第109話 噂は船より速い
港に集まりつつある船の群れが、夕闇の黒海に無数の影を落としていた。
ヘラクレアやシノペから徴発された商船、沿岸の小舟が、波に揺られながらマストを軋ませている。これだけの船が揃い始めたこと自体は、海路による一斉帰還という方針が、いよいよ現実の形を取り始めたに違いなかった。
しかし、野営地に満ちている空気は、生還を目前にした歓喜などでは決してなかった。
むしろ、海が穏やかになればなるほど、陣幕の隙間に渦巻く不和の匂いは、より生臭く変質していた。
シノペの使節との会談内容が、どのような経路を辿ったのか、公式の布告よりも早く兵たちの耳へと届き、奇妙な誤解と期待、そして最悪の猜疑心を呼び起こしていたからだ。
噂というものは、どんな快速船よりも速く人間の間を駆け抜けるものらしい。
「おい、聞いたか。クセノポン将軍は、僕たちをこの地に残留させて、新しい植民都市を建てるつもりらしいぞ」
配給卓の近くに置かれた焚き火の周りで、軽装歩兵の若手火の番でもあるカリアスが,怯えたような声を仲間に漏らしていた。
「定住だって?
冗談じゃない。僕はボイオティアの家に帰って、温かいスープが飲みたいんだ。こんな異民族に囲まれた岬の果てで、一生を終えるために雪山を越えてきたわけじゃない」
「いや、重装歩兵の奴らは別のことを言っていたぞ」
別の兵士が、不満げに薪を火床へと放り込んだ。
「将軍たちがシノペの商人から密かに銀貨を受け取って、軍をわざと足止めしているんだってな。
商人どもにしてみれば、僕たちがこのまま海路で去ってくれたほうが、自分たちの交易路が荒らされずに済むから、金を掴ませて早く追い出したがっているらしい。
そんでもって、あの船に乗る順番は、金で買われているって話だ」
一体全体、なぜあいつらはそう次から次へと、根拠のない陰謀論を思いつけるのか。
配給帳の端に、新しく徴発した船の容積と乗船可能人数の計算を書き込みながら、レオンは激しい頭痛を覚えていた。
クセノポンが軍の定住案を模索していたのは、あくまで『全員分の船が揃わなかった場合の生存の選択肢』としてであって、兵を強制的に残留させるためではない。商人が将軍たちに働きかけているというのも、軍の滞在費や船賃を巡る実務的な折衝の結果にすぎないのだ。
だが、腹を空かせ、故郷への焦燥を募らせている兵たちにとって、帳簿の上の理屈など何の意味も持たなかった。
帰還の希望が見えた瞬間、一万弱の集団は「生きて帰る」という一つの目的を失い、「誰が先に帰るか」「誰がより多くの分け前を得るか」という,醜い配分問題によって内側から割れ始めていた。
「ずいぶんと賑やかな帳面だな、兵站監殿」
不意に、背後から荒っぽいドカドカとした足音が近づいてきた。
軽装歩兵の半隊長であり、荷駄護衛頭のミュロンが、大きな水がめを配給卓の横にどかりと置きながら、僕の持つ蠟板を覗き込んできた。
「ミュロン殿」
レオンは丁寧な口調を保ったまま、ため息混じりに尖筆を置いた。
「耳を塞ぎたくなるような噂ばかりが流れています。兵たちの誤解を解かなければ、明日の乗船準備の隊列すらまともに組めなくなりますよ」
「ちがいねえ…ちがいねぇが…」
ミュロンは人相の悪い顔を歪め、港の酒場から漏れてくる兵たちの囁き声へと視線を向けた。
「あいつらからすりゃ、誤解だろうが事実だろうが関係ねえんだよ。目の前に船が並んでるのに、自分がその船底に荷物みたいに押し込められるか、それともこの泥道に置き去りにされるか、それだけが知りたいのさ。いくら坊ちゃんが綺麗な数字を並べたところで、あの重装の顔役どもでも、抑えられると思うか?」
「納得させてもらわねば困ります。この乗船名簿の割り振りは、船の積載限界と軍全体の生存率を逆算した結果です……理屈の筋は通っていますし、説明もしたはずです」
