、助かりそうになった途端にこれか。
「主計殿。まさか俺たちを後回しにするつもりじゃあるまいな」
実務幕の入り口を塞ぐように踏み込んできたのは、重装歩兵だった。彼の分厚い木盾と青銅の脛当て(すねあて)には数え切れないほどの傷が刻まれているが、その声には最前線を担ってきた者としての確かな自負があった。
「俺たちが最前線で血を流し、戦列を維持してきたから、この軍はここまで来られたんだ。戦った者が先に乗る、それは当然の権利だろうが」
彼の言葉は、重装歩兵としての損耗と責任を背負った彼らなりの「正論」だった。最も重い鎧を着て、最も死に近い場所で陣形を組んできたのだから、報われてしかるべきだという理屈だ。
しかし、それを黙って聞いている現場ではない。
「ふざけるな!」
外縁の警備から戻ってきたばかりの軽装歩兵の分隊長が、背後から噛み付いた。その足元はすり減った生皮の靴で泥にまみれ、着ている外套も擦り切れている。
「野営の見張りも、先行の偵察も、泥臭い仕事は全部俺たちに押し付けておいて、船の席に座る時だけ特権面をする気か! 少しばかり鎧が重いからって、俺たちを使い捨てにするつもりかよ!」
「なんだと、底辺の投槍野郎が、もう一度言ってみろ!」
幕の中で怒号が交錯する。兵科間の対立は、船という限られた席を前にして最悪の形で引火しようとしていた。騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたカレスが腰の短剣に手をかけ、カレスが加勢する気かと疑った軽装歩兵の分隊長が一歩下がりながら身構える。
「おい、てめえら」
そこに割って入ったのは、荷駄頭のバウコスだった。彼は油と泥にまみれた太い腕を組み、カレスたちをねめつけた。
「人だけ帰って、向こうの港に着いたら何を食うつもりだ。荷車ごと船に載せろとは言わねえ。だがな、最低限の麦袋と、それを運ぶ駄獣は船に乗せねえと、着いた先で飢え死にするぞ。それともお前ら、腹が減ったら自分の盾でも囓るつもりか」
バウコスの言葉は、武功や誇りといった名誉の話ではなく、単純で切実な「現物」の重みを持っていた。
レオンは尖筆を置き、ゆっくりと顔を上げる。
幕の入り口の向こう、怒鳴り合う指揮官たちの背後から、遠巻きにこちらを見つめている者たちがいる。負傷兵を示す薄汚れた木札を首から提げた者や、足を怪我して引きずる従者、重い荷籠を背負ったままの荷駄引きたちだ。
彼らは怒鳴らない。ただ、すがるような目でレオンの手元にある帳面を見つめ、「自分の名前は名簿にあるのか」と怯えた視線を向けてきている。
その無言の圧力は、重装歩兵の怒号よりもはるかに重く、レオンの胃の腑を圧迫した。
全員を納得させることはできない。
兵科の誇りや、過去の功績という「感情の理屈」で席を割り振れば、不満を持った隊から軍の秩序は瓦解する。
塔で習った言葉が、ふと頭をよぎった。
勘定。感情を交えず、数字だけで物事の得失を割り切る技術だ。
だが、その数字の先で腹を空かせ、置き去りにされて死ぬのは、血の通った人間だった。
「……落ち着いてください」
レオンは静かに、だがどこか冷ややかな声で口を開いた。喧騒の中にあって、ことさら声を荒らげないその響きが、逆にカレスたちの動きを止めた。
どこかフィロンを彷彿とさせる声だった。
「功績で席は決めません。
船に積めるのは現実の積載量を超えない範囲です。
つまり重さと広さを基準にして、置いていけば死ぬ者から先に積むべきです」
「あ?主計!お前はいつもわかりにくい!もっと簡単に言え」カレスが眉をひそめながら言う。
「船に載せれるものをきめるは『重量』と『容積』です」
レオンは蠟板を指の背で叩いた。
「盾、槍、食料、水、あとは葡萄酒? そして負傷者が横たわるために必要な船底の空間。それらから逆算して、この軍を再分類して割り振ります」
感情論を帳面から切り捨てる。
歩ける者は陸路の割合を増やす。船でなければ確実に命を落とす負傷者を優先する。そして、残せば軍全体が破綻する麦袋と水樽の重量を、物理的な限界まで船に確保する。
それが、一番死者が少なくなる「全体の手順」だった。
「テオドルス」
「は、はいっ」
幕の隅で縮こまっていた若い従者に、レオンは蠟板と真新しい羊皮紙を差し出した。
「これを羊皮紙に書き写してください。三部です。急いで。書き上がったら各隊の代表に見せます」
一人で抱え込んで密室で決めれば、賄賂の噂が立つ。名簿を公開し、帳面の上に隠し立てはないと示す透明化の手順を作るしかない。
これが、今のレオンに出せる精一杯だった。
しかし、その透明化の手順は、同時に劇薬でもあった。
テオドルスが急ぎ書き写した乗船名簿の写しが幕の前に張り出された途端、外で爆発的な怒号が上がった。
「なんだこれは!
なぜ俺たちの隊が半分陸路に回されてるんだ!」
「ふざけるな、あっちの隊のほうが負傷者の扱いが多いじゃないか! 贔屓だ!」
隠れていた不満は、名簿に名前と順番が刻まれた瞬間、怒りの宛先を得た。透明にしたことで、兵たちは安心するどころか、比べる相手を見つけてしまった。
殺気立った数人の兵が、名簿を引き剥がそうと実務幕へ詰め寄ってくる。
「主計てめえ……いい加減な数字書きやがって!」
怒り狂った兵が手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
レオンの視界が遮られた。
ダフネだった。
彼女は無言のまま、レオンと張り出された名簿の前にすっと入り込んだ。手には槍も短剣も持っていない。ただ、立ち位置を塞ぐようにそこに立つ。それだけで、飛びかかろうとした兵たちが一瞬ひるむ。
彼女はレオンの身体だけでなく、レオンが守ろうとしている「秩序の場所」を物理的に塞いで守っていた。
「言うなら今だ、主計殿」
背後から、ミュロンの低くしゃがれた声が飛んできた。
「お前が黙ると、声のでかい奴が勝つぞ。
帳面に書いたんなら、腹くくって読め」
これ以上ないほど正確なタイミングだった。レオンは一つ息を吸い込み、ダフネの肩越しに前に出ようとした。
だが、言葉を発するより早く、ミュロンが鋭く舌打ちをした。
彼の視線は、怒鳴り合う兵たちを越え、港のずっと向こうへ向いていた。
レオンもそちらを見る。
港外のなだらかな丘。その乾いた稜線に、馬の影が張り付いている。
一つ、二つ、三つ。
パフラゴニア人の斥候だ。
彼らは襲ってこない。ただ、丘の上から静かにこちらを見下ろしている。
血眼になって名簿の順番を争い、帳面一枚で怒鳴り合っているこの軍を。帰還の船を前にして、内側から割れかけている一万人を。
背筋に冷たいものが走る。
海は目の前にある。船もある。
すぐそばにギリシア人の町もある。
だが、ここはまだ辺境。
安全なギリシアの内海の土地ではないのだ。