レオンが蝋板を指先で叩いて主張すると、ミュロンは鼻を鳴らし、剥き出しの現実を突き付けてきた。
「頭でわかってるのと、腹落ちしてるのは違うんだよ、坊ちゃん」
その一言は、正しいが、まったく救いになっていない。
互いに変に正しいという嫌な重みを持っていた。
「どれだけ紙の上で正しい順番を決めたところでな,あいつらの耳には『あいつは銀貨を受け取って先に船に乗る』って噂のほうがよっぽど綺麗に聞こえるのさ。
妬みとか…まあそういう感情はよ、敵よりも先に、味方を疑うもんだ」
ミュロンの言う通りだった。
これが、沿岸で僕たちが突きつけられている、最悪の利害衝突の正体だった。
どんなに完璧な配分を組み立てても,人間の欲や恐怖、そして他者への不信というドロドロとした感情は、説明だけで消し去ることはできない。
全員を納得させることの不可能性を前にして、レオンは自分の知性が、この巨大な人間の塊を前にしてどれほど無力であるかを知り、奥歯を噛み締めた。
これまでは、ただ「生きて帰る」ために帳簿をつけていればよかった。だが、生還が見え始めたこの場所では、誰が名誉を得て、誰が損失を被るかという、政治の醜い綱引きに巻き込まれることになる。
数字で足りる問題と、欲で動く問題は、全く別物なのだ。
一度削れた内部の「信用」は、どのような魔法を使っても、元の形には戻ってくれない。
「……レオン」
不意に、すぐ横から低く短い声が響いた。
ダフネが、いつの間にか僕の配給卓のすぐ傍らに立ち,軍の共有物資である薄い外套を、僕の痩せた肩の上から無言のまま掛け直していた。
夜の潮風は、僕たちのボロボロの衣服を容赦なく冷やし始めている。
山から下りたばかりの頃は耐えれたが、今は体が平地に慣れてしまい、寒さを感じるようになった。
彼女は、兵たちの噂話に対しても、僕の計画の成算に対しても、何かを言うことはない。ただ、冷えかかっていた僕の身体をその厚い布の温かさという物理的な動作だけで支えてくれていた。
「ダフネ。あなた、冷えないのですか」
「平気。レオンのほうが、顔が白い」
ダフネは短く切るような聲音で答え,槍に結わえてある仮留め馬具から流用した革紐を締め直しながら、野営地の暗がりに目を光らせた。
「みんな、帰る方法を選んだけど、その方法にも値段がある……あんたのせいじゃない」
「……ええ……ただ、みなの気持ちもわかるので……余計に嫌なんです」
レオンは、肩に掛けられた布を握り締めながら、内心で小さくぼやいた。
誰がどんな不満を口にしようとも、僕は名簿を書くのをやめるわけにはいかない。全員を納得させる道がないのであれば,せめてこの軍が内側から完全に瓦解して破綻するのを防ぐ順番を,帳面の上で探し続けるしかないのだ。
僕は少しだけ呼吸を整えた。
港の方では、畳まれた帆の影で、怪しげな交易商人と幾人かの将軍たちの密談が,今夜も人目を忍んで行われているはずだった。
誰の名前が消され、誰の順番が繰り上がるのか。船を巡る噂と疑心暗鬼は、僕たちの軍のまとまりを、確実に、そして冷酷に割り始めている。
船が集まった裏で,軍の背骨であったはずの互いへの信用が削れていく、それは明確なひび割れとなって足元に広がっていた。
ここコテュオラでの海路選択の結末は、帰還の終わりを意味してはいなかった。
むしろ、次なるやっかいごとへの決定的な幕開けにすぎないのだということを,レオンは理解していた。
海はある。船も、そこにある。
だが、その希望がもたらす重圧を前にして,レオンは再び尖筆を強く握り直し,暗くなっていく海のざわめきと、決して一枚岩にはならない人間の群れの顔をただ冷徹に睨み据え続けた。




